金田一耕助ファイル2    本陣殺人事件 [#地から2字上げ]横溝正史   目 次  本陣殺人事件  車井戸はなぜ|軋《きし》る  黒猫亭事件    本陣殺人事件     三本指の男  この稿を起こすにあたって、私は一度あの恐ろしい事件のあった家を見ておきたいと思ったので、早春のある午後、散歩かたがたステッキ片手に、ぶらりと家を出かけていった。  私が岡山県のこの農村へ疎開して来たのは、去年の五月のことだが、それ以来、村のいろんな人たちから、きっと一度は、聴かされるのが、|一柳家《いちやなぎけ》のこの|妖《よう》|琴《きん》殺人事件である。  いったい人は私が探偵小説家であることを知ると、きっと自分の見聞した殺人事件などを話してくれる。この村の人たちもご多分に|洩《も》れずそれだったが、その人たちの誰でもが、きっと一度は持ち出すのが、この話であった。それほどこの事件は、土地の人々にとって印象的だったと見えるのだが、それでいてその人たちの多くは、まだこの事件のほんとうの恐ろしさは知っていなかったのである。  いったい人が語ってくれるそういう話に、語り手が感じているほども面白い事件はほとんどないといってよかった。ましてや、それが小説の材料になるというような事は、少なくとも私には今まで一度もなかったことだが、しかしこの事件は違っているのである。私は、はじめてこの話の|片《へん》|鱗《りん》をきいたときから、非常な興味を覚えたのだが、やがて、この事件にもっとも精通しているF君から、事の真相を聞くに及んで、なんともいえぬ大きな|昂《こう》|奮《ふん》にとらえられたものである。それはふつうの殺傷事件とはまるで違っており、そこには犯人の綿密な計画があり、しかもなんとこれは、「密室の殺人」に相当するものであった。  およそ探偵小説家を|以《もっ》て自負するほどの誰でもが、きっと一度は取り組んでみたくなるのが、この「密室の殺人」事件である。犯人の入るところも、出るところもない|筈《はず》の部屋の中で行なわれた殺人事件、それをうまく解決することは、作者にとってなんという素晴らしい魅力だろう。だからたいていの探偵小説家がきっと一度はこれを取り扱っているし、畏友井上英三君の説によると、ディクソン・カーの|如《ごと》きはその全作品が「密室の殺人」の変型であるという事だ。私も探偵小説家|冥利《みょうり》に、いつか一度はこのトリックと真っ向から取り組んでみたいと思っていたのだが、なんと今や労せずして、それを自分のものにする幸運に恵まれたのだ。してみれば私は、あの恐ろしい方法で二人の男女を斬り刻んだ凶悪|無《む》|慚《ざん》な犯人に対して、絶大な感謝を|捧《ささ》げなければならないのかも知れない。  私はこの事件の真相をはじめて聞いたとき、すぐに今まで読んだ小説の中に、これと似た事件はないかと記憶の底を探ってみた。私は|先《ま》ずルルーの「黄色の部屋」を思いうかべた。それからルブランの「虎の|牙《きば》」や、ヴァンダインの「カナリヤ殺人事件」と「ケンネル殺人事件」や、ディクソン・カーの「プレーグ・コートの殺人」や、さてはまた密室の殺人の一種の変型であると思われるスカーレットの「エンジェル家の殺人」まで思いうかべた。しかしそれらの小説のどれともこれは違っていた。ただ、犯人がそれらの小説を読んでいて、そこに含まれたトリックをいったんバラバラに解きほぐし、その中から自分に必要な要素だけを拾い集めて、そこに新しい一つのトリックを築き上げたのではあるまいか。——と、そう思われる節がないでもなかったが。……  似ているといえば「黄色の部屋」が一番この事件と似ているかも知れない。但しそれも事件の真相ではなく、現場の雰囲気である。この事件のあった部屋は、黄色いかべ紙の代わりに、柱も天井も|長押《な げ し》も雨戸も、全部|紅《べに》|殻《がら》で塗られていたという。もっともこの地方では紅殻塗りの家は珍しくなく、げんに私が疎開して来ている家などもそれである。但し私の家はずいぶん古いので、|紅《あか》いというより黒光りに光っているが、この事件のあった部屋は、当時塗りかえられたばかりだというから、さぞや鮮やかな紅色を呈していた事だろう。しかも畳や|襖《ふすま》も真新しく、|金屏風《きんびょうぶ》を引き回してあったというから、そこに男女二人が血みどろになってたおれていた光景は、さぞ強烈な印象だったろう。  だが、この事件にはもう一つ私を昂奮させる異常な要素があるのだ。それは事件に終始絡んで来る一面の琴である。変事が起こるたびに人々が聴いたという、あの荒ら荒らしい琴の音! いまだに浪漫癖の抜け切れぬ私にとって、それはなんという大きな魅力だったろう。密室の殺人、紅殻色の部屋、そして琴の音、——いささか薬が効きすぎるほどのこの事件を、私が書きとめておかないとしたら、それこそ作家冥利につきるというものではないか。  さて、話が少し先走ったが、私の家からこの事件のあった一柳家の|邸《やしき》までは、ざっと十五分くらいの距離である。そこは岡——村字山ノ谷というだけあって、三方を山にかこまれた小部落で、ひくい山のうねりがヒトデの足のように平地に向かって突き出している。その足の|尖《せん》|端《たん》に一柳家の広い邸宅があった。  この突き出した山の西側には小川が流れており、一方東側には山越しに久——村へ通ずる細い道が走っているのだが、この小川と道は平地へ出てから間もなく合している。一柳家はこの小川と道とでくぎられた、不規則な三角形をした二千坪ほどの土地を占有しているのである。つまり一柳家は北は突き出した山の|端《はず》れに接し、西は小川にくぎられ、東は山越しに久——村へ通ずる道にむかっているのだ。門は言う|迄《まで》もなく東の道に面していた。  私は先ずその正門のまえを歩いてみる。道から少し上がったところに、|乳鋲《ちびょう》のついた黒い大きな門があり、門の左右には立派な塀が、二町にわたって続いている。門から中を|覗《のぞ》いてみると、外塀の中にもう一つの内塀があるらしいのが、いかさま大家らしく思われたが、内塀から中は見えなかった。  そこで私は歩を転じて屋敷の西側へ回ってみた。小川に沿うて北へ進むと、一柳家の塀の切れるところにこわれた水車があり、水車の北側に土橋がかかっている。私はこの土橋を渡って、屋敷の北側をくぎっているがけのうえの、ふかい|竹《たけ》|藪《やぶ》の中へもぐりこんだ。このがけの端れに立って南を見ると、邸内の様子がほぼ完全に|俯《ふ》|瞰《かん》することが出来るのである。  先ず私が最初に眼を向けたのは、すぐ足下にある|離家《は な れ》の屋根だが、この屋根の下こそ、あの恐ろしい事件のあったところなのである。人の話によると、これは一柳家の先代が隠居所に建てたもので、中は八畳と六畳きりのごくせまいものであるという。しかしさすがに隠居所だけあって、建物は小さいが、庭は凝っていて、南から西へかけて、少しくど過ぎると思われるくらい庭木や石が配置してある。  この離家の事はいずれ後に詳しく述べるが、さていまそこを越えて遠くむこうを見ると、そこには一柳家の大きな平家建ての|母《おも》|屋《や》が東向きに立っており、更にそのむこうには分家の住居や、土蔵や|納《な》|屋《や》が不規則にならんでいた。この母屋と離家とは|建《けん》|仁《にん》|寺《じ》|垣《がき》で隔てられ、その間をつなぐのは小さい|枝《し》|折《お》り|戸《ど》だけだった。いまはこの垣も枝折り戸も、見るかげもなくこわれているが、事件当時はまだ新しくしっかりしていて、それが悲鳴をきいて母屋から駆けつける人々を、いっとき食いとめたのである。  これであらかた一柳家の様子は見終わったわけなので、それから間もなく私は竹藪から|這《は》い出すと、今度は村端れにある岡——村の役場のまえまでいってみた。この役場は村の南端れにあって|家《や》ならびはそこでポツンと切れて、そこから南は向こうの川——村まで一面の|田《たん》|圃《ぼ》つづきであった。そして、その田圃の中を一直線に二間道路が走っているのだが、その道路を四十分ほど歩けば汽車の停車場まで行く事が出来る。だから汽車でやって来た人がこの村へ入るには、どうしてもこの道をやって来て、役場の前を通らなければならないのである。  さて、役場の真向かいには、土間の広い、表に粗末な飾り窓のついた家があるが、この家はもと、馬方などが立ち寄って一杯やる|一《いち》|膳《ぜん》飯屋になっていた。そしてこの家こそ、一柳家の殺人事件に重大関係を持つ、あの不思議な三本指の男が、最初に足をとめたところなのである。  それは昭和十二年十一月二十三日の夕刻、|即《すなわ》ち事件の起こった日の前々日のことだった。  この飯屋のお|主《か》|婦《み》さんが表の|牀几《しょうぎ》に腰をおろして、|馴《な》|染《じ》みの馬方や、役場の吏員と|冗話《むだばなし》をしていると、そこへいまいった二間道路を、川——村の方からとぼとぼとやって来た一人の男があった。その男は飯屋の前まで来るとふと立ち止まって、 「ちょっとおたずね致しますが、一柳さんのお屋敷へ行くにはどういったらいいのでしょうか」  冗話をしていたお主婦さんや役場の吏員や馬方は、それを聞くといっせいに相手の服装を見、それから顔を見合わせた。その男の見すぼらしい|風《ふう》|態《てい》と、あの大きな一柳家との取り合わせが、いかにも不調和に思われたからである。その男はくちゃくちゃに|崩《くず》れたお|釜《かま》|帽《ぼう》をまぶかにかぶり、大きなマスクをかけていた。帽子の下から|蓬《ほう》|髪《はつ》がもじゃもじゃはみ出し、アゴから|頬《ほお》へかけて、|無精髯《ぶしょうひげ》ののびているのが、なんとなく|胡《う》|散《さん》|臭《くさ》い感じであった。|外《がい》|套《とう》は着ずに、|上《うわ》|衣《ぎ》の|襟《えり》を寒そうにかき合わせているが、その上衣もズボンも|垢《あか》とほこりにまみれ、|肘《ひじ》や|膝《ひざ》のあたりは、|擦《す》りきれて光っていた。靴も両方とも大きく口を開き、ほこりにまみれて真っ白になっている。全体の様子がいかにもつかれているように見えるのだった。年は三十前後だろう。 「一柳さん? 一柳さんならこの向こうだが、君、一柳さんに何か用事があるのかい?」  役場の吏員にジロジロ見られて、その男はまぶしそうに|瞬《まばた》きしながら、マスクの奥でもぐもぐ何か言ったが、それはよく聴きとれなかった。  ところがちょうどその時、今男が歩いて来た道を、一台の人力車がやって来たのだが、それを見ると、 「ああ、ちょっとお前さん、お前さんの尋ねる一柳の旦那が向こうからいらっしゃったよ」  と、飯屋のお主婦さんが注意した。  |俥《くるま》に乗ってやって来たのは、四十|恰《かっ》|好《こう》の、色の浅黒い、きびしい顔つきをした人だった。黒い洋服を着て、まっすぐに姿勢を正し、その眼は、きっと前方を|見《み》|据《す》えたきり、決してわきを振り向かなかった。そぎ落としたような頬の線と、|隆《たか》い鼻が、いかにも近づき難いような印象をひとにあたえる。  これが一柳家の当主賢蔵だった。俥はそういう一柳家の主人を乗せたまま、一同のまえを通りすぎると、すぐ向こうの曲がり角へ消えていった。 「お主婦さん、一柳の旦那がお嫁さんを|貰《もら》うというのはほんとかい」  俥が見えなくなると馬方がそういった。 「ほんとうとも、|明後日《あさって》が婚礼だってさ」 「へえ? それはまた恐ろしく急な話だな」 「それがね、愚図愚図してるとまたどこから故障が出るか分からないんでね。なんでもかんでも無理矢理に押し切ってしまおうというはららしい。思いこむと、あの人は強いからね」 「そりゃまあ、それだからああいうえらい学者になれたのさ。しかしご隠居さんがよく承知なすったね」  そういったのは役場の吏員だった。 「むろん不服さ。しかしもう|諦《あきら》めていらっしゃるって話だよ。反対すればするほど旦那の方が意固地におなんなさるんだから」 「一柳の旦那は幾つだろう。四十……?」 「ちょうどだってさ。それで初縁なんだから」 「中年の恋という奴で、こいつは若いもんより激しいそうだ」 「それでお嫁さんが二十五か六だってね。|林《りん》さんの娘だっていうじゃないか、えらいものをつかまえたね、また。……玉の|輿《こし》か。そんなにいいきりょうかい、お主婦さん」 「それほどでもないって話だよ。だけど女学校の先生をしていただけあって、テキパキと才|弾《はじ》けていて、まあ、そんなところが旦那のおめがねにかなったわけでしょうよ。やっぱりこれからの娘は教育がなくちゃ駄目だってさ」 「お主婦さんも女学校へでもいって、ひとつえらい旦那をつかまえるか」 「ちがいない」  三人がくすぐったそうに笑った時である。さっきの男がおずおずと横から口を出した。 「お主婦さん、すみませんが水を一杯飲ませて下さいませんか。|咽《の》|喉《ど》が渇いて……」  三人はびっくりしたようにその男を振り返った。かれらはすっかりこの男の存在を忘れていたのである。お主婦はジロリと相手の顔を見たが、それでもすぐコップに水を|汲《く》んで来てやった。男は礼をいってコップを受け取ると、マスクを少し外したが、そのとたん、三人は思わず顔を見合わせたのである。  その男の右の頬には大きな引っつれがあった。|怪《け》|我《が》のあとを縫ったのか、唇の右端から頬へかけて、深い傷が走っていて、まるで口が裂けているように見えるのだった。この男がマスクをかけているのは、感冒|除《よ》けでもほこり除けでもなく、その傷をかくすためだったらしい。更にもう一つ三人が無気味に思ったのは、コップを持った、その男の右手である。そこには指が三本しかなかった。小指と薬指は半分ちぎれて、満足なのは|拇《おや》|指《ゆび》と人差し指と中指だけ。  三本指の男は水を飲むと、丁寧に礼をいって、一柳の主人が行ったほうへ、とぼとぼと歩いていったが、その後で三人はほうっと顔を見合わせた。 「なんだい、あれは……」 「一柳さんになんの用事があるんだろう」 「気味の悪い奴! あの口ったら! わたし二度とこのコップを使う気はしないわ」  実際、お主婦はそのコップを、二度と使わぬように棚の隅へ押し込んでおいたが、後日この事が非常に役に立ったのである。  ところで、眼光紙背に徹する|詮《せん》|索《さく》好きな読者諸賢は、この物語をここまで読むと、私がこれから言おうとする事に早くも気がつかれなければならぬ筈である。即ち、琴を弾くには指が三本あれば足りるという事を。琴というものは拇指と人差し指と中指の、三本だけで弾くものであるという事を……。     本陣の末裔  村の故老の話によると、一柳家は近在きっての資産家だったが、元来がこの村の者ではなかったので、偏狭な村人からはあまりよく言われていなかったそうである。  一柳家はもと、この向こうの川——村の者であった。川——村というのは、昔の中国街道に当たっていて、江戸時代にはそこに宿場があり一柳家はその宿場の本陣であったという。ところが、維新の際に主人が、この人は時代を見る明があったと見えて、|瓦《が》|解《かい》とともにいちはやく今のところへ移って来ると、当時のどさくさまぎれに二束三文で田地を買いこみ、たちまち大地主になりすましたのである。そういうわけだから村の人たちは一柳家のことを陰では|河童《か っ ぱ》の成り上がりと悪口をいっていた。川——村から山ノ谷へ上がって来たという意味だろう。  さて、あの恐ろしい事件があった当時、一柳家の邸内に住んでいたのは、つぎの人々である。  先ず第一が先代の未亡人であるところの糸子|刀《と》|自《じ》だが、この人は当時五十七歳で、いつも年齢のわりには大きな|髷《まげ》をきちんとゆって、どんな場合でも本陣の|末《まつ》|裔《えい》であるところの威厳と誇りを崩さないような老婦人だった。村の人々がご隠居様というのはこの人を指す。  この糸子刀自には子供が五人いたが、当時そのうちの三人だけがここに住んでいた。その筆頭が長男の賢蔵だが、この人は京都のある私立大学の哲学科を出ていて、若い頃二、三年母校の講師をつとめた事もあるが、一時呼吸器を害した事があって、郷里の家に引き|籠《こも》った。しかし大変な勉強家で、郷里へ引き籠ってからも研究の方は怠らず、著書もあり、雑誌へもおりおり寄稿しており、この道では相当知られた学者であったという。この人が四十まで|娶《めと》らなかったのは、健康を考慮したためというより、勉強に忙しくてこの方に頭を向けるひまがなかったためであったと思われる。  この賢蔵の下に|妙《たえ》|子《こ》という妹と、隆二という弟があったが、妙子はさる会社員に嫁ぎ、当時|上海《シャンハイ》にいたから、この事件には全然関係がない。その次の隆二はお医者さんで、当時大阪の大きな病院に勤務していたが、この人も事件の当夜は家にいなかった。しかしこの人は変事のあった直後にかえって来ているから、全然無関係というわけにはいくまい。当時この人は三十五歳だった。  糸子刀自はこの隆二を産んでから長い間子供がなかったのでおしまいかと思っていると、十年目に男の子がうまれ、それからまた八年も経って女の子がうまれた。それが三男の三郎と次女の鈴子である。当時三郎は二十五、鈴子は十七だった。  この三郎というのは兄弟中での不作で、中学校を中途で放校され、神戸の私立専門学校を、これまた中途で退校させられた。そして当時は何をするでもなく、家でごろごろしていた。頭はそう悪い方ではなかったが、物事に根気がなく、その性質にはどこか|狡《こう》|猾《かつ》なところがあった。村でもこの青年は|軽《けい》|蔑《べつ》されている。  ところで末子の鈴子だが、この娘はたいへん気の毒な娘さんで、両親の老境に入ってから産まれたせいか、日陰に咲いた華のように、虚弱で腺病質だった。知能もだいぶ遅れていたが、ある方面では、たとえば琴を弾くことなどにかけては、天才的ともいうべきところがあり、またおりおり非常に鋭いひらめきを見せる事もあるが、概してする事なす事が、七つ八つの子供よりまだ幼いところがあった。  さて、本家は以上でおしまいだが、一柳家の邸内には当時もう一家族分家の一族が住んでいた。分家の主人は良介といって賢蔵たちの|従《い》|兄《と》|弟《こ》で、当時この人は三十八、秋子という細君との間には子供が三人あったが、子供たちはむろんこの恐ろしい物語には関係ないから、はじめから勘定に入れないことにしよう。  この良介という人は賢蔵たちとすっかりタイプが違っていて、学校は小学校を出たきりだが、算数の道に明るく、世故に|長《た》けているので、一柳家の管理人としてはもって来いの人物だった。だから糸子刀自なども偏屈な長男や、家にいない次男や、頼りない三男よりこの人が一番気がおけなくて、よい相談相手になるらしかった。さて、良介の妻の秋子だが、これは毒にも薬にもならない、|良人《お っ と》のいうなりになるような平凡な女である。  本家分家を合わせて以上の六人、即ち糸子刀自、賢蔵、三郎、鈴子、良介、秋子と、これだけが、封建的な空気の中に、ともかくも平穏無事の生活をつづけていたのだが、そこへ突如大きな波紋を投げかけたのが、長男賢蔵の結婚問題だった。賢蔵が結婚しようという相手は、当時岡山市の女学校の先生をしていた久保|克《かつ》|子《こ》という婦人だが、この結婚に一族こぞって反対したのは、克子自身に申し分があったわけではなく、克子の家柄に難点があったのである。  農村へ入って見給え、都会ではほとんど死滅語となっている「家柄」という言葉が、いかにいまなお生き生きと生きているか、そしてそれがいかに万事を支配しているかを諸君は知られるだろう。今度の敗戦以来の社会の混乱から、さすがに農民諸君も地位や身分や財産などには、以前ほど|叩《こう》|頭《とう》しなくなった。それらは今、大きな音を立てて崩壊しつつあるからである。しかし家柄は崩壊しない。よい家柄に対する|憧《どう》|憬《けい》、敬慕、自負は今もなお農民を支配している。しかも彼らのいうよい家柄とは、必ずしも優生学や遺伝学的見地から見た、よい血統を意味するのではないらしい。旧幕時代、代々名主を勤めたとか、庄屋であったとかいえば、たといその家から、遺伝による疾病が続出していても、よい家柄で通るのである。現在の革新時代においてすらそれだから、昭和十二年|頃《ごろ》の、しかも本陣の家筋であることを、何よりの誇りとしている一柳家の一族が、いかに家柄の尊厳を重視したか、多くいうを要すまい。  久保克子の父はかつてこの村の小作人であった。しかしこの小作人にはいささか骨があったと見えて、村の生活に|見《み》|限《き》りをつけると、弟と二人でアメリカへ渡った。そして向こうの果樹園で働きながら、何万円か溜めると、故国へ帰って来て、この村から十里ほど離れたところで、兄弟してアメリカで習得して来たところの果樹園をはじめた。兄弟はそこで|晩《おそ》い結婚をすると、兄の方は克子を産み、そして死んだ。克子の母は良人が死ぬと実家へかえったので、だから克子は|叔《お》|父《じ》の手で育てられたのである。彼女はたいへん勉強好きの娘であった。叔父も彼女の学費に金を|吝《お》しまなかった。克子は東京の女高師を出た後、郷里に近い岡山市の女学校に奉職したのである。  彼女の父と叔父が共同ではじめた果樹園はたいへん成功していたし、叔父は厳重に、彼女の分となるべき金を取りのけていたから、克子が女学校の先生をしていたのは、生活のためではなく、彼女の自覚によるものだった。彼女は自分の財産を持っていた。しかし、一柳家の一族から見れば、彼女がいかに教育があり、聡明であり、財産を持っていたとしても、小作人の子は小作人の子であった。彼女は氏も素性もない昔の|水《みず》|呑《の》み百姓、久保林吉の娘なのである。  賢蔵が彼女を|識《し》ったのは、克子が|肝《きも》|煎《い》りしていた倉敷の若い知識人の集会に、講演を頼まれた時かららしい。その後、克子は外国語の本などで分からないところがあると、賢蔵のところへ|訊《き》きに来た。そういう交渉が一年ほどつづいた後、突然、賢蔵が彼女との結婚の意志を発表したのである。  一族こぞってそれに反対した事は前にも言ったが、その|急先鋒《きゅうせんぽう》が糸子刀自と良介であったことも首肯出来るところである。兄弟の中では妹の妙子が、猛烈な反対の手紙を兄にあてて寄越した。それに反して弟の隆二は母にあてて、兄さんの好きなようにさせてあげたい、いったん言い出したら後へひかない人だから、という意味の手紙を寄越したきりで、直接賢蔵にあてては何も言って来なかった。  こういう周囲の反対に対して、では、賢蔵はどういう態度で応酬したかというと、終始沈黙の一手だった。反対に対して|反《はん》|駁《ばく》するような事は絶対にやらなかった。しかし結局水は火に勝つ。反対者はしだいに呼吸が切れ、声がかすれ、足並みが乱れ、最後には苦笑いをして肩をすくめながら、完全に自分たちの敗北した事を認めなければならなかった。  こうしてその年の十一月二十五日に|華燭《かしょく》の典が挙げられる事になったのだが、その晩、あの恐ろしい事件が起こったのである。  だが、私はそこへ話を進める前に、後から思えば、あれこそ事件の前奏曲であったと思われるような、|些《さ》|細《さい》な出来事の二、三を、ここにお話ししておこうと思うのである。  それは事件の前日、即ち、十一月二十四日の午後の事である。一柳家の茶の間で、糸子刀自と賢蔵が、いくらか気まずそうな顔をして茶を飲んでいた。そばには妹の鈴子が余念なくお人形に着物を着せていた。この少女はどこへおいても、ひっそりと一人で遊んでいるので、決して邪魔にされるような事はなかった。 「だってねえ、それが代々この家のしきたりなんだから……」  糸子刀自はもう完全にこの息子に負けているので、この時も気を兼ねるような|風《ふ》|情《ぜい》だった。 「しかし、お母さん、隆二の嫁取りの時にはそんな事はやらなかったじゃありませんか」  賢蔵は母のすすめる|蕎麦饅頭《そばまんじゅう》には眼もくれず、苦い顔をして|煙草《た ば こ》を|喫《す》っていた。 「それはあの子は次男だもの。あの子とあなたとは一緒になりませんよ。あなたはこの家を継いでいく人だし、克さんはその嫁だから……」 「しかし克子は琴なんか弾けませんよ、きっと。ピアノなら弾くかも知れませんがね」  いま二人の間で問題になっているのはこうである。一柳家では何代か前から、跡取り息子の嫁たるべき人は、|祝言《しゅうげん》の席で琴を弾かねばならぬという家憲があるのである。弾奏すべき琴は一柳家の先祖から伝えられたもので、その曲目や、またそういう家憲の起こったいわれには、難かしい故事来歴があるのだが、それはいずれ折りを見て話すとして、いま問題となっているのは、即ち花嫁となるべき克子に、琴が弾けるかどうかという事である。 「お母さん、今になって、そんなことをおっしゃっても無理ですよ。それならそのように前もって言って下されば、克子にも用意があったでしょうが……」 「わたしこんな事をいってこの婚礼に水をさそうというのではありませんよ。また、克子さんに恥をかかせるなんてそんな風に思って貰っちゃ困りますよ。しかし、家風は家風だから……」  二人の仲がいくらか険悪になりかけた時である。余念なく人形と遊んでいた鈴子が、突然、横から可愛い助け船を出した。 「お母さま、お琴、わたしじゃいけなくって?」  糸子刀自は眼をみはって鈴子を見たが、賢蔵はそれをきくと渋い笑いをうかべた。 「そりゃいい、これはひとつ鈴子に頼もう。お母さん、鈴子なら誰にも当たりさわりがなくていいじゃありませんか」  糸子刀自もいくらか心が動きかけたが、そこへひょっこり顔を出したのが|甥《おい》の良介だった。 「|鈴《す》うちゃん、ここにいたのかい。ほら、ご注文の箱が出来たよ」  それは|蜜《み》|柑《かん》|箱《ばこ》くらいの大きさの、きれいに削った白木の箱だった。 「良さん、それなに?」  糸子刀自が|眉《まゆ》をひそめると、 「なに、玉公の|棺《かん》|桶《おけ》ですよ。蜜柑箱でよかろうというと鈴うちゃんお冠りでね。そんな粗末な箱じゃ玉がかあいそうだって、お取り上げにならないので、やっと|拵《こしら》えたんですよ」 「だって、ほんとうに玉、かあいそうなんですもの、|新《しん》|家《や》の兄さん、有難う」  玉というのは鈴子の愛猫だが、食物に当たったらしく、二、三日吐き下しをつづけた後、その日の朝とうとう死んでしまったのである。  糸子刀自は眉をひそめて、白木の箱をみていたが、ふと気をかえるように、 「良さん、あの琴ね、あれは鈴子に弾いて貰おうというのだがどうだろう」 「そりゃ、|伯《お》|母《ば》さん、いいでしょう」  良介はあっさりいうと、そこにあった蕎麦饅頭を頬張った。賢蔵はそっぽを向いたまま煙草を吹かしていた。  するとそこへ入って来たのが三郎である。 「おや、鈴うちゃん、いい箱が出来たじゃないか。誰にこさえて貰ったんだい」 「三ぶちゃんの意地悪。嘘ばっかり|吐《つ》いてこさえてくれないんですもの、新家の兄さんにこさえて頂いたわ。よくってよ」 「おやおや、相変わらず信用がないね」 「三郎さん、あなた散髪をして来たの」  糸子刀自は三郎の頭に眼をやった。 「ええ、いま。ところがねえ、お母さん、散髪屋で妙なことを聞いて来たんですがね」  糸子刀自が無言のまま顔を見るのを、三郎はそのままにして、|却《かえ》って賢蔵の方へ体を乗り出すと、 「兄さん、あなた昨日の夕方、役場のまえを俥で通ったでしょう。その時あそこの飯屋のまえに、変な男が立っているのを見やあしませんでしたか」  賢蔵はちょっと眉をあげて|怪《け》|訝《げん》そうに三郎の顔を見たが、なんとも答えなかった。 「変な男って何さ、三ぶちゃん」  良介が蕎麦饅頭を頬張りながら|訊《たず》ねた。 「それがねえ、気味が悪いんだ。口から頬へかけて、こう大きな傷があってね。おまけに右手にゃ指が三本きゃないんだってさ。拇指と人差し指と中指と。……ところがそいつが飯屋のお主婦さんに家の事を聞いてたっていうんだが、おい、鈴子、おまえ昨日の晩方そんな奴がうろついているの見やあしなかったかい」  鈴子は眼をあげて黙って三郎の顔を見ていたが、やがて拇指、人差し指、中指と口のうちで|呟《つぶや》きながら一本一本指を出すと、いつか琴を弾く|真《ま》|似《ね》をしていた。  糸子刀自と三郎は黙ってその手つきを眺めている。良介はうつむいたまま、蕎麦饅頭の皮をむいている。賢蔵はやたらに煙草を吹かしていた。     琴鳴りぬ  いったい本陣というのは旧幕時代、|参《さん》|覲《きん》交替の大名が、上り下りの道中で宿泊することになっている、いわば公認の宿舎だから、昔はなかなか格式張っていたものである。もっとも同じ本陣でも、東海道筋とちがってこの辺では、往来の大名も数が少ないから、したがって規模においても|自《おのずか》ら相違があったろうが、本陣はやっぱり本陣であった。  そういう本陣の後裔をもって誇りとしている一柳家のことだから、当主の結婚ともなれば、それは思いきって派手なものでなければならぬ筈であった。私にこの事件を話してくれたF君の話によっても、 「こういう事は万事都会より|田舎《い な か》のほうが|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》になります。ましてや一柳家ほどの家柄で、|後《あと》|嗣《つぎ》の婚礼という事になれば、お|婿《むこ》さんは麻かみしも、花嫁は|白《しろ》|無《む》|垢《く》の|裲《うち》|襠《かけ》というのがふつうで、客も五十や百は当然のことでした」  しかし事実はこの婚礼はごく内輪に行なわれたのである。お婿さんの側から出席したのは、家族以外に川——村の大叔父が|唯《ただ》一人で、賢蔵のすぐ下の弟の隆二さえ、大阪から帰って来なかった。花嫁のほうからも、叔父の久保銀造が唯一人出席しただけであったという。  したがって祝言の席そのものはごく|淋《さび》しいものだったが、村人への振舞いは、そういうわけにはいかなかった。近在きっての大地主であってみれば、出入りも多く、作男や小作人も少なくない。そういう人たちは奥とは別に、|徹宵《てっしょう》飲み明かすのがこの辺の習慣だった。  だから十一月二十五日の婚礼の当日は、手伝いの人々をも交えて、一柳家の台所は大混雑を呈していたが、すると夕方の六時半頃、つまり台所が一番繁忙を極めている最中のことである。勝手口からぬっと入って来た男がある。 「御免下さい。旦那はいますか。旦那がいたら、これを渡して貰いたいんだが……」  かまの下をたいていた下働きのお直婆さんが振り返ってみると、くちゃくちゃに崩れたお釜帽を|眉《ま》|深《ぶか》にかぶった男で、方々|擦《す》りきれた上衣の襟を、寒そうに|掻《か》き合わせ、顔じゅうかくれてしまいそうな大きなマスクをしているのが、いかにもうさん臭かった。 「旦那に何か用かね」 「う、うん、旦那にこれを渡して貰いたいんで」  男は左手に小さく折った紙片を持っていたが、後になってお直さんがこの時の様子を、警官に語ったところによると、 「それが妙なんですよ。指をみんな曲げてましてね、人差し指と中指の節のあいだに紙片を挟んでいるんです。まるで|癩病《らいびょう》みたいに……ええ、右手はポケットへ入れたきりでした。私も変に思って顔をのぞいてやろうとしたのですが、相手はぷいとそっぽを向くと、紙片を無理矢理に私に押しつけて、そそくさと勝手口から、とびだしてしまったんです」  その時台所にはほかにも大勢いたのだが、その男が後になって、あんなに重大な意味を持って来ようとは、夢にも思いがけない事だから、誰も特に注意を払って見た者はなかったのである。  さて、お直さんが紙片を持ったままぼんやりしていると、そこへ新家の秋子が忙しそうに奥から出て来た。 「ちょいと、どなたかうちのを知らない?」 「新家の旦那ならさっき外へ出ていったようでしたよ」 「まあ、仕様がないわね。この忙しいのに何をまごまごしてるんだろう。今度見たら早く着替えをするように言って下さいな」  その秋子を呼び止めて、お直さんはいまの話をすると、折り畳んだ紙片を渡した。それはポケット日記を引き裂いたような小さな紙片だった。 「兄さんに? ああ、そう……」  秋子はちょっと眉をひそめたが、別に大して気にも止めずに、帯の間にはさむと、台所を出て茶の間を|覗《のぞ》いてみたが、そこには糸子刀自が手伝いの女と話しながら、着替えをしているところだった。側には振り袖を着た鈴子が、|金《きん》|蒔《まき》|絵《え》の見事な琴をいじっていた。 「伯母さん、兄さんは?」 「賢蔵? 書斎じゃないかしら。ああ、ちょっとお秋さん帯を結んで下さいな」  糸子刀自の着付けが出来上がったところへ、丹前姿の三郎がのっそりと入って来た。 「三郎、まだそんな|服《な》|装《り》をして……いままでどこにいたの」 「書斎にいたんですよ」 「また探偵小説を読んでいたのよ、きっと」  鈴子が琴の調子を合わせながらいった。三郎は探偵小説の熱心な愛読者なのである。 「いいじゃないか。探偵小説を読んでたって。それより鈴子、猫のお葬式はすんだのかい」  鈴子は黙って琴を弾いている。 「まだなら早くしなよ。猫の|死《し》|骸《がい》なんかいつまでもおいとくと、ニャーゴと化けて出るぜ」 「いいわよ。三ぶちゃんの意地悪。玉のお葬式は|今《け》|朝《さ》早くすましたわよ」 「なんだねえ。縁起でもない。三郎も気をつけて物をおいいなさいよ」  糸子刀自は眉をひそめてたしなめるようにいった。 「三ぶちゃん。兄さんは書斎にいらして?」 「いいえ、兄さんは離家じゃないかしら」 「お秋さん、賢蔵にあったら早く支度をするように言って下さいよ。そろそろお嫁さんが見える時分じゃないか」  茶の間を出た秋子が離家の方へ行こうとして、庭下駄をつっかけているところへ、良人の良介がふだん着のまま、新家のほうからのそのそやって来た。 「あなた、何をしていらっしゃるの。早く着替えないと間にあわないじゃありませんか」 「馬鹿をいうな。花嫁の来るのは八時ということになっているんだ。何もあわてる事はないさ。お前こそどこへ行くんだ」 「離家へ兄さんを探しに……」  賢蔵は果たして離家の縁側に立って、ぼんやりと空を眺めていたが、秋子の姿を見ると、 「お秋さん、なんだかお天気が変わりそうですね。ええ、なに、これを私に……ああそう」  賢蔵は細かく折った紙片を電燈の下へ持っていって読んでいたが、 「お秋さん、これは一体誰が持って来たんです」  床の間の生け花をなおしていた秋子は、その声の調子にただならぬものを感じて振り返ると、賢蔵はまるで|噛《か》みつきそうな表情をして、上から秋子の顔を見据えていた。 「さあ。……お直さんが受け取ったんですけれど、なんだかルンペンみたいな男だったそうですよ。兄さん、なにか変わったことでも……」  そういう秋子の顔を賢蔵は|白《に》|眼《ら》むように見ていたが、やがて気がついたように顔をそむけると、もう一度その紙片に眼を落としたが、すぐズタズタに引き裂いて、どこか捨てるところはないかというふうにあたりを見回していたが、結局|袂《たもと》の中に突っ込んでしまった。 「あの、兄さん、伯母さんが早くお支度をなさるようにって……」 「ああ、そう、お秋さん、すまないが雨戸を閉めておいて下さい」  賢蔵はそう言い捨てて離家から出ていった。  これが七時頃のことで、さて、それから一時間ほどして花嫁が媒酌人夫婦に付き添われて到着し、ここに祝言の式がはじまったのだが、それらの模様は出来るだけ簡単に述べることにしよう。  まえに言った通り、この式に連なったのは、ごく少人数で、糸子刀自に三郎・鈴子の兄妹、良介夫婦ともう一人、川——村の大叔父、|伊《い》|兵《へ》|衛《え》という七十何歳かの老人、と、これだけが新郎がわからの出席者で、新婦がわからは叔父の久保銀造が唯一人。媒酌人というのはこの村の村長だったが、これはほんの形式だけの、頼まれ|媒酌人《なこうど》に過ぎなかった。  さて|盃事《さかずきごと》が目出度く終わると、その後で黒塗金蒔絵のあの見事な琴が持ち出され、鈴子がそれを弾いたのは、かねて打ち合わせておいたとおりである。鈴子はほかの事にかけてはすべて年齢よりはるかに遅れていながら、琴だけは天才ともいうべき|技倆《ぎりょう》を持っていたから、弾く人と弾かれる琴と、両々あいまってその夜の式場に錦上さらに花をそえたという。  しかし、婚礼の席上で琴を弾じるという事は、ほかにあまり例のない事だし、鈴子の弾いた一曲が、今まで聴いた事のない曲だったので、花嫁の克子が奇異な|想《おも》いをしていると、糸子刀自がこう説明を加えた。  一柳家の何代か前の妻女に、大変琴の|上手《じょうず》な人があった。ところがある時、さる大名の姫君がお|輿《こし》|入《い》れのため西下なさる際、本陣に泊まられたのである。その時、琴の名手であるその妻女が、かねて自ら作詞作曲しておいた「|鴛《おし》|鴦《どり》|歌《うた》」という一曲をお耳に入れたところが、お姫様は大変喜ばれて、後日「おしどり」と名づける一面の琴を贈って寄越された。それ以来、一柳家では継嗣の婚礼の席で、必ず花嫁が琴を弾くべきものとされ、いま鈴子が弾いたのが即ちその鴛鴦歌で、琴は「おしどり」である。——と、そういう来歴をきいて、花嫁の克子は思わず眼を|瞠《みは》った。 「まあ、それではいまのお琴は、わたしが弾くのが本当だったのでございますわね」 「そうですよ。しかしあなたにその心得がおありかどうか分からなかったので、無理にとはいいかねて、鈴子に代わって貰ったのですよ」  克子は黙ってひかえていたが、するとそれに代わってこたえたのは叔父の銀造だった。 「それならば、あらかじめ言って頂ければ、克子に弾かせるのでした」 「あら、お姉さんはお琴をお弾きになりますの」 「お嬢さん、これからはこのお姉さんが、あなたのよいお相手になりましょう。あなたのお姉さんになる人は、琴の先生も出来るのですよ」  糸子刀自と良介は顔を見合わせていたが、するとその時賢蔵がぼそりと横から口を出した。 「それじゃその琴は克子が貰っておくといい」  糸子刀自がそれに対してすぐに返事をしなかったので、一座はちょっと白けかけたが、それを救うように横合から口を出したのは、苦労人の村長だった。 「花嫁さんにそれほどのたしなみがあるんでしたら、お願いすればよかったですね。どうです、ご隠居さん、後で離家でもう一度、盃事があるのでしょう。その席で改めて弾いて|戴《いただ》いたら」 「そうですね。そう願いましょうか。いいえ『鴛鴦歌』のほうは鈴子に弾いて貰いましたから、今度はなんでもよいという事に致しましょう。あなたのお得意の、何か目出度い曲を一曲……祝言の夜に花嫁が琴を弾くというのが、この家の家風になっているのですから」  克子が後でもう一度、琴を弾く事になったのは、こういういきさつがあったからである。  さて、こうして式が無事に終わったのは九時過ぎだったが、それからいよいよ奥と台所で、さかんな酒盛りがはじまった。  一体婚礼の夜の新郎新婦というものは、一種の試練に直面しなければならぬものだが、田舎ではとりわけそれがひどいようである。賢蔵と克子は真夜中過ぎまで、二組の酒の座に交替で|侍《はべ》っていなければならなかった。  台所ではすぐ酒がまわって、みだらな|唄《うた》を唄い出すものもあった。奥ではさすがにそれほど羽目を外す者はなかったが、唯一人大叔父の伊兵衛が、泥酔して管をまきはじめた。  この人は賢蔵や良介の親達の叔父にあたる人だが、若い時に分家して、ふつう川——村の新宅のおじさんとよばれている。年寄の常としてふだんから|口《くち》|喧《やか》ましいうえに、酒癖が悪いことにかけても有名である。そこへもって来て今度の婚礼には、終始不服をとなえて来た一人だから、酒がまわるとしだいにこじれて来て、新郎新婦に向かってさんざん嫌味を並べた揚句、危いから泊まれというのもきかずに十二時過ぎになって帰ると言い出した。 「三郎、おまえ送ってあげるといい」  伊兵衛の毒舌をどこ吹く風と聞き流していた賢蔵は、相手がいよいよ帰るときまるとさすがに夜道を心配したのか、弟にそう命じた。 「なに、遅くなったらおまえもおじさんのところへ泊めて貰えばいいさ」  こうして伊兵衛を玄関まで送って出て、そこではじめて一同は、外が大雪になっているのに気がついて驚いたのである。一体この辺では雪そのものが珍しいのに、その夜は三寸余も積もったのだから、人々が驚いたのも無理はなかった。そして後から思えばこの雪こそ、あの恐ろしい犯罪に、たいへん微妙な役割をつとめたのである。  それはさておき、新郎新婦が離家へ引きあげて、そこで床盃があったのは、真夜中の一時頃のことであった。その時の事について、良介の妻の秋子は、後にこう語っている。 「あのお琴を離家へ運んだのは、私と女中の清の二人でございました。そこでお床盃がありましたが、その席につらなったのは伯母さんと私たち夫婦きりでした。三ぶちゃんは新宅のおじさんを送っていきましたし、鈴うちゃんはもう寝ていました。はい、そのお盃の後で克子さんが千鳥をお弾きになりました。琴はその後で床の間のうえに立てかけておいたのでございます。|爪《つめ》|筥《ばこ》は私が床の間のすみにおきましたが、さあ、その時床脇の違い棚にあの刀がありましたかどうか、しかと憶えてはおりません」  この盃が終わったのはかれこれもう二時頃のことで、一同はそこに新郎新婦の二人を残して、母屋の方へひきあげたが、その時はまださかんに雪が降っていた。  そして、それから二時間の後に、人々はあの恐ろしい悲鳴と、なんともいえぬほど奇妙な、あらあらしい琴の音を聴いたのである。     大惨劇  久保銀造は自分の寝室としてあてがわれた、一柳家の奥座敷で、ひとり寝床へ入ると、急に疲れが出たような気持ちだった。  それも無理ではない。今度の結婚についての彼の|気《き》|遣《づか》いには、なみなみならぬものがあったのである。  農村の封建的な感情や習慣を、知り過ぎるほど知っている銀造は、どちらかといえばこの結婚には気がすすまなかった。かつては自分たちの地主であった一柳家の嫁になることが、克子にとって果たして幸福であるかどうか、銀造には危ぶまれたのである。  しかし当人の克子もすすんでいる事だし、それに銀造の妻が、 「兄さんが生きていらっしゃればきっとお喜びになりますわ。一柳さんのお嫁さんになれるなんて、大した出世じゃありませんか」  と、そう言った一言で銀造も心が決まった。  克子の父の林吉と銀造の兄弟は、若い時分にアメリカへ渡ったが、林吉の方が年がいっていただけに、|旧《ふる》い日本の習慣や階級に対するあこがれは、銀造などと比較にならぬほど大きく、かつ深かった。なるほど、兄貴が生きていれば喜ぶだろう……そう思うと、自分で不本意な縁談でも承諾しなければならなかった。  そうして一旦心がきまると、後はまっしぐらに突進する銀造だった。  克子に恥を掻かせてはならぬ。一柳の|親《しん》|戚《せき》から後ろ指を指されるような事があってはならぬと、銀造の心遣いはひととおりではなかったが、さすがにアメリカ仕込みだけあって、彼は万事を能率的かつ精力的に取り運んだ。金に決して糸目をつけず、京都や大阪の大きな呉服商から、どんどん着物を取り寄せた。 「あらあら大変、こんなにして戴いて叔父さん、わたしどう致しましょう」  克子の方が却って驚いたりあきれたり、果ては涙ぐんだりしたが、銀造のこういう心遣いはすべて無駄ではなかったのである。  |中《なか》|宿《やど》に頼んだ村長の家から、いよいよ晴れの衣装で一柳家へ乗り込んだ時の克子の美しさには、人の眼を奪うものがあった。送り込まれた道具や調度の類の立派さも、長く村の話題になったくらいで、さすがに気位の高い一柳家の人々さえ、眼を瞠っていたさまを思い出すと、銀造はこの上もなく満足だった。 「兄貴もこれで満足だろう。兄貴もきっと喜んでくれるだろう」  そう|呟《つぶや》いているうちに、銀造はいつか胸が熱くなり、しぜんと涙があふれて来るのだった。  台所はまだ飲んでいるらしく、みだらな唄声がつづいている。それが耳について銀造はなかなか眠れなかったが、それでも幾度か寝返りしているうちに、やっとうとうとしはじめた。そうしてどのくらい眠ったのか——何かしら寝苦しい夢を見ていた銀造が、突然はっと眼をさましたのは、唯ならぬ悲鳴をきいたような気がしたからである。  銀造はがばと寝床の上に起き直っていた、夢ではなかった。同じ悲鳴が男とも女ともつかぬ、なんともいえぬほど恐ろしい悲鳴が、一声二声、またもや夜の静けさをつんざいたかと思うと、どどどどと床を踏み鳴らす音がした。  離家だ!——と、気がついた瞬間、銀造はもうシャツに腕を通していた。パジャマの上からガウンをひっかけ、電気をひねって腕時計を見ると、時刻は正に四時十五分。  この時だった。あの琴の音がしたのは。  コロコロコロコロシャーン! と、十三本の琴の糸を、やたらに引っ掻くような音がしたかと思うと、つづいてパターンと障子の倒れるような音。そしてそれきり後は死の静寂に立ち戻った。  台所の酒盛りも終わっていたらしい。  銀造は、はげしい胸騒ぎをかんじながら雨戸を開いた。雪はすでにやんで、空には糸のような月が冷たく光っている。雪をかぶった庭一面、綿を着たように、ふくれあがっていた。  と、その時、雪を踏んでこっちへ近づいてくる人影が見えたので、 「誰か」  銀造はとがめるように声をかけた。 「ああ、旦那、旦那も今のをお聞きになりましたか」  銀造は知らなかったが、それは作男の源七という者であった。 「ああ、聞いた。なんだろう、ちょっと待ってくれ。|俺《おれ》もいく」  ガウンの上から|外《がい》|套《とう》をひっかけると、銀造はそこにあった庭下駄をつっかけて雪の上へおりた。その頃になってあちこちの雨戸が開く音がして、糸子刀自も顔を出した。 「源七なの? そこにいるのは? いまの声、あれはなに?」 「琴の音がしてよ。お母さん」  鈴子も母の袖の下から外を覗いていた。 「なんでしょうね。助けてくれというような声がしたような気がするんで」  源七はガタガタとふるえている。  銀造はずかずかと枝折り戸の方へ行ったが、その時になって南の端れの新家から、良介が帯をしめながら駆けつけて来た。 「伯母さん、なんです。今のは……?」 「ああ良さん、ちょっと離家を見て来て頂戴」  銀造はがたがたと枝折り戸をゆすぶって見たが、向こう側から|閂《かんぬき》がはめてあると見えてなかなか開かなかった。良介は二、三度体ごとぶつかって見たが、枝折り戸というものは弱そうに見えていて、案外丈夫なものだった。 「源七、|斧《おの》を持ってこい」 「へえ」  源七がひっかえそうとした時である。離家のほうでまたピン、ピン、ピーンと琴の糸を弾くような音がしたかと思うと、それにつづいてブルブルブルンと空気を引っ掻きまわすような音がした。糸が切れたらしいのである。 「なんだ。あれは……」  雪明かりのなかで誰の顔も|真《ま》っ|蒼《さお》だった。 「源七、何を愚図愚図しているんだ。早く斧を持って来ないか」  源七が斧を持って来たところへ、糸子刀自や鈴子をはじめとして、女中やほかの作男たちもぞろぞろ集まって来た。良介の妻の秋子も遅れ|走《ば》せながら、|提灯《ちょうちん》を持ってやって来た。  一撃、二撃。——源七が斧を|揮《ふる》うと、やがて|蝶番《ちょうつがい》が外れてがっくり枝折り戸が傾いた。それを見ると良介が、一番に飛び込もうとするのを、何を思ったのか銀造が肩をつかんでうしろへ引き戻した。  そして枝折り戸のまえに立って、ずっと離家の庭を見渡すと、 「足跡はどこにも見えない」  こごえで呟くと、うしろを振り返って、 「皆さんはここにいて下さい。あなたと、この人だけ私について来て下さい」  と、良介と作男の源七を指さして、 「気をつけて。……なるべく雪を踏み荒らさないように。奥さん、その提灯を貸して下さい」  非常時に臨みては身分も階級もけしとんでしまう。人々はこの時銀造の不思議な人格の力に圧倒されて、誰一人異議を唱える者もなかった。唯一人、良介だけは、この小作上がりの男の命令に対して、内心|忌《いま》|々《いま》しさを押え切れなかったようであるが、もし彼がこの時、相手が唯の百姓ではなく、苦学しながらもアメリカのカレッジを出ているのだということを知っていたら、いくらか不満も緩和されたかも知れぬ。  枝折り戸を入ると、左側に低い四つ目|垣《がき》が|結《ゆわ》えてあるが、その垣根越しに見える離家の庭にも綿をおいたような雪が降り積もっていて、どこにも踏み荒らされた跡はなかった。離家の中には電気がついているらしく、雨戸の上の欄間から、明るい灯の光が洩れている。  離家の玄関は東向きについているのだが、三人はまずその方へ駆けつけた。しかし玄関には紅殻色の格子戸と板戸が二重に締まっており、格子戸には中から錠がさしこんであると見えて、押しても引いてもびくともしなかった。良介と源七はガタガタ格子を|叩《たた》きながら、大声で賢蔵を呼んだが、中から返事はなかった。  銀造の顔色はしだいに|嶮《けわ》しくなってくる。彼は玄関をはなれると、四つ目垣を越えて南の庭へ踏み込んだ。二人もその後からついて来る。そこにも紅殻色の雨戸がぴったりとしまっており、その雨戸を叩きながら良介や源七がかわるがわる賢蔵の名を呼んでも、中からは依然として返事はなかった。  三人は雨戸を叩きながら、とうとう離家の西側へまわって来たが、その時である。突然良介が奇妙な声をあげてたちすくんだ。 「なに? どうしたんだ」 「あ……あれを」  良介が|顫《ふる》えながら指さすほうを見て、銀造と源七は思わずぎょっと呼吸をのんだ。  離家から西へ一間ほどはなれたところに、大きな|石《いし》|燈《どう》|籠《ろう》が立っていたが、その石燈籠の根元に、日本刀がぐさっと一本突き立っていた。  源七はそれを見ると、急いでその方へ行こうとしたが、すぐまた銀造に引き戻された。 「さわっちゃいかん」  銀造は提灯をあげて暗い植え込みの下を覗いたが、どこにも足跡らしいものはなかった。  その間に良介はいちまいいちまい雨戸を調べてみたが、どこにも異常はなくぴったり中からしまっていた。 「旦那、欄間から覗いてみましょうか」 「うん、そうして見てくれ」  この西側には便所が突き出していて、この便所と戸袋の作る直角の空地に、大きな石の|手水鉢《ちょうずばち》が据えてある。作男の源七はその手水鉢に足をかけると、雨戸の上の欄間から中を覗きこんだ。  この欄間は後に問題となったものだから、ここで一応説明しておくが、それは|鴨《かも》|居《い》になっている横木のうえに太い|梁《はり》が渡してあるのだが、その梁は四角に削ってあるのではなく、自然の形のままの大木の皮をはいで、ところどころ必要な部分だけ|鉋《かんな》をかけてあるのだから、ある部分では鴨居との間に相当の|隙《すき》があると思うと、ある部分ではぴったり鴨居と密着している。したがってそこには雨戸も障子もはめてないのだが、一番広いところでも五寸と開いていないのだから、むろん人が出入りするような事は絶対に不可能だった。この鴨居も梁も雨戸も紅殻で塗り|潰《つぶ》してある事は、この物語のいちばんはじめに、言っておいた通りである。  作男の源七は欄間からなかを覗きながら、 「こっち側の障子が一枚開いています。それから床脇の書院窓の障子が一枚と……屏風がこっちへ倒れかかっているようですが、その屏風の陰になって、座敷の中は見えません」  三人はそこでまた賢蔵や克子の名を呼んだが、返事は依然としてなかった。 「仕方がない。雨戸を破ろう」  この離家の雨戸は一枚一枚お互いに食い込むようになっているから、その中の一枚だけを外すというような事は出来ないのであった。  源七は枝折り戸の外へおいて来た斧を取りに走った。銀造と良介はあとに残ってそれを待っていたが、その時うしろの|崖《がけ》の上を、人が歩くような音がしたので、二人は急いで便所の角まで飛び出した。 「誰だ、そこにいるのは!」  便所のすぐ前には大きな|樟《くす》の木がそびえていたが、その樟の|繁《しげ》みの向こうから、 「そういうのは新家の旦那じゃありませんか」  と、いう声が聞こえた。 「ああ、周さんか。そんなところで何をしているんだ」 「さっき変な声がしたようだから飛び出して来たんです。そしたら旦那方の声がしたので……」 「誰です周さんというのは……」 「なに、そこの水車小屋へ米|搗《つ》きに来る男ですよ。家の小作で周吉という人です」  一柳家の西側に小川が流れていてそこにこわれた水車小屋があることは、この物語の冒頭に述べておいたが、その時分には水車小屋もこわれていず、そこには毎朝早くから小作人の周吉が米を搗きに来ていたのだが、この事が事件をいっそう神秘なものにしたのである。  |何《な》|故《ぜ》ならば、—— 「周吉さん、あんたは声を聞いてからすぐ小屋を飛び出したといいましたね、その時もしや怪しい人影を見ませんでしたか」  と、いう銀造の質問に対して、周吉の答えがつぎのようなものであったからである。 「いいえ、誰も見やしません。俺ゃ声をきくとすぐ小屋を飛び出して、|暫《しばら》く土橋のうえに立っていたんです。すると二度目にピンピンピーン、ブルブルブルンという琴の音が聞こえたので、急いでこの崖のうえに這い込んで来たんですが、人影らしい物は見ませんでしたよ」  ちょうどそこへ源七が斧を持って引き返して来たので、銀造はなおも周吉に見張りをつづけているように頼んでおいて、雨戸の方へ引き返した。  良介の命令で、源七は戸袋に一番近い雨戸に、斧の一撃を加えたが、するとすぐに大きな裂け目が出来た。良介はそこから手を入れると、うちがわのこざるを外して、やっとのことで雨戸を一枚押し開いたのである。  そうして三人はようやく中へ入ることが出来たのだが、ひとめ座敷の中を見た|刹《せつ》|那《な》、三人とも石のようにそこにたちすくんでしまった。  それはなんともいいようのない、恐ろしいちなまぐさい光景だった。  賢蔵も克子もズタズタに斬られて、|血《ち》|塗《まみ》れになってたおれているのだった。|新枕《にいまくら》の|鴛《えん》|鴦《おう》の|褥《しとね》も、替えたばかりの青畳も、さてはまた、枕元に倒れかかっている金屏風も、べたべたといちめんに血で塗られていた。あの楽しい、うれしい初夜の夢はどこへ行ったのだろう。そこにあるのは、血も凍るような、恐ろしい地獄絵巻き以外のなにものでもない!  作男の源七はそれを見るともう腰を抜かさんばかりに驚いたが、銀造はすぐその肩をつかんで、座敷の外へおしやった。 「医者と警官をよんで来るんだ。それから、誰も枝折り戸からこっちへ入れないように……」  作男が出ていくと、銀造は噛みつきそうな顔で|凄《せい》|惨《さん》な二つの死体を眺めていたが、やがて改めて座敷の中を見渡した。  先ず最初に彼の眼についたのは琴である。黒塗り金蒔絵のあの琴は、まるで死人の霊を|弔《とむら》うように、克子の枕元においてあった。しかも誰かが血にまみれた指でその琴を弾いたように十二の琴の糸の、ちょうど弾く部分にあたるところに、つうっと血の筋が走っていた。十二本といったのは、あとの一本はぷっつり切れて、くるくると端の方に巻いていたからである。そして切れた糸の|琴《こと》|柱《じ》が一つ無くなっていた。  糸が切れている。琴柱がなくなっている!  銀造はそれから気がついたように、戸締まりを見てまわった。玄関にも雨戸にも異常はなかった。六畳の|間《ま》の押し入れや西側にある便所や、便所のまえにある半間の押し入れも、いちいち戸を開いて中を調べた。西側の廊下の突き当たりには小さい窓があったが、その窓の|桟《さん》にも異常はなかった。  彼はふたたび八畳へかえって来ると、放心したようにそこに立ちすくんでいる良介をかえりみて、呟くようにこう言った。 「不思議だ。どこにも人は隠れていない。どこにも逃げ出すような所はない。ひょっとすると……」  ひょっとすると……? その意味が良介にも通じたに違いない。彼は激しく首をふると、 「そんな筈はない。そんな筈はありませんよ。ご覧なさいあの屏風を……」  見ると金屏風のうえにはべったりと、まだ乾ききらぬ血の指跡がついているのだが、なんとその指は三本しかなかった。拇指と人差し指と中指と……しかもこの三本の指の跡には、なんともいえぬ妙なところがあったのである。     琴爪の新用途  この物語の材料を私に与えてくれたF君のお父さんという人は、いまはもう故人となっているが、古くからこの村に住んでいたお医者さんで、事件の当時一番に駆けつけてきたのはこのF氏であった。  F氏は一柳のこの妖琴殺人事件によほど興味を感じたと見えて、当時詳細な覚え書きを作っておいたのがいまに残っている。私がいま書き綴っているこの物語は、主としてその覚え書きによるものだが、その覚え書きの中に、事件のあった一柳家の|離家《は な れ》の見取り図は、これらの物語を進めていくうえにたいへん重宝なものであるから、ここにそのまま写しておく事にする。  さて、作男源七の注進によって、F氏や駐在所のお|巡《まわ》りさんが駆けつけて来たのは、そろそろ夜が明けようとする六時頃のことであった。お巡りさんは現場を見るとすぐ一大事とばかりに、総——町の警察へ電話をかける。総——町の警察からはまた県の警察本部へ報告する——と、そういう順序で続々と係官が駆けつけて来たが、何しろ不便な田舎のこととてそういう人たちの顔が|揃《そろ》ったのは、もうかれこれお|午《ひる》時分の事だったらしい。  ここで係官の現場検証や、関係者一同の聞き取りがあった筈だが、そういう事をいろいろ記していては長くもなるし、読者を退屈させるおそれもあるので、ここではこの事件を担当した磯川警部が、現場の捜査や、関係者からの聞き取りの結果得た事実を、なるべく簡単に書き止めておくことにしよう。  先ず第一に問題となったのは、なんといっても足跡である。磯川警部が駆けつけて来たのは午前十一時頃のことだったが、その頃にはそろそろ雪も解けはじめていた。しかし雪の上に一つの足跡もなかったことは、銀造や良介、さては源七の言葉によって疑うわけにはいかなかった。この事が後々まで警部を悩ます種となったが、ではそこに絶対に足跡がなかったかというとそうではない。  ここで前に掲げた見取り図を参照して戴きたい。離家の北側は崖になっていて、崖と離家の間は一間幅ほどの空地になっているが、そこは崖のうえから竹藪がおおいかぶさっているので雪も積もっていなかった。ところがその空地には点々として靴の跡がついているのである。いや足跡のみならず、後ろの崖には誰かが滑りおりたような|痕《あと》もあった。そういうところから判断すると、近ごろ誰かが裏の崖から空地へ飛び下りたらしい事は確かである。その足跡は見取り図にも示してあるように、東へ向かっているのだが、玄関のまえあたりまで来ると、もう雪のために|揉《も》み消されていた。しかし、それと同じ泥靴の跡が、玄関の中の|三《た》|和《た》|土《き》に残っているところを見ると、崖から飛び下りたその人物は、東へまわって玄関から離家のなかへ入ったらしい。  しかもこの靴跡というのが先のへしゃげた、かかとのゆがんだ、誰の眼にもすぐ分かるボロ靴の跡だったが、そういう靴を持っている者は一柳家にはいなかったから、これを犯人の足跡と判断してもまず間違いはなさそうであった。つまり犯人は裏の崖から飛び下りて、玄関から中へ忍び込んだという事になるが、ではそれは何時頃のことであったろう。……それを決定するためには、あの雪がたいへん役に立った。  この地方に雪が降りはじめたのは、前夜の九時頃のことで、真夜中の三時頃にはそれが|歇《や》んだのだから、犯人が離家へ忍び込んだのは九時以前か、あるいは、まださかんに雪の降っていた二時頃までということになる。しかし、玄関の三和土に残っている泥靴の跡が、雪を踏んで来た跡とは見えなかったので、これは先ず九時前と見て差し支えなさそうであった。  ところで七時頃に離家の雨戸を閉めて出ていった新家の秋子の証言によると、その時には玄関にそんな足跡はなかったというから、犯人の忍び込んだのはそれ以後ということになる。つまり七時頃から九時頃まで——それは母屋で祝言の式の行なわれていた最中だから、常識からいっても先ずそのへんと判断される。  では、七時頃から九時頃までの間に忍び込んだ犯人は、それからどうしていたかというと、ここで再び見取り図を見て戴きたい。西側の便所のまえに半間の押し入れがついているが、犯人はこの押し入れの中にかくれていたらしい。そこには古夜具だの抜き綿だのが押し込んであったが、その抜き綿の上に、誰かがもたれかかっていたらしい痕がくっきりとついているのである。それのみならずこの押し入れの中には凶器として用いられた日本刀の|鞘《さや》も落ちていた。  一体この日本刀というのは一柳家のもので、その晩離家の床脇に飾ってあったものだが、犯人は押し入れへ入るまえにそれを持っていったらしい。したがって一時過ぎそこで床盃があった時にはすでに床脇に刀はなかった筈だが、誰もそれに気がつかなかったというのは、床脇の前に金屏風が立ててあったからである。  だがそれにしても、二時には新郎新婦は寝床へ入った筈である。それだのに犯人は何故四時まで犯行を待たなければならなかったのか。それにはいろいろの解釈があるが、そのうちもっとも妥当と思われるのは、その晩が結婚の初夜であったということである。賢蔵も克子もおそらくなかなか眠れなかった事だろう。犯人はそういう二人の眠りつくのを待っていたのだろう……とそう言われたが、ここでもう一度押し入れの位置に注意して戴きたい。  この押し入れは新郎新婦が枕をならべて寝た八畳とは壁一重である。犯人はおそらく新郎新婦の一挙手一投足を、その|睦《むつ》|語《ごと》を、その息使いを、その溜め息を、身をもって聞き、身をもって感じていたにちがいない……  この事件でもっとも|物《もの》|凄《すご》く感じられたのはその点で、銀造もこの話を聞いた時には、なんともいえぬ暗い顔をしたものだが、それはさておき、|漸《ようや》く二人が寝すましたのを見ると、犯人は抜き身をひっさげて押し入れを出た。そして西側の障子を開いてそこから八畳へ入っていったのだが、その前にかれはちょっと妙なことをやっている。いや、やったらしいと判断されるのである。  床脇の書院窓。その書院窓の障子のうちで、床の間に一番近いのが一枚細目にひらいてある。ところで床盃の席で克子が琴を弾き終わったとき|爪《つめ》|筥《ばこ》を新家の秋子が、床の間の端へおいたという事は前にも述べたが、その爪筥の位置は細目に開いた障子の隙の、すぐ眼の下にあたっていた。犯人は障子の隙から手をのばし、その爪筥に、手をかけたのである。そしてその中から三本の琴爪を取り出して、それを指にはめたらしいのである。  こう判断されるのは、金屏風に残った血塗れの三本の指跡である。前章の終わりでこの指跡にはなんともいえぬ妙なところがあったといっておいたが、つまりその指跡には指紋がなかった。のっぺらぼうの琴爪の跡だったのだ。  ここで琴爪というものの性質を思い出して戴きたい。それはふつうの爪とは反対に、指の腹に|嵌《は》めるようになっている。つまり琴爪を嵌めると指紋がかくれるのだ。犯人はそれを知っていて、犯行にとりかかるまえに琴爪をはめたらしい……と、そう考えられるのである。しかも血にまみれた三本の琴爪が、便所のなかの手洗い場の棚のうえから発見されたのだから、いよいよもってこの推定はたしかなものと裏書きされた。  さて、琴爪をはめた手に日本刀をひっさげた犯人は八畳へ忍び込むと、まず|下《しも》の方に寝ていた克子を滅多斬りにしたらしい。克子もいくらか抵抗——というより、もがいたような形跡はあったが、それはごく微弱なものだったから、矢継早の太刀先に、すぐに彼女はこと切れたものと思われる。  ところでその物音で賢蔵は眼をさました。|蒲《ふ》|団《とん》を蹴って起き直る。その出鼻を犯人はひとなぐりやったらしく、賢蔵は左の肩から腕へかけて斬られている。賢蔵はそれにもひるまず、克子の体をまたいで犯人に向かおうとした。そこを犯人が|抉《えぐ》ったらしい、賢蔵は見事に心臓を貫かれて克子の上に折り重なって倒れているのである。  と、いうのが、現場の模様から磯川警部が下しただいたいの判断だが、さて、それから後が分からないのである。  |死《し》|骸《がい》の枕元に琴が持ち出してあり、その琴を血にまみれた指で弾いたらしいという事は、前にも言っておいたが、何故犯人はそこで琴を弾いたのだろう。それから一本切れた琴糸の|柱《じ》がなくなっていたが、その琴柱はいったいどこへ行ったのだろう。離家のなかのどこからもそれは発見されなかったのである。  だが、それよりも、更に不思議なのは、犯人がどこから逃げたかということである。離家の戸という戸は、全部なかから厳重に戸締まりがしてあったことは、まえにも言っておいた。人一人這い出せるような隙は、どこにもなかったのだ。  しかし賢蔵夫婦を殺し、琴を弾いた後の犯人が西の縁側へ出た事は確かである。前にもいったとおり、便所の中には血にまみれた三本の琴爪があったし、良介や源七たちの押し破った雨戸のすぐ内側には、これまた血に染まった日本|手《て》|拭《ぬぐ》いが、ぐるぐる巻きになって落ちていた。いや、それのみならず打ち破られた雨戸の内側に、くっきりと手型が残っているのが、だいぶ後になって発見されたが、この手型にも、指が三本しかなかった。しかし、この指は、もう琴爪をはめていなかったと見えて、ありありと指紋が残っており、その指紋はごくかすかにではあるが、血に染まっていた。  こういうところから見ると、犯人はこの雨戸を開いて逃げたか、あるいは逃げようとしたかに違いない。そこで問題となるのは、良介と源七がこの雨戸を打ち破ったとき、ほんとうにこざるが嵌まっていたかという事である。このこざるを外したのは良介だから、彼はこの事が問題になるとムキになってこういった。 「こざるはたしかに嵌まっていました。源七が斧で雨戸を打ち破って、手の入るぐらいのすきを拵えてくれたので、私が手を突っ込んでこざるを外したのです。第一犯人がここから出ていったなんてそんなべら棒な話はありません。それならばどうして足跡が残らなかったのです。雪の上にはどこにも足跡がなかったことは、私や源七ばかりではありません。そこにいる銀造さんもよく知っている筈です」  それに対して銀造も無言のままうなずいたが、しかしその時、きっと良介の横顔を見据えたかれの眼に、浅からぬ疑惑の色が見られたことはたしかである。  だが、ここで話を少し後へ戻そう。  夜が明けるまで良介と|睨《にら》みあったまま、凍りついたように死体のそばに頑張っていた銀造は、おいおい係官が駆けつけて来たので、やっと安心して離家を出た。それは七時頃のことで、今日は昨夜にうって変わった上天気になると見え、一柳家の大きな母屋の屋根につもった雪が、朝日に|眩《まぶ》しく輝いていた。軒を伝って落ちる雪解の音が、しだいにせわしさを増していた。  しかし銀造にはそういう|景《け》|色《しき》も眼にうつらなければ、そういう音も耳に入らなかった。きっと唇をへの字なりに結んだかれの顔は沈痛そのものだった。沈痛の底には悔恨の憤りも潜んでいた。  かれは黙々として離家から母屋のほうへ帰っていったが、ちょうどその時である。一柳家から使いがいったと見えて、昨夜川——村の大叔父を送っていった三郎が、顔色をかえて帰って来たが、その三郎には意外な連れがあった。  その人は三十五、六の、丸顔に|美《び》|髯《ぜん》をたくわえた立派な紳士だったが、糸子刀自はひとめその顔を見ると眼を|瞠《みは》って呼吸をはずませた。 「まあ、隆二さん、あなたどうしてここへ帰って来たの」 「お母さん、いま源七から聞いたんですが、大変なことがあったそうですね」  その人も驚いている事は驚いているらしかったが、案外落ち着いているようでもあった。 「大変も大変、わたしはどうしていいかわからない。しかし隆二さん、あなたはどうして帰って来たの。いつ帰って来たの」 「福岡からいま着いたばかりなんです。学会のほうが思いのほか早く済んで兄さんにお祝いをいおうと思って、さっき清——駅へ着いたばかりなんです。でどんな様子なのか聞こうと思って、 川——村の大叔父さんのところへ立ち寄ったところ、 源七がやって来て……」  それまで不思議そうにその人の顔を見守っていた銀造は、この言葉を聞くと、急に大きく眼を瞠った。そして焦げつきそうな視線でその横顔を見据えていた。この凝視があまり|執《しつ》|拗《よう》だったので、その人もそれに気がつくと、どこか落ち着かない顔色で糸子刀自を振り返った。 「お母さん、この方は……」 「ああ、こちらは克子さんの叔父さんですよ。銀造さん、これがうちの次男の隆二です」  銀造は無言のままうなずくと、一同の側を離れて自分の座敷へかえって来た。そしてしばらく座敷の中央に突っ立っていたが、やがて一言。 「あの男は嘘をついている」  そう呟くとスーツケースの中から頼信紙を取り出した。  そしてちょっと考えた末つぎのような文字を書いた。 [#ここから2字下げ] 克子死ス 金田一氏ヲヨコセ [#ここで字下げ終わり]  宛名は自分の妻である。  銀造はその電報を持って自ら川——村の郵便局へ出向いていった。     鎌と琴柱 「どうもいやな事件だな。気味の悪い事件だな。俺も長いことこの職業をして来たから、どんな凶暴な血まみれ事件にだって、滅多に驚かんほうだが、この事件ばかりは考えるほどいやになる。薄ッ気味が悪いのだ。ねえ、木村君、犯人の入った跡はあるが、出た跡はないというのは一体どういうんだ」  離家の縁側に持ち出した机にむかって磯川警部は丹念に、小さく引き裂いた紙片を継ぎ合わせている。木村刑事もそれを手伝いながら、 「警部さん、その事についちゃもっと簡単に考えたらどうでしょう」 「簡単にというと?」 「つまり、良介という男が嘘を吐いている……と、そう考えればなんの不思議もないことになりますぜ。こざるがおりていたか、いなかったか、それを知っているのはあの男だけなんだから、嘘を吐こうと思えばいくらでも吐ける」 「そりゃまあそうだが、しかしそうなると、足跡が問題になって来る」 「警部さん。そう一時に二つの事を考えちゃいけませんや、足跡のことは後でもう一度よく庭を調べてみるとして、いまの事ですがね、良介が嘘を吐いたとすると、何故そんな嘘をついたかという事が問題になる」 「君に何か考えがあるかね」 「あの男、何か知っていやあがるんじゃないかと思うんです。つまり犯人をねえ」 「しかし、犯人を知ってるって事と、こざるがはまっていなかったかって事とは、おのずから問題が別じゃないか」 「そんな事はありません。つまりそうやって事件をこんがらかそうというんです。どうも私にゃあの男、虫が好きませんねえ。妙にこそこそしてやがってねえ」 「君、印象で人を判断しちゃ駄目だよ。事件をあやまるもとだ」  だがそうはいうものの、磯川警部にも良介の印象はあまりよくなかった。  いったい一柳家の本家の兄弟は、いずれも相当の押し出しと風格をそなえていて、本陣の末裔と名乗っても、決して恥ずかしくはなかった。一番不出来の三郎でさえも、|懶《なま》けものは懶けものなりに、やはりお坊っちゃんらしいところがあった。それに較べると良介は著しく見劣りがする。柄も小さく貧相で、ひねこびれているし、性質もこせこせとしてどこか|賤《いや》しいところがあった。そういう性質は、彼の眼を見ればよくわかる。その眼は絶えず動いていて、しじゅう人の顔色をうかがっている。一見臆病のように見えてどこか油断のならぬ陰険なところがあった。 「あいつは新家だったね」 「そうですよ。|生涯《しょうがい》うだつの上がらないほうです。もっとも殺された賢蔵というのが学者肌で、家のことは構いつけなかったから、だいぶうまい汁を吸っていたらしいという評判ですがね」 「隆二という男はどうかね。あの男が今朝かえって来たというのはどうも臭いね」 「ああ、あの男ですか。あの男は評判がいいようですね。肌触りのいいさばけた人だと村の連中も言っている。なんでも阪大病院に勤務していて、今度は九州大学の学会のかえりだといっていますが、なに、こりゃ調べればすぐ分かることだから、まさか嘘ではないでしょう」 「うむ……時に、君のさっき言った事だね。良介が犯人をかばっているという……そうすると良介はあの三本指の男を知っていることになるね。ところが川田屋のおかみの言葉によると、そいつまるでルンペンみたいな、貧相な、見すぼらしい奴だったといってるぜ」  川田屋というのは、この物語の一番最初に三本指の男が現われた、村役場まえのあの一膳飯屋のことなのである。  ここで言っておかなければならないのは、磯川警部はこの時までに、一柳家の人々の聞き取りを一応終わっている事である。したがって警部はすでにあの奇怪な三本指の男のことを知っていた。それを語ったのは三郎だが、かれは離家に三本指の手型が残っているという事をきくと、すぐ先日散髪屋できいて来た話を思い出したのである。  磯川警部は三郎の話をきくと、すぐに川田屋へ刑事を走らせた。そしてお|主《か》|婦《み》さんからその男の人相風態を詳しく聞き取らせたが、刑事はそれと同時に、あの時三本指の男が水を飲んだコップを押収して来たのである。はじめにも言っておいた通りお主婦さんは気味悪がって、その後このコップを使わなかったので、そこにはくっきりと三本指の男の三つの指紋が残っていた。そこで警部はすぐにそれを鑑識課のほうへまわしたのである。  ところで、三郎の話をきくと新家の秋子もまた、婚礼の少しまえに台所へやって来た不思議な男のことを思い出した。そこでお直婆さんや、その時台所にいた人々が取り調べられたが、その人たちの話をきくと、人相風態、たしかに三本指の男と同じ人間らしく思われる。ところで、その時その男がことづけた手帳のきれはしだが、これは賢蔵が読み終わると、そのまま|袂《たもと》のなかへ|捻《ね》じ込んだ筈である。  秋子からその話をきくと、警部はすぐにその時賢蔵が着ていた着物を出させて袂のなかを探ってみたが、すると果たしてその袂から出て来たのが、ズタズタに引き裂かれた紙片である。そしていま警部が木村刑事に手伝わせて、丹念に継ぎ合わせているのが即ちそれなのだ。 「木村君、もうひといきだ。ここへはまる奴はないか。いや、それじゃない。それはここらしいな。するとあと二たところこれとこれ……と、さあ出来上がったぞ」  幸いズタズタに引き裂かれたその紙片は、ひとひらも欠けていなかったので、警部の手によって完全にそこに復原された。そしてそこに現われたのは、鉛筆をなめなめ書いたらしい、みみずののたくったような文字の痕。 「どうも妙な文字だな、木村君、一番最初の字は……こりゃあなんと読むんだい」 「警部さん、そりゃ島じゃありませんか」 「島……そうか、そういえば島らしいな。島の約束……か、そうだね、島の約束……その次はなんだろう」 「そりゃ近いという字でしょう。近日じゃありませんか」 「あ、なるほど、近日果たす……か。さあて、その次がまた分からない」  何しろそれは文字そのものが至って悪筆と来ているうえに、ズタズタに引き裂いたものを継ぎ合わせたのだから、読むのになかなか骨が折れた。だがそれでも木村刑事と知恵を合わせて、警部がやっと判読し得たところによると、それは次のような文章になる。 「島の約束近日果たす。|闇《やみ》|討《う》ち不意討ちどんな手段でもいいという約束だったね。君のいわゆる『生涯の仇敵』より」  読み終わって警部と木村刑事は思わずシーンと顔を見合わせた。 「警部さんこりゃ果たし状ですね。まるで人殺しの予告みたいじゃありませんか」 「みたいじゃないよ。本当に予告なんだ。この手紙が手渡されてから数時間後に人殺しがあったんだからね。畜生、ますますいやな事件になって来やあがった」  警部は|裏《うら》|貼《ば》りをしたその警告状を取り上げると、机のまえから立ち上がった。 「とにかく母屋へ行って聞いてみよう。島の約束とあるが、賢蔵がいつかどこかの島にいたか、一柳の者に訊いてみれば分かるだろう」  警部が庭下駄をつっかけておりた時である。さっきから離家の西側を丹念にしらべていた若い刑事が、うしろから彼を呼びかけた。 「警部さん、御用がすんだらちょっとこっちへ来て下さい。妙なものがあるんです」 「なんだ、なんだ、何か新しい発見があったかい」  刑事が案内したのは離家の西側に突き出している便所のすぐまえである、ここでもう一度前に掲げた見取り図を参照して戴きたい。そこには掃き寄せた落ち葉がうず高く盛りあげてあるが、刑事は棒の先でその落ち葉を掻き分けると、 「ほら、あれをご覧なさい」  警部はそれを見ると思わず眼を瞠った。 「あっ、こりゃ琴の|柱《じ》じゃないか」 「そうですよ、なくなった琴柱ですよ、こんなとこへ投げこんで行きやがったんです。ねえ警部さん、これで見ても犯人がこっちへ逃げ出たことはわかりますよ。ひょっとすると、便所の窓から投げ出したんじゃないかと思ったんですが、見るとこの便所の窓はみんな目の細かい金網が張ってあります。とてもそこから琴柱は投げ出せません。雨戸の上の欄間からじゃ角度からいって無理ですしねえ。ところでこいつうまいぐあいに落ち葉に埋もれていたので、大して濡れてもいないんです。どうやら血に染まった指の跡がついてるようですよ」  警部もそこから便所の窓を見上げ、雨戸のほうを眺めたが、これは刑事のいうとおりだった。 「よし、それじゃ気をつけてね、鑑識課へ回しておきたまえ。発見はそれだけか」 「いえ、もひとつあるんです。こっちへ来て下さい。ほらあれですよ」  刑事が指さしたのは、頭上に|覆《おお》いかぶさっている、樟の大木の繁みのなかである。 「ほら、下から三ツ目の枝のところに|鎌《かま》がぶち込んであるでしょう。さっき登ってみたんですが、物凄く幹にぶち込んであって、とても私の力じゃ抜けないんです。柄を見ると植半と焼印が|捺《お》してあります」 「植木屋が忘れていったんだろう」 「この庭を見るとちかごろ植木屋が入ったことは確からしい。しかし|鋏《はさみ》ならともかく、あんなとこへ鎌をぶち込んどくというのは妙じゃありませんか」 「そういえばそうだね」  警部はちょっと考えて、 「あの鎌はそのままにしとき給え。で、ほかには……ああそう、それじゃあの琴柱を鑑識課へ回してね。なお、念のためにそのへんをよく探して見給え」  警部が母屋へやって行くと、一柳家の人たちは、全部茶の間に集まっていた。  銀造も部屋の隅で、マドロスパイプからしきりに煙を吐いていた。彼は今朝郵便局から帰って来ると、そこへ陣取ったまま絶対に動こうとはしないのである。彼は誰ともほとんど口を利かなかった。唯黙って、マドロスパイプを吹かしながら、みんなのひそひそ話を聞いている。一同の眼付きや挙動を、じろじろと、遠慮を忘れた眼でうかがっている。そういう銀造の存在は、一柳家の人々にとって、|梅《つ》|雨《ゆ》|空《ぞら》におおいかぶさった雨雲のように重っ苦しく、息苦しかった。わけても良介と三郎は、かれの顔を見るたびに、おどおどと、|怯《おび》えたように眼をそらした。  ただ鈴子だけは、一見|怖《こわ》そうに見えてその実、どっか親切そうなところのあるこの小父さんに、いつの間にか馴染んで、いまも甘ったれるようにその膝にもたれかかっていた。 「ねえ、小父さま」  と、銀造の関節の太い指を|弄《もてあそ》びながら鈴子はいうのである。 「わたし……妙なことがあるのよ」 「…………?」  銀造はパイプを|咥《くわ》えたまま鈴子の顔を見る。 「昨夜、真夜中に琴の音がしたわねえ。はじめのはコロコロコロシャンって、琴爪をはめた指で、めちゃめちゃに掻きまわすような音だったわねえ。それから二度目にまた、ピンピンピンと、なんかで琴の糸を|弾《はじ》くような音がしたわねえ、小父さん、憶えてて?」 「ああ憶えてるよ。それがどうしたの」 「わたしねえ、一昨日の晩も、おんなじような音を聞いたのよ」  銀造は思わず眼を瞠って鈴子の顔を見直した。 「鈴子さん、それはほんとうかな」 「ええ、ほんとうよ。やっぱり、離家のほうから聞こえたのよ」 「そして、昨夜みたいにコロコロシャン……て、めちゃめちゃに琴の糸を掻き回すような音だったのかい」 「ううん、そうじゃないわ。そういう音もしたかも知れないけど、その時にはわたしきっとよく寝ていたのよ。鈴子がきいたのはピンピンピンと琴の糸を、弾くような音だけよ」 「いったい、それは一昨日の晩の何時頃?」 「何時頃だか知らないわ。鈴子怖くなって寝床のなかにもぐり込んでしまったんですもの。だって、その晩は離家に誰もいなかった筈でしょう。お琴だって、こっちにあったのよ。ねえ、小父さま、猫ってほんとうに死ぬと化けるの」  鈴子の話はいつもこれである。相当筋のとおった話をしているかと思うと、突然、それが妙なほうへ飛躍してしまう。  しかしいま鈴子の洩らした言葉、一昨夜の晩も琴の音がしたという話には、何か重大な意味がありはしないか……銀造がそれを訊き直そうとしたところへ入って来たのが磯川警部だった。それで鈴子と銀造の話はそれなりになってしまった。 「ちょっと皆さんにお訊ねしたい事があるんですがねえ。亡くなった賢蔵さんは、いつかどこかの島に滞在していたことがありますか」  警部の問いに一柳家の人々は顔を見合わせた。 「さあ、……良さん、あなた憶えている? 賢蔵はちかごろちっとも外へ出なかったわねえ」 「いや、ちかごろでなくてもいいのです。ずっと以前でも構わないのです。島へ旅行したとか、島に滞在していたとか……」 「ああ、それならそういう事もあったでしょう。若い時分兄貴は旅行好きで、よくほうぼうを歩いたようですから、しかし警部さん、そのことが今度のこととなにか……」  隆二は眉をひそめて警部の顔を見守っていた。 「ええ重大な関係があるらしく思われるんです。で、その島の名前がわかればいいと思うんだが……実はこれですがね」  と、警部は裏貼りをした例の警告状めいた手紙を見せると、 「ここに妙なことが書いてありましてね。ひとつ読んでみますから、この手紙の意味を考えて下さい」  警部がその手紙を読み上げて、最後に、「君のいわゆる生涯の仇敵より」というところまで来たときである。  一同のなかにふいに、微かな叫び声を洩らした者があった。それは三郎だった。三郎は警部の詰問するような視線と、一同の物問いたげな眼つきに射すくめられて、真っ蒼になってソワソワしていた。     捜査会議  三郎の妙な素振りは、一同の注意をひかずにいなかった。 「三郎、おまえ何かいまの手紙に心当たりがあるのかい」  眉をひそめてそう訊ねたのは隆二である。三郎は、一同の視線が自分に集まっているのに気がつくと、すっかり度を失って、 「僕……僕……」  と、|口《くち》|籠《ごも》りながら、しきりに額の汗をこすっている。警部の視線はしだいに|嶮《けわ》しくなって来た。 「三郎さん、何か心当たりがあるのなら、正直に言って下さい。これは大事なことですから」  どこか極めつけるような警部の調子に、三郎はいよいよあがり気味になったが、それでもやっときれぎれに、こんな事をいった。 「僕……いまの手紙の最後にある言葉におぼえがあるんです。……生涯の仇敵……と、そういう言葉を見たことがあるんです」 「見た……? どこで見たのですか」 「兄さんのアルバムです。賢蔵兄さんのアルバムに、名前もなにも書いてなくて、ただ、生涯の仇敵……と、そう書いた写真が貼ってあるんです。僕……その言葉が妙だからいまでもよく憶えているんです」  糸子刀自と良介は、こっそり顔を見合わせた。隆二は不思議そうに眉をひそめる。銀造はだまって向こうのほうから、そういう三人の顔を注意深く見まもっていた。 「そのアルバムというのはどこにありますか」 「書斎にある筈です。兄さんは自分のものを決してひとに触らせない人ですが、僕は偶然の機会に、その写真を見たことがあるんです」 「ご隠居さん、書斎を探してもいいですか」 「さあどうぞ。三郎さん、あなたご案内してあげたら……」 「私もいこう」  隆二が腰をあげたあとから、銀造もだまって立ち上がっていた。  賢蔵の書斎は玄関の左、即ち母屋の東南の角にあって、十二畳じきくらいの洋風の部屋であるが、南からつきだした半間の壁によって、だいたい二つの部分にくぎられている。このくぎられた狭いほうは、三郎の勉強部屋になっているらしく、ドアはこの勉強部屋の、北側についていた。だから賢蔵が自分の書斎として占有しているところは、結局八畳くらいのひろさだが、この部分の東と北の壁は、床から天井まで、ぎっしりと洋書のつまった本棚で埋まっており、南側の窓よりのところに大きなデスクがすえてある。そして二つの区画のほぼ中央に鉄製の大きなストーヴがおいてあった。 「三郎さん、そのアルバムというのはどこにありますか」 「本棚の……そこんところ……」  なるほどデスクの左側、本棚のいちばん手ぢかな一段には、賢蔵の日常生活に身ぢかなものがおいてあったらしく、アルバムだの、日記帳だの、切り抜き帳だのが、きちんとよく整理されてならべてあった。三郎がその中からアルバムを抜き取ろうとすると、警部があわててその手をおさえた。 「いや……ちょっと待って下さい」  警部は本棚のまえに立って、注意深くその一段を眺めている。  賢蔵という人はよほど|几帳面《きちょうめん》な人であったとみえて、日記なども全部保存してあり、大正六年からはじまって、昭和十一年、即ち昨年の分まで二十冊、年代順にきちんとならべてある。しかもその全部が、東京の某書店から発行されている、同じ判、同じ|装《そう》|幀《てい》、同じ紙質の日記帳であり、こういうところにも賢蔵という人の人柄がうかがわれた。  警部は本棚に顔をこすりつけるようにしてこの日記をながめていたが、やがて眉をひそめて一同を振りかえった。 「ちかごろ誰かこの日記帳をいじった人がありますね。ほらこの三冊、大正十三、十四、十五年と、この三冊だけがうまく本棚におさまっていない。それにほかのが全部うすく|埃《ほこり》をかぶっているのに、この三冊だけはそれがない。それにもっと妙なことがありますよ」  警部は注意深くその三冊を抜き取ると、一冊一冊それを抜いて見せたが、銀造はそれを見ると、思わず眼をそばだてた。三冊が三冊とも、いたるところページが切り抜かれており、大正十四年の分の如きは、その半分がなくなって、装幀がガクガクにゆるんでいた。 「ご覧なさい。この切り口のま新しいところを見ると、ごく最近にやったものですよ。ところで大正十三、十四、十五というと、賢蔵さんのいくつの時に当たりますか」 「兄は今年四十でしたから、大正十三年というと二十七の年になりますね」  隆二が指を折って勘定しながらいった。 「するとこれは二十七歳から二十九歳までの日記になりますね。その時分賢蔵さんは何をしていましたか」 「兄は二十五の年に京都の大学を出たのです。そしてそのまま学校にのこって、二年あまり講師をつとめていましたが、そのうちに呼吸器を患ったので学校を退き、三年あまりぶらぶら静養していたようです。その事は多分日記を見ればよくわかると思いますがね」 「するとこれは学校を退く前後から、療養中の日記ということになりますね。ところで問題は、誰がなんのためにこれを切り取ったか、そして切り取ったぶんをどう始末したか……さっきもいったように、これはごく最近やった仕事だと思うのですがね。え? なにかありましたか」  警部はふいにくるりと銀造のほうへ振り返った。銀造が意味ありげな咳をしながら、持っているマドロスパイプで、コツコツとストーヴを叩いている音をきいたからである。警部はすぐにその意味をさとったと見えて、つかつかとストーヴのそばによると、ガタンと鉄の扉をひらいたが、そのとたん、ううむと短い|唸《うな》り声をあげた。切り取られた日記のページは、明らかにそこで焼かれたのである。ストーヴのなかにはまだ原形を保ったままの燃え殻が、|堆《うず》|高《たか》くもりあがっていた。 「誰が、いつ……いや、このストーヴはいつ掃除したのです」 「昨日の夕方までこんな物はありませんでしたよ。僕は夕方の七時頃まで、この部屋で本を読んでいたんです。その時僕は、二、三度石炭を放りこんで、自分でこのストーヴを|焚《た》いたのですからよく知っています。その時には、たしかこんな物はありませんでしたよ」  三郎はぼんやりと、ストーヴの中の燃え殻を、|視《み》つめながら、そんな事をいった。銀造は例によって感情をあらわさない眼で、じっとそういう三郎の横顔を凝視している。すると何故か三郎の頬は、|真《しん》|紅《く》に紅潮していった。 「いや、ようがす。その事はあとでもっと詳しく調べてみることにしましょう。誰もこの燃え殻に触らないようにして下さい。時に三郎さん、問題のアルバムというのはあれですね」  アルバムは全部で五冊あったが、その背には朱筆でいちいち年号が書き入れてある。警部はその中から「自大正十二年至大正十五年」と書いてあるのを抜き取ると、デスクのうえで注意深く開きはじめたが、六ページと繰らないうちに、三郎が横から口を出した。 「警部さん、それです。その写真です」  三郎の指さしたのは名刺型の写真で、すでに変色しかけているうえに、|擦《す》れたりこすれたりした痕があって、ずいぶんいたんでいた。その前後に貼ってある写真が、ほとんど賢蔵の手になると思われる|素《しろ》|人《うと》写真なのに反して、こればかりは専門の写真屋の手になったものらしく、入学試験などの場合に、願書に添えて出す写真、ああいった式の写真だった。写っているのは二十三、四の丸刈りの青年で、|金釦《きんボタン》のついた詰め襟の洋服を着ている。  そしてその写真の下にはまぎれもなく「生涯の仇敵」と、唯一言、まぎれもなく賢蔵の筆蹟で朱の色も黒く変色していた。 「あなたがたはこの写真の主をご存じじゃありませんか」  隆二も三郎も無言のまま首を横にふった。 「三郎さんはこの写真について、賢蔵さんに訊いてみなかったのですか」 「どうしまして。そんなことをすれば、兄さんにどんなに叱られるかわかりません。僕はそんな写真を見つけた事さえ、兄さんには黙っていたんです」 「生涯の仇敵といえばよくよくの言葉ですが、何か、そんなような事件があったことを、あなたがたはご記憶じゃありませんか」 「兄は自分の胸のなかを、決してひとに覗かせない人でした。そんな事件があったとしても、兄はおそらく誰にも|喋舌《し ゃ べ》らず、自分一人の秘密として守りつづけていたでしょう」  隆二がむずかしい顔をして答えた。 「とにかくこの写真は借りて行きますよ」  警部はその写真をはがそうとしたが、べったりと糊で貼りつけてあるので、なかなかはがされそうにもなかった。無理にはがそうとすると、写真を傷つけるおそれがあるので、警部は鋏で台紙ごと切り抜くと、それを丁寧に手帳のあいだにはさんだ。  総——町の警察署で捜査会議がひらかれたのは、その晩のことではなかったかと思う。  私は捜査会議がどういうふうに行なわれるものかよく知らないし、F医師の手記もその辺のところは又聞きであったと見えて、要領を書き記すにとどめているが、それはだいたいつぎのような情景であったろうと思われる。 「……で、焼き捨てられた日記ですが、それについてはこういう事がわかりました」  むろんそれは磯川警部の発言である。 「昨日の夕方、婚礼のはじまる少しまえに、新家の秋子が賢蔵を探して離家へ行ったことは前にも申しましたね。その時賢蔵は離家の雨戸をしめておくよう秋子に頼んでおいて、一足さきに離家を出ていったのですが、それから間もなく秋子が母屋へかえってみると、こちらへ来ている筈の賢蔵のすがたが見えない。そのうちに時間はしだいに切迫して来るし、隠居の糸子刀自はやいやい言い出す。そこで秋子が家のなかを探してあるくと、賢蔵は書斎のストーヴのまえで、何か燃やしていた……と、いうのです」 「なるほど。すると日記を焼き捨てたのは賢蔵自身だったという事になるんだね」  署長がそう念をおした。 「そうです。そうです。結婚のまえに古い日記や手紙の類を焼き捨てるということはよくあることですが、それにしても式のはじまる直前にそれをやったというところに一つの意味があると思いますね。つまり秋子が離家へ持って来た手帳の切れはしに書いた手紙、それで急に昔のことを想い出して、当時の記録を焼き捨てておく必要をかんじたのでしょうね」 「で、これがその日記の燃え殻なんだね」 「そうです。よほど注意して焼いたと見えて、ほとんど完全に燃えきっているのですが、それでも中に五、六枚、ごくわずかながら燃えのこっている部分があるんです。それがどうやらこの事件に関係がありはしないかと思われるので、ここに選り出しておきましたが、順序はこのとおりです。残念ながら日付のところが全部焼けちまっているのでわかりませんが、多分大正十四年ごろのことと思われます」  磯川警部がそこに並べたのは、燃え残った五枚の紙片であったが、辛うじて灰になることをまぬがれたその文句というのが非常に暗示的で、F医師もその点によほど興味をおぼえたと見えて、覚え書きのために書きとめておいたから、私もそれをそのまま書き写しておこう。 [#ここから1字下げ] 一、……浜へおりて行く途中、いつものところを通ったら、今日もお冬さんが琴を弾いていた。私はちかごろあの琴の音をきくと切なくて|耐《た》ま…… 二、……あいつだ、あいつだ。私はあの男を憎む。私は生涯あの男を憎む…… 三、……はお冬さんの葬式だ。淋しい日、悲しい日、島は今日も小雨が降っている。お葬式についていったら、…… 四、……私はよっぽどあいつに決闘を申し込もうかと思った。この|譬《たと》えようもない憤激。淋しく死んでいったあの人のことを思うと、私はその男を八つ裂きにしてやっても飽き足らぬ。私はあの男を生涯の仇敵として、憎む、憎む、憎む…… 五、……島を去るまえに私はもう一度お冬さんのお墓に参った。野菊を供えてお墓のまえに|額《ぬか》ずいていると、どこからか琴の音が聞こえて来るような気がした。私は率然として…… [#ここで字下げ終わり] 「なるほど」  署長は五枚の燃え残りを、注意深く読み終わると、 「これで見ると賢蔵という人は、どこかの島でお冬さんという女と心易くなった。ところがお冬さんという女には、別にふかい関係のある男があって、その男のためにお冬さんは死んでいった。つまりその男が賢蔵の生涯の仇敵で、そいつが今度の事件の犯人なんだね」 「そういう事になりますね。きっとそこに何か面倒ないきさつがあったのでしょう。そいつの名前か、せめて島の名でもわかればいいのですが、何しろ日記がこのとおり焼けちまっているので、それがどうしてもわからないんです。年代からいうと大正十四年、賢蔵が二十八の年で、当時賢蔵は軽い|肺《はい》|尖《せん》を患って、瀬戸内海の島から島へと、転々として旅をしていたらしいんですが、この事件の起こった島がどこだか、それは一柳家の者にもわからないというんです」 「しかし、この写真があれば……そうそう君はこの写真を三本指の男が最初にあらわれたという飯屋のものに見せたろうね」 「むろん、見せましたよ。飯屋のお主婦と役場の吏員、それからその時一緒にいた馬方にも見せたんですが、三人ともたしかにこの男にちがいないというんです。むろんこの写真から見ると|老《ふ》けてもいるし、やつれてもいた。それに口の辺に大きな傷痕があって、だいぶ人相が変わっているが、それでもたしかにこの男にちがいないと、三人とも断言するんです」 「じゃ、まず間違いはないね。ところでその男が飯屋のまえを立ち去ってから、誰も見たものはないのかね」 「いや、それはあります」  側から口を出したのは木村という若い刑事だった。 「同じ日に、田口要助という一柳家の近所に住む百姓がその男を見ているんです。なんでもそいつ一柳家の門前に立って、こっそりと内部をのぞいていたそうです。で、要助という男が怪しんで様子を見ていると、それに気がついたのかその男は、久——村へ行くのはこの|路《みち》を行けばいいのかと、わかりきった事を訊ねたそうです。そしてぶらぶらそのほうへ歩いていきましたが、しばらくして要助が振り返ると、一柳家の北側にある崖へ這いあがっていくのが見えたそうです。今から考えるとそこから一柳家の様子をうかがっていたんですね。時刻からいって、飯屋のまえを立ち去ってから、五分か十分後のことらしいんです」 「それが二十三日の夕方、つまり婚礼の日の前々日のことなんだね」 「そうなんです」 「ところで、その後もう一度、結婚式のはじまる少し前に、一柳家の台所へすがたを現わしたという事だが、その時台所にいた連中や、その、なんといったけ、ああ、田口要助か。そういう連中にもこの写真を見せたろうね」 「むろん、見せましたよ。しかしこの方は両方とも駄目なんです。何しろ帽子をまぶかにかぶり、大きなマスクをかけていましたし、それに一柳家の台所はとても暗くて……」  署長はぼんやり煙草を吹かしながら何か考えていたが、やがて、デスクのうえに眼を落とした。そこにはつぎのような品々がならんでいる。  一、コップ  二、日本刀  三、日本刀の鞘  四、三個の琴爪  五、琴柱  六、鎌  署長はそれらの品を眼で追いながら、 「このコップが例の飯屋にあったものだね。で、指紋は……?」 「それについては私から説明いたしましょう」  署長の言葉を待ちかねていたように、折り|鞄《かばん》をひらいたのは若い鑑識課の男だった。 「ここに写真がありますが、このコップには二種類の指紋がついています。その一つは飯屋のお主婦さんの指紋ですが、もう一種類は拇指、人差し指、中指とこの三本しかありません。で、これこそ問題の三本指の男の指紋にちがいないのですが、それと同じ指紋が日本刀、日本刀の鞘、それから琴柱のうえから検出されるのです。ことに琴柱についている指紋は血に染まっています。日本刀と日本刀の鞘には賢蔵自身の指紋もかすかに残っていますが、琴柱のほうは犯人の指紋以外には何もありません。それから琴爪ですが、これは裏側に犯人の指紋がなければならん筈ですが、ご覧のとおり、べっとり血がついているので、却って指紋の検出ができないのです。鎌のほうはご覧の通り柄がこういう種類の木製で、これも明確な指紋の検出はできませんでした」 「この鎌は……」 「それはこうです」  と、磯川警部が体を乗り出した。 「こいつ離家の庭にある樟の木に、打ち込んであったんですが、調べてみると一柳家には一週間ほどまえに植木屋が入っている。で、その植木屋を呼び出して調べたところが、たしかにその時忘れていったにちがいないが、樟の木にうちこんでいったなんて事は、決してないと言い張るんです。木鋏ならともかく、鎌を持って樟の木へのぼるなんてことはちょっと考えられないから、これは植木屋がいうことを信じてもいいと思う。と、すればこれがどうして樟の木にうちこんであったのか、それにこいつ物凄く研ぎすましてある、そこに何か、意味がありはしないかと思って、ともかく押収して来たんですがね」 「どうもいろいろの疑点があるね。ところで現場のほうの指紋は……?」 「現場で三か所から、明確な犯人の指紋が検出されています。一つは例の八畳のうらにある押し入れのなかで、これは血にそまっていません。ところが後の二か所はいずれも血にそまった指紋で、一つは雨戸の裏側、もう一つは八畳の南西の柱なんです。この後の指紋はいちばん見やすいところにありながら、いちばん遅れて、発見されているんですが、それというのが、あの家は全部紅殻塗りなんで、つい見落としていたんですね」 「するとどうしても他に犯人があるということになるね、自殺の可能性はまずないね」 「自殺ですって?」  磯川警部はあきれかえったような眼を瞠った。 「いや、これは僕の意見じゃないがね、自ら心臓を貫いておいて、欄間から刀を外へ投げ出したんじゃないかという者があるんだ」 「誰がそんな馬鹿げたことを考えたんです。現場を見ればそんな疑問の起こる筈はありませんよ。凶器の突っ立っている現場から見て、まずその可能性はありません。それに例の琴柱ですが、こいつはたしかに雪がやんでからそこにおかれたものにちがいないのですが、それのあった場所というのが、たとい雨戸をひらいたとしても先ず家の中から投げることは不可能です。しかし、いったい誰がそんな馬鹿げたことを考えたんですか」 「|妹《せの》|尾《お》だよ。あの男にとっちゃ自殺という事になったほうが有難いんだ。保険金を支払わなくても済むからね」 「保険金……? ああ、妹尾というのは保険会社の代理店をやっている男ですね。賢蔵はいったいいくら保険に入っているんです」 「五万円だよ」 「五万円?」  警部が眼を瞠ったのも無理はない。この頃の田舎として五万円はたしかに大金だったにちがいない。 「いったい、いつ加入したんです」 「五年前だそうだ」 「五年前? しかし、女房も子供もない賢蔵が、なんだってそんな大きな保険に入ったんでしょう」 「それはこうだそうだ。賢蔵の弟に隆二という男があるだろう。五年まえにその男が結婚した時、分けるものを兄弟に分けてしまったのだそうだ。ところが三男の三郎、こいつ親戚じゅうでの鼻つまみらしく、非常に分けまえが少ない、それに義憤を感じたとでもいうのか、その時賢蔵が五万円の保険に入って、それを三郎に譲ることにしたんだそうだよ」 「すると保険の受け取り人は三郎になっているんですね」  磯川警部はふいになんともいえぬ胸騒ぎをかんじはじめた。  三郎は結婚式の晩、川——村の大叔父を送っていって、そのままそこへ泊まっている。つまり関係者のなかで、三郎だけが一番たしかな現場不在証明を持っていることになるのだが、その事がかえって何か大きな意味を持っているのではあるまいか。……  磯川警部はにわかに激しくひげをひねりはじめていた。     金田一耕助  十一月二十七日、即ち一柳家で恐ろしい殺人事件のあった翌日のことである。  伯備線の清——駅でおりて、ぶらぶらと川——村のほうへ歩いて来るひとりの青年があった。見たところ二十五、六、中肉中背——というよりはいくらか小柄な青年で、|飛白《か す り》の|対《つい》の羽織と着物、それに縞の細い|袴《はかま》をはいているが、羽織も着物もしわだらけだし、袴は|襞《ひだ》もわからぬほどたるんでいるし、|紺《こん》|足《た》|袋《び》は爪が出そうになっているし、下駄はちびているし、帽子は形がくずれているし……つまり、その年頃の青年としては、おそろしく|風《ふう》|采《さい》を構わぬ人物なのである。色は白いほうだが、|容《よう》|貌《ぼう》は取り立てていうほどの事はない。  そういう青年が高——川を渡って川——村のほうへ歩いて来る。左手は|懐手《ふところで》したまま、右手にはステッキを持っている。ふところがおそろしくふくれているのは雑誌か、雑記帳か、そんなものが突っ込んであるのだろう。  その時分東京へ行くと、こういうタイプの青年は珍しくなかった。早稲田あたりの下宿にはこういうのがごろごろしているし、場末のレヴュー劇場の作者部屋にも、これに似た風采の人物がまま見受けられた。これが久保銀造の電報で呼び寄せられた金田一耕助なのだ。  比較的詳しくこの事件のなりゆきを知っている村の人々のあいだでは、この青年はいまでも神秘的な人格として記憶されている。 「あんなもっさりとした若いもんが、警部さんも及ばぬ働きをしたんだから、やっぱり東京もんはちがったもんだと、その時分、何しろ大した評判で……」  と、そういう言葉からでも分かるように、この青年こそ一柳家の妖琴殺人事件で、もっとも重要な役目を果たした人物なのだが、いま私が、村の人たちの話などを総合して考えるに、この青年は|瓢々乎《ひょうひょうこ》たるその風貌から、どこかアントニー・ギリンガム君に似ていはしまいかと思う。アントニー・ギリンガム君——だしぬけに片仮名の名前がとびだしたので、諸君は面喰らわれたろうが、これは私のもっとも愛読するイギリスの作家、A・A・ミルンという人の書いた探偵小説「赤屋敷の殺人」に出て来る主人公、即ち|素《しろ》|人《うと》探偵なのである。  ところでミルンがその小説のなかで、はじめてアントニー・ギリンガム君を紹介するくだりで、こういう事を書いている。——この人物は、この物語のなかでも主要な役目を受け持っているので、話のなかに入りこんでしまうまえに簡単ながら一応説明しておく必要がある、——と、私もミルンにならって、ここで一応、金田一耕助という男のひととなりを説明しておくことにしよう。  金田一——と、こういう珍しい名前から、諸君もすぐ思い出されるであろうが、同じ姓を持った人で有名なアイヌ学者がある。この人はたしか東北か北海道の出身だったと思うが、金田一耕助もその地方の出らしく、言葉にかなりひどい|訛《なま》りがあったうえに、どうかすると|吃《ども》ることがあったという。  かれは十九の|年《と》|齢《し》に郷里の中学校を卒業すると、青雲の志を抱いて東京へとび出して来た。そうして某私立大学に籍をおいて、|神《かん》|田《だ》あたりの下宿をごろごろしていたが、一年も経たぬうちに、なんだか日本の大学なんかつまらんような気がして来たので、ふらりとアメリカへ渡った。ところがアメリカでもあまりつまるような事はなかったと見えて、皿洗いか何かしながら、あちこちふらふら放浪しているうちに、ふとした好奇心から麻薬の味を覚えて、次第に深みへおちこんでいった。  もしもこのまま何事も起こらなかったら、かれも立派な麻薬中毒患者として、在留日本人間での持てあましものになったろうが、そのうちに妙な事が起こった。サンフランシスコの日本人間で、奇怪な殺人事件が起こって、危うく迷宮入りをしそうになった。ところがそこへふらふらと飛び出していったのが、麻薬常習者の金田一耕助で、見事にかれがこの怪事件を解読してのけたのである。しかもこの解決のしかたに少しもハッタリがなく、あくまでも理詰め一点張りの正攻法であったから、在留日本人はあっとばかりに驚いたり|呆《あき》れたり、今迄の麻薬常習者の持てあまし者金田一耕助は、たちまち一種の英雄に祭りあげられた。  ところがたまたまその時分、サンフランシスコに居合わせたのが久保銀造であった。銀造は岡山ではじめた果樹園がひととおり成功していたので、それについてもう一つの事業をもくろんでいた。諸君は戦前、サンキストという商標のついた|乾《ほし》|葡《ぶ》|萄《どう》をよろこんで食べた記憶を持っているにちがいない。あれはカリフォルニアにいる日本人によって多く作られていたものだが、銀造はそれを日本で作って見ようと思った。そこで見学かたがた、久しぶりでアメリカへ渡っていたのだが、ある在留日本人会の席上で、銀造はふと金田一耕助にあった。 「どうだね。いい加減に麻薬と縁をきって、真面目に勉強する気はないかな」 「僕もそうしたいと思っています。麻薬も結局大したことはありませんからな」 「君がその気なら、私が学資を出すが」 「どうぞよろしく頼みます」  耕助はもじゃもじゃの髪の毛を掻きまわしながら、あっさり頭を下げて頼んだ。  銀造は間もなく日本へ帰ったが、耕助は三年居残ってカレッジを出た。そして日本へ戻ると、すぐ神戸から岡山の銀造のもとへやって来たが、その時、銀造はこういった。 「さて……と、これから何をするつもりだね」 「僕、探偵になろうと思います」 「探偵……?」  銀造は眼をまるくして耕助の顔を見直したが、すぐに三年まえの事件を思い出して、それもよかろう。どうせ堅気の職業につける人間ではないと思った。 「探偵——という職業は私もよく知らんが、やはり活動に出て来るように、天眼鏡や巻き尺なんか使うのかね」 「いや、僕はそんなものは使わん積もりです」 「では、何を使うのかな」 「これを使います」  耕助はにこにこしながら、もじゃもじゃの頭を叩いて見せた。  銀造は感心したように、ううむとうなずいた。 「しかし、|頭脳《あ た ま》を使うにしてもやはりいくらか資本が|要《い》るだろう」 「そうですね。事務所の設備費やなんかに、三千円は要るだろうと思います。それに、さし当たりの生活費が要りますね。看板を出したからって、そういきなり、|流《は》|行《や》らんでしょうし」  銀造は五千円の小切手を書いて黙って渡した。耕助はそれを受け取ると、ペコリとお辞儀をしたきりで、大して礼もいわずに東京へ帰ると、間もなくこの風変わりな職業をはじめたのである。  東京における金田一耕助の探偵事務所は、はじめのうちはむろん、商売にもならないらしかった。銀造のもとへおりおりよこす近況報告にしても、門前|雀羅《じゃくら》、事務所には閑古鳥|啼《な》き、主人公はあくびを噛み殺して、探偵小説ばかり読んでいる。というような、真面目なのか、ふざけているのかわからないようなのが多かったそうである。  ところが半年ほど経つうちに、手紙の調子がしだいに変わって来たかと思うと、ある朝、思いがけなく耕助の写真が大きく新聞に出ているのを発見して銀造は驚いた。何をやらかしたのかと思って読んでみると、その頃全国を騒がせていた某重大事件を見事解決した殊勲者として、新聞が大々的に|提灯《ちょうちん》を持っているのであった。その記事の中で耕助はこういうことを言っていた。 「足跡の捜索や、指紋の検出は、警察の方にやって貰います。自分はそれから得た結果を、論理的に分類総合していって、最後に推断を下すのです。これが私の探偵方法であります」  それを読んで銀造は、いつかかれが巻き尺や天眼鏡のかわりに、これを使いますといって、頭を叩いてみせたことを思い出して、思わず会心の微笑をもらしたのであった。  その耕助が一柳家の事件の際、たまたま銀造の家へ来合わせていたというのはこうである。当時、大阪の方にまたむつかしい事件が起こって、耕助はそれの調査のため下阪していたのだが、思いのほか事件が早く片づいたので、骨休めかたがた、久しぶりに銀造のもとへ遊びに来ていたのである。そして銀造と克子を送り出したかれは、銀造が結婚式をすまして帰って来るまで、ゆっくり遊んでいるつもりでいたところが、今度の事件で、銀造から電報で出馬を懇請されたのであった。  いったい一柳家のある岡——村と、銀造が果樹園をやっているところとは、さしわたしにして十里にも足りないみちのりだが、乗り物の都合のわるいところで、ここへ来るためにはいったん玉島線へ出て、そこから山陽線の上り列車に乗り、倉敷で伯備線に乗りかえそして清——駅でおりると、そこからまた一里ほど逆に帰らなければならない。銀造や克子もその道順でやって来たし、耕助も同じ径路を|辿《たど》ってやって来たのだが、その耕助が、高——川を渡って川——村の街道へさしかかったときである。|俄《にわ》かに騒がしい叫び声がきこえたかと思うと、人々が口々に|罵《ののし》り騒ぎながら、くの字なりに曲がった街道の向こうへ走っていくのが見えた。  何事が起こったのかと思って、耕助も思わず足をはやめていたが、するとちょうど川——村の町並みのとぎれるあたりで、乗り合い自動車が電柱に乗り上げていて、そのまわりに大勢人だかりがしているのだった。耕助がそばへ近づいていくと、乗り上げた自動車のなかから怪我人をかつぎ出しているところだったが、そばにいる人に聞いてみると、向こうから来た牛車を避けようとしたはずみに、電柱に乗り上げたのであるということだった。  この乗り合い自動車はさっき耕助がおりた清——駅から出るもので、乗客の大半は耕助と同じ列車でやって来た人々であった。自分もこの乗り合いに乗っていれば、同じ災難に|遭《あ》わねばならぬところであったと、耕助はおのれの幸福を祝福しながら、乗り合いのそばを離れようとしたが、そのとき中から担ぎ出された婦人の姿が、ふとかれの眼をとらえた。耕助はこの婦人に見憶えがあったのである。  前にいったように、その朝早く玉島から上り山陽線に乗った耕助は、倉敷で伯備線に乗り換えたのだが、その倉敷から同じ列車に乗り合わせたのがこの婦人であった。耕助とは反対にこの婦人は、下り列車で倉敷までやって来たらしかったが、向かい合わせの席に座をしめた時、耕助はこの婦人がひとかたならず昂奮しているのに気がついた。  婦人は途中の駅で買ったらしいこの地方の新聞を、いくまいも膝のうえに重ねていて、むさぼるように読んでいたが、彼女の読んでいる記事が、一柳家の殺人事件であることに気がついた時、耕助は改めて、婦人の顔を見直さずにはいられなかった。年ごろはたぶん二十七、八だろう。地味な銘仙の着物に、紫の袴をはいていたが、束髪に結った髪がおそろしく縮れっ毛であるうえに、かなりひどい|藪《やぶ》|睨《にら》みと来ているから、お義理にも美人とはいいにくかったが、どこか知的なひらめきが見えて、それが眼鼻立ちの醜さを救っており、全体の感じからいって、女学校の先生というところであった。  耕助はふと、今度の事件の被害者の一人である克子が、女学校の先生であったことを思い出して、ひょっとするとこの婦人は、克子と何か関係があるのではないかと思った。もしそれならば、ここで話しかけておけば、何か参考になることを聞き出せるかも知れぬと思ったが、婦人の様子にどこか人をよせつけぬところがあり、つい、口を切り出しそびれているうちに汽車は清——駅へついてしまった。そこでとうとう耕助は、話しかけるきっかけを失ってしまったのである。  いま乗り合い自動車のなかから担ぎ出されたのはその婦人であった。しかも、二、三人ある怪我人のなかで、この婦人がいちばん重いらしく、ぐったりと色を失っているので、耕助もよっぽどあとからついていこうかと思ったが、その時自動車を取りまいている人々のあいだで、つぎのような話し声がきこえたので、耕助はまた思いなおして、立ちどまった。その|囁《ささや》きというのはこうである。 「昨夜また一柳さんのお宅に、三本指の男が出たってえじゃないか」 「そうなんだってさ。それでまた警察じゃ今朝から大騒ぎさ。この辺いったいに非常線が張ってあるというから気をつけな。変な恰好をしてうろうろしてるとつかまるぜ」 「馬鹿をいうな、こっちは、ちゃんと五本の指がそろってるよ。だが、それにしてもいったいどこに隠れているんだろうな」 「久——村へ越す山のなかへかくれているんじゃないかというので、なんでもあの辺じゃ村の青年団を総動員して山狩りをするというぜ。とにかく大変なこったあね」 「一柳さんの家には何か|祟《たた》りがあるっていうじゃないか。先代の|作《さく》|衛《え》さんだってあんな死に方をするしさ、新家の良介さんの親爺というのも、広島で切腹したという話があるからね」 「うん、今朝の新聞にもそんな事が出てるね。血に|呪《のろ》われた一家だなんて、……そういやあ、あの家には以前から、なんとなく陰気なところがあったね」  ところで川——村の人々がいまいっている「血に呪われた一家」というのは、その朝の地方新聞に出ていたところなので、耕助もよく知っていたが、それはこうである。  賢蔵たちの兄弟の父作衛という人は、その時分からかぞえて十五、六年まえ、即ち鈴子がうまれて間もなく死んだが、それはふつうの死に方ではなかった。この人は、日ごろはいたって温厚な物分かりのいい人物であったが、物に激しやすく、激すると前後の見境いがなくなるのであった。鈴子がうまれて間もなく、この人は村内のものと田地のことから争いを起こした。この争いが昂じた揚句、ある晩、作衛は抜き身をひっさげ、相手のもとへ斬りこんでいった。そして、見事に相手を斬り殺したのはよかったが、自分も|深《ふか》|傷《で》をうけて、家へ帰って来るとその晩のうちに息を引き取ったのである。  村の故老はこの事件と、この度の殺人事件を結びつけ、更にそれに講談まがいの知識を付会して、作衛がその時斬りこみに用いた刀は村正であり、賢蔵夫婦が殺されたのも同じ村正である。一柳家には村正が祟るのだ、というようなことを、まことしやかにいっていたが、これは間違いで、作衛がその時ひっさげていた刀は村正などではなく、しかもその刀は作衛氏の事件のあった後、|菩《ぼ》|提《だい》|寺《じ》へ納められたという事だし、今度の事件で犯人が用いた刀は、明らかに貞宗であるという記録が残っている。しかし、新聞が、「血に呪われた一家」などと騒ぐのも無理のないところで、この作衛という人の弟、即ち新家の良介の父、|隼《はや》|人《と》というのが、これまた日本刀で、非業の最期を遂げているのである。  この人は軍人を志願して、日露戦争の時には、大尉で広島にいた。ところが部内に起こった不正事件の責任をおって、日本刀で割腹したのである。この時も、責任を痛感しての自決は見事にはちがいがないが、まさか割腹するほどの事はなかったであろうというのが一般の定評だった。そして割腹の原因にしても、部内に起こった不正事件もさることながら、些細なことにも大事を|惹《ひ》き起こすほど、神経が尖鋭化されていたことのほうが、より大きな原因だったろうといわれている。つまり一柳家には代々|狷《けん》|介《かい》にして人を容れない一種|劇《はげ》しい性質がつたえられていたのである。  それはさておき、昨夜また、三本指の男が一柳家に現われたというのは、耕助にとっては初耳だったし、何かまた変わったことでも起こったのではあるまいかと思うと、もうその辺でぐずぐずしているわけにはいかなかった。それでかれは気になる怪我人のことはそのままにしておいて、一柳家へ急いだが、それでもかれはその婦人が、木内医院というのへ担ぎこまれたのを、はっきり見定めておくことを忘れなかった。     猫の墓  金田一耕助が、山ノ谷の一柳家へ着いたのは、正午少しまえのことだった。なるほど部落へ近づいていくにしたがって、あたりはなんとなくものものしく、自転車に乗ったお巡りさんが右往左往しているのも、事件のあった後らしかった。  耕助が着いた時、一柳家の人々は例によって茶の間に集まっていたが、その一隅に黙然としてすわっていた銀造は耕助の名前をきくと、俄かに生き生きとした表情を取り戻した。 「やあ、よく来てくれたね」  玄関へ出迎えた銀造の顔には、この人には不似合いなほど懐しさが|溢《あふ》れていた。 「|小《お》|父《じ》さん、この度はどうも……」 「いや、そんな事はあとでもいい、それよりこっちへ来たまえ。皆さんに紹介しとこう」  金田一耕助が来るということは、前の晩、銀造の口から披露してあったので、茶の間に集まっていた一柳家の人々は、どういう人物が現われるかと、一種の好奇心をもって待ちかまえていた。  ところがそこに現われた人物を見ると、年齢からいっても三郎とあまり違わないし、しかももじゃもじゃ頭の、風采のあがらぬ人柄だから、みんなちょっと|呆《あっ》|気《け》にとられた感じであった。鈴子の如きは眼を|瞠《みは》って、 「あら、えらい探偵さんというのはあなたのことなの?」  と、無邪気な質問を発したくらいである。  糸子刀自と三郎と良介は、ちょっとどぎもを抜かれたかたちで、まじまじとこの青年の顔を見詰めていた。隆二だけがそれでも、おだやかに遠来の労をねぎらった。  銀造は紹介をおわると、すぐ耕助をつれて自分の部屋へかえっていった。そしてそこで一昨夜からの出来事を、出来るだけ詳しく語って聞かせたが、その中には耕助が、すでに新聞で知っているところもあったが、まだ知らない部分も多かった。銀造は話し終わると最後にこう付け加えた。 「……で、今のところ三本指の男という、得体の知れぬ男が犯人ということになっているが、わしにはどうもいろいろ|解《げ》せぬ筋があるんですね。まず第一にあの隆二という男だが、あの男は事件のあった朝早く、三郎と一緒にこの家へ帰って来たのだ。その時あの男は、いま九州から着いたばかりだというような事をいっていた。ところが、実際はその前の日に、克子をつれて玉島から汽車に乗ったとき、あの男もたしか同じ汽車に乗っていたのだよ」 「ほほう!」  耕助は口笛を吹くような音をさせた。 「すると殺人のあった時刻にこの付近にいたという事をかくしているんですね」 「そうなんだ。わしと同じ汽車で来たということを、向こうでは気がついていないんだね。しかし二十五日の晩から二十六日の朝にかけて、この近所にいた事は間違いないと思う。それだのに、何故あんな嘘をつくのかわしにはわからないし、第一、二十五日の晩、こちらにいながら、どうして婚礼の式に出なかったのか、それからしてどうも解せない」  銀造は嶮しい眼をして茶の間のほうを見ていたが、やがて吐き出すようにこう付け加えた。 「いや、あの男ばかりじゃないのだ。この家の者はみんな変だよ。何か知っていて、それを隠しているとしか思えない。それが互いにかばい合っているようにも見えるし、反対にみんなして疑いあっているようにも見えるんだ。どうもそこのところが妙な空気で、わしはそれが、気に食わんのだ」  この人としては珍しく、激しい調子でそういうのを、耕助はいちいち噛みしめるように聞いていたが、やがて思い出したように、 「ところで小父さん、さっきここへ来る途中で、昨夜また例の三本指の男が現われたという事を聞いたんですが、それは本当なんですか。何かまた変わったことでもあったんですか」 「うむ、それがまたちょっと妙なんだね。実際にそいつの姿を見たのは鈴子だけなんだが、たしかにそいつがやって来たに違いないという証拠はちゃんとあるんだ」 「証拠……? 小父さん、それはどういう事なんです」 「これは鈴子の話なんだが、何しろあのとおりの娘だろ? いささか取りとめがないのだが、わしが考えるのに、あの娘は夢遊病者ではないかと思う」 「夢遊病者……?」  耕助は思わず眼を瞠った。 「うむ。でなければ、あんな時刻にのこのこ起き出して、猫の墓なんかへお参りをする筈がないからね」 「猫の墓……?」  耕助はまた眼を瞠ったが、急に面白そうに笑い出した。 「小父さん、それいったいなんの話なんです。夢遊病者だの、猫の墓だのと、ひどく話が妖怪じみるじゃありませんか。いったいそれはどういう話なんです」 「いや、これはすまない。自分のひとり|合《が》|点《てん》じゃ、話の筋もとおらないね。実はこういうわけなんだよ」  昨夜——と、いうよりは今朝早くのことであった。一柳家の人々はまたただならぬ悲鳴によって、眠りをさまされた。前の晩のこともあるので、銀造は眼をさますと、すわとばかりに飛び起きて雨戸を繰ってみると、離家のほうからこけつまろびつ、こっちへ走って来る人影が見えた。  銀造はそれを見るとはだしのまま庭へとびおりて、その方へ走っていったが、するとかれの胸へ倒れるようにとびついて来たのは、思いがけなく鈴子だった。鈴子はフランネルの寝間着を着たまま、真っ蒼になってふるえていた。見ると足もはだしのままだった。 「鈴うちゃん、どうしたんだ。あんた、こんなところで何をしているんだい」 「小父さん、出たのよ。出たのよ。お化けが出たのよ。三本指のお化けが出たのよ」 「三本指のお化け……?」 「そうよ、そうよ、小父さん、怖いわ、怖いわ。向こうにいるのよ。ほら、玉のお墓のそばにいるのよ」  そこへ隆二と良介が駆けつけて来た。少しおくれて三郎もふらふらとやって来た。 「鈴子、おまえいま時分、なんだってこんなところでまごまごしているんだ」  隆二がいくらか強い語気で訊ねた。 「だって、だって……わたし……玉のお墓へ参ったのよ。そしたら……そしたら——三本指のお化けが飛び出して来て……」  その時、向こうの方から糸子刀自が、気遣わしげな声で鈴子の名を呼んだので、鈴子は泣きながらその方へ走っていった。あとに残った男たちは、探り合うように、互いに顔を見合わせていたが、やがて銀造が、 「とにかく行って見よう」  と、言って、さきに立って歩き出した。 「僕——提灯をとって来ます」  三郎はそう言って引き返したが、すぐ後ろから提灯をともして追っかけて来た。  そこは屋敷の東北の隅にあたっていて、離家をへだてる建仁寺垣の外側になっていたが、その辺いったい大きな|欅《けやき》や|楢《なら》の木がしげっていて、あたり一面、うず高く落ち葉が散り敷いていた。そういう落ち葉のなかに、小さく盛りあげた塚のようなものがこさえてあって、その土饅頭のうえに白木の柱が立ててあり、柱には、多分三郎の筆らしい、くせのある字で「玉公の墓」と書いてあった。墓標のまえには二、三輪、白い野菊の花が挿してある。  一同はその墓を中心として、木立の下を探してみたが、かくべつ怪しい姿も見当たらなかった。三郎の持って来た提灯で、地面を調べてみたが、前にもいったようにその辺いったい深い落ち葉が散り敷いているので、足跡らしい足跡は一つも発見することが出来なかった。かれらは更に手分けして、屋敷じゅうを探してみたが、どこにも怪しい影は見えなかった。 「そこで一同は茶の間へひっかえして来ると、鈴子を取りまいて、いろいろ訊ねてみたのだが、あの娘の話というのがどうも取りとめがなくてね。なんでも猫のお墓参りにいったというんだが、そんな真夜中に、猫の墓参りもおかしい。そこでわしはさっきもいったようにあの娘には夢遊病の習癖があるんじゃないかと思うんだ。昨日からあの娘は妙に死んだ猫のことを気にしていたからね。そこで夜中にフラフラと起き出して、墓参りにいったところが、そこで怪しい男に出会ってはっと眼が覚めたんじゃないかと思う。で、その時あの娘は夢とうつつの境みたいな状態だったんだろうと思うが、なんでも、猫の墓の向こうに変な男がしゃがんでいた。そいつは顔じゅう隠れてしまいそうなほど大きなマスクをかけていたが、それがまるで、くわっと口がさけているように見えたというんだ。そこで鈴子がきゃっと叫んで逃げ出そうとすると、それをつかまえようとするように、男は右手を前に突き出したが、その手には指が三本しかなかった……と、これが鈴子の話なんだ。前にもいったように、あの娘は少し頭が変だ。知能がだいぶおくれているように思う。だから当てにならないといえばならないが、この家の中ではわしはあの娘のいう事が、いちばん信用出来るような気がするんだ。少なくとも故意に嘘をつくようなことはあるまい。だからあの娘が見たといえば、たしかに見たにちがいないと思う。それに、三本指の男がその辺にいたという、たしかな証拠ものこっているんだよ」 「証拠……? その証拠というのをお伺いしたいのですがね」 「それはこうなんだ。夜が明けてからわれわれはもう一度、猫の墓のまわりを調べてみたんだ。足跡でも発見出来ないかと思ってね。残念ながら落ち葉のために足跡は発見出来なかったが、その代わりそれ以上たしかな証拠を発見したんだよ。指紋だ、三本指の指紋だよ」 「指紋がいったいどこに残っていたんですか」 「墓標に……猫の墓のうえにくっきりと、泥によごれた三本指の指紋がついていたんだよ」  耕助はまた、口をすぼめて、口笛を吹くような音をさせた。 「そしてその指紋というのが、たしかに問題の三本指の指紋にちがいないのですね」 「うむ、今朝早く警察の者がやって来てね、調べたところがたしかに問題の指紋にちがいないというんだ。だから昨夜三本指の怪物が、またこの屋敷へやって来たことには、疑う余地はないわけだよ」  銀造は鋼鉄のような感じのする眼で、じっと耕助の顔を見ていたが、その眼のなかにはあきらかに、深い疑惑のいろが見られた。 「いったい、その猫の墓というのは、いつからそこに立っているんですか」 「昨日の夕方からだそうだ。もっとも猫の死骸をそこへ埋めたのは、一昨日の朝、つまり婚礼の日の朝のことだったそうだが、その時には墓標は間に合わなかった。そこで昨日、三郎にせがんで墓標をこさえてもらうと、女中の清といっしょに夕方ごろ、鈴子がその墓標を立てにいったんだそうだ。そこで清を調べてみたんだが、その時にはたしかにそんな指の痕なんかついていなかったと断言するんだ。何しろ削り立ての白木の墓標だから、そんなものがついていれば、清にしろ、鈴子にしろ、すぐ気がつくはずなんだがね」 「すると、どうしても昨夜のうちに、三本指の男が舞いもどって来たということになりますね。しかしなんの用があって舞い戻って来たんでしょう。また、なんだって猫の墓なんぞに手をかけたんでしょう」 「それについちゃ三郎がこういうんだ。犯人は何か忘れものをしていったに違いない。それを取り戻しに来たんだろう……と、こういうんだが、すると、その時また鈴子がこんなことを言い出したのだ。誰か猫の墓をあばいたものがある。土饅頭の形が昨日とちがっている……と、そこで早速警官が猫の墓を掘りかえしてみたんだが……」 「何か出ましたか」 「いや、格別、何も出て来なかったようだ。蜜柑箱ぐらいの白木の箱のなかに、小猫の死骸がひとつ……ほかに変わったものはなにもなかった」 「その猫の死骸を埋めたのは、一昨日の朝のことなんですね」 「そうなんだ。その晩、婚礼があるんだろう。猫の死骸なんかいつまでも置いといちゃ、縁起が悪いと、おふくろに叱られて、二十五日の朝早く埋めたと鈴子が言っている。さっきもいうように、あの娘のいうことは信用しても先ず間違いあるまいと思うね」  耕助が現場であるところの、裏の離家をしらべたのは、それから間もなくのことらしい。  いったい、こういう事件の際、警察以外のものが、|無《む》|闇《やみ》に現場付近をほっつきまわる事は許されない筈であったが、金田一耕助にはそれが出来たのである。この事については一柳家の人々はじめ村の連中も、非常に奇異な想いを抱いたらしく、私にこの物語をしてくれた故老もこんなふうに言っていた。 「何しろその若者が警部さんに、何やらくしゃくしゃと耳打ちすると、警部さんがたちまち恐れ入っちまいましてね。|掌《てのひら》をかえすようにヘイコラしはじめたというんですから、いや、もう大した評判でしたよ」  そういうところからもこの青年は、一種、神秘的な存在として、村の人たちに印象づけられているようであるが、F君の話によると、それは耕助が中央のさる顕職にある人からの、紹介状を持っていたからだという。 「その人はここへ来る前、大阪で何か調査をやって来たらしいんですが、その事件というのがかなり|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》なものだったらしく、警保局かなんかのお役人から身分証明書のようなものを貰って来ていたんですね。何しろあの方面じゃ中央からの添書といえば、神様のお札以上に効顕いやちこですからね。署長も司法主任もすっかり恐れ入っちまったというわけらしいんですよ」  しかし署長や司法主任が、この青年にひとかたならぬ好意を見せたというのは、中央からの添書のせいばかりではなかったように思われる。いろんな人から聞いた話を総合して考えるに、この青年の取りつくろわぬ態度や、いくらか吃る口の利き方には、妙に人を惹きつけるところがあり、かれから何か頼まれると、一肌ぬがずにはいられないというところがあったらしい。  この事件を担当していた磯川警部なども、その魔術にひっかかった一人で、この人はその日の午前中、村の青年団を指揮していたが、正午すぎ一柳家へかえって来て金田一耕助にあうと、たちまちこの青年の人柄にひきつけられてしまった。そこでかれは今迄に自分の手で調べ上げた事実をすっかりこの青年のまえにさらけ出して聞かせたが、それらの事実の中で、耕助が、いちばん興味をいだいたのは、アルバムに貼ってあった三本指の男の写真と、ストーヴの中から発見された、燃えのこりの日記の断片であったらしい。そういう話を聞いている時、耕助はいかにも嬉しそうににこにこしながら、五本の指でがりがりと、もじゃもじゃの頭を掻きまわしていたということだが、これがこの青年の昂奮した時のくせだったということである。 「そ、その、写真や日記の燃えのこりは、いまどこにありますか」 「それは総——町の警察にありますが、なんなら、取り寄せてお眼にかけましょうか」 「そ、そうして戴ければ……で、ほかのアルバムだの日記帳だのは、まだ書斎にあるんですね」 「そうです。ご覧になりたければご案内しましょうか」 「え、ええ、そ、そう願えれば……」  そこで警部に案内されて、賢蔵の書斎へ入っていった耕助は、アルバムだの、日記帳だのを|出《で》|鱈《たら》|目《め》にひっぱり出して、パラパラとページを繰っていたが、すぐそれをもとの本棚に突っ込むと、 「いや、これはもっと後でゆっくり、調べることにしましょう。それではひとつ現場を見せて貰いましょうか」  そこで二人はまたその書斎を出ていきかけたが、ドアのそばまで来たときである。耕助は何を思ったのか、突然、釘づけにされたようにその場に立ちどまった。 「警部さん」  しばらくして、磯川警部を振り返った耕助の顔には、なんともいえぬ奇妙な表情がうかんでいた。 「警部さん、あなたは何故あれのことを話してくれなかったのです」 「あれ……あれってなんですか」 「ほら、この書棚にぎっちりつまっている本……こ、これは探偵小説じゃありませんか」 「探偵小説……? え、ええ、そうですよ。しかし、探偵小説が何かこの事件と……?」  しかし、耕助はそれには答えず、ずかずかとその書斎のまえに寄ると、大きな眼を瞠りいくらか呼吸さえはずませながら、そこに並んでいる、探偵小説の排列に見とれていた。  耕助がそんなにも驚いたのも無理はない。そこには内外のありとあらゆる探偵小説が網羅されているのであった。古いところでは涙香本から始まって、ドイル全集、ルパン物、更に博文館や平凡社から発行された翻訳探偵小説全集、日本物では江戸川乱歩、小酒井不木、甲賀三郎、大下宇陀児、木々高太郎、海野十三、小栗虫太郎と、そういう人たちの著書が、一冊あまさず集められているばかりではなく、未訳の原本、エラリー・クイーンやディクソン・カー、クロフツやクリスチー等々々、まったくそれは探偵小説図書館といってもいいほどの偉観であった。 「い、い、い、いったい、こ、こ、これは、だ、だ、誰の蔵書なんですか」 「三郎ですよ。あの男は猛烈な、探偵小説のファンなんです」 「三郎——三郎——三郎といえば、さっきのあなたのお話では、け、け、賢蔵の保険金の受け取り人になっているのでしたね。そ、そ、そして、その男が、い、い、一番たしかなアリバイを持っているのでしたね」  耕助はそこでまたがりがりと、もじゃもじゃ頭を無闇矢鱈と掻きまわしはじめたということだ。     探偵小説問答  この事件が片づいた後、金田一耕助はつぎのような述懐をひとに洩らしたそうである。 「正直なところはじめ私はこの事件に、あまり気がすすまなかった。新聞を見ると三本指の男が怪しいとある。むろんそのほかにもいろんな|謎《なぞ》や疑問があるようだが、要するにそれは事件の核心となんの関係もない偶然がかさなりあって、たまたまそういう条件を、つくり出したのではないか。そういう偶然のころもを、一枚一枚ぬがせていけば、あとに残るのは結局三本指のルンペンが、通りがかりに演じた凶行——と、そんなふうなありふれたものになるのではないか。お世話になった小父さんへ義理があるからやって来たようなものの、そんな平凡な事件にいちいち引っ張り出されちゃあたまらない。——一柳家の門をくぐった時の私の気持ちを正直にいうと、そんなものだったんです。それが急に興味をおぼえはじめたというのは、三郎君の本棚にずらりとならんだ内外の探偵小説を見てからでした。そこにともかく『密室の殺人』の形態をそなえた凶行が演じられている。そして、ここに『密室の殺人』を取り扱った多くの探偵小説がある。これをしも偶然というべきだろうか。いやいや、ひょっとするとこれはいままで考えていたような事件ではなく、犯人によって念入りに計画された事件ではあるまいか。——そしてその計画のテキストが、即ちこれらの探偵小説ではあるまいか。そう考えたとき、私は急になんともいえぬほど嬉しくなって来たものです。犯人は『密室の殺人』という問題を提出して、われわれに挑戦して来ているのだ。知恵の戦いをわれわれに挑んで来ているのだ。ようし、それじゃひとつその挑戦に応じようじゃないか。知恵の戦いをたたかってやろうじゃないか。こうそのとき考えたものでした」——  磯川警部にはしかし、そういう耕助の昂奮がいかにも子供っぽく馬鹿馬鹿しく思われたのにちがいない。 「どうしたんです。探偵小説も探偵小説だが、現場を見るんじゃないんですか。あまりぐずぐずしていると、暗くなっちまいますよ」 「あ、そ、そうでしたね」  目星をつけた小説を、五、六冊本棚からひっぱり出して、パラパラと、ページを繰っていた耕助は、警部からそう注意をうけると、はじめて気がついたように本をそこにおいた。その様子がいかにも残り惜しそうだったので、人の好い警部もおかしさをおさえることが出来なかった。 「あなたはよほど探偵小説がお好きだと見えますね」 「やあ、そ、そ、そういうわけでもないんですがね。これでまたいろいろ参考になることがありますから、一とおり眼を通すことにしているんです。それじゃご案内を願いましょうか」  前にもいったとおり、その日は山狩りがあったので、刑事も巡査も現場にはいなかった。そこで警部が自ら玄関の封印をきって、耕助を離家のなかへ案内した。  雨戸がしめてあるから離家のなかは薄暗く、縁側の欄間からさしこんで来る光だけが、妙にしらじらとしている。十一月ももう残り少なく、火の気のないたそがれどきの建物のなかは、肉体的にも感覚的にもうすら寒かった。 「雨戸をあけましょうか」 「いや、もうしばらくそのままにしておいて下さい」  そこで警部は八畳のほうに電気をつけた。 「死体のほかはまだ全部、事件が発見されたときのままにしてあります。屏風がそういうふうに、書院の柱とあいた障子に、橋をかけるように倒れかかっていて、そのうちがわに花嫁と花婿が折り重なって|斃《たお》れていたのです」  警部はその時のふたりの位置を、こまごまと説明した。耕助はそれを、うむうむとか、そうそうとか、|相《あい》|槌《づち》を打ちながら聞いていたが、 「なるほど、すると花婿は花嫁の足のほうへ頭をやって倒れていたんですね」 「そうです、そうです。花嫁の膝のあたりを枕にして、|仰《あお》|向《む》き加減に斃れていたんです。なんならあとで写真をお眼にかけましょう」 「はあ、そう願えれば……」  それから耕助は金屏風についている、血にまみれた三本の琴爪のあとを眺めた。  色鮮かな金泥のうえに、くっきりと印された、三つの琴爪の跡は、熟れすぎた|莓《いちご》のように、もうくろぐろと変色していた。そして、その琴爪のあたりからてっぺんへかけて一筋浅い切れ目が走っていて、その切れ目にもかすかに血がついていた。おそらく犯人が刀を振り回すはずみに、血にそまったきっさきが当たったのだろう。  耕助はそれから一本糸の切れた琴を調べてみた。その琴糸のうえを走っている血の色も、|錆《さ》びついた鉄のように黒く変色している。 「この|琴《こと》|柱《じ》が後に、外の落ち葉溜めのなかから発見されたのでしたね」 「そうです、そうです。それから見ても犯人の奴、西側の庭へ逃げ出したのにちがいないのですがね」  耕助はそこに残っている十二個の琴柱をしらべていたが急に顔をあげると、 「警部さん、チョッ、チョッ、ちょっと、これをご覧なさい」  と、ひどく吃りながら声をかけたので、警部も何事が起こったのかとあわてて覗き込んだ。 「ええ、ナ、ナ、何かありましたか」 「あははははは、警部さんは人が悪いなあ。吃りの真似までしなくてもいいんですよ」 「いやあ、そういうわけじゃないが、ちょっとつりこまれたのですよ。で、何があったんです」 「ほら、この琴柱。——ほかの十一個がみなお揃いで、波に鳥の浮き彫りがしてあるのに、これ一つだけはのっぺらぼうで、なんの彫刻もありませんね。つまりこいつだけは、この琴の琴柱じゃないのですね」 「ああ、なるほど。それはいままで気がつかなかった」 「時に、落ち葉溜めのなかから見つかった奴はどうでした。やはりこれとお揃いの……?」 「そうです、そうです。波に鳥の浮き彫りがしてありましたよ。それにしてもこいつ一つだけ、違った琴柱がまじっているというのは、何か意味があるのかな」 「そうですね。あるのかも知れないし、ないのかも知れません。多分お揃いの琴柱のうち一つだけ紛失したので、ほかの琴の奴を持って来たのでしょうね。時に問題の押し入れというのは、この床の裏にあるんですね」  耕助は警部の説明で、押し入れや便所のなかを、見てまわった。それから座敷の柱についている、血にそまった三本指の指紋や、西側の雨戸の裏に残っている、血染めの手型を注意深くながめた。それらの指紋や手型は紅く塗りつぶされた木目のなかに黒くにごって沈んでいた。 「なるほど、この紅殻塗りのために、指紋や手型の発見がおくれたのですね」 「そうです、そうです。それにその雨戸は戸袋に一番近いでしょう。西側の雨戸をひらいた時その戸は一番奥へ入るわけで、だから雨戸を全部しめてしまわなければ、その手型を発見出来ないわけです」  その雨戸には源七の叩きこんだ、斧の裂け目がのこっている。 「なるほど、そして事件を発見した人々も、ここからなかへ入ったのですか、その時雨戸を戸袋のなかへ押しこんでしまったわけですね」  耕助がこざるを外して雨戸をひらくと、しらじらとした外光が一時にパアッーと流れこんで来て、二人は思わず|眩《まぶ》しそうに|瞬《まばた》きをした。 「では、家のなかはこれくらいにしておいて、庭のほうを見せて貰いましょうか。ああちょっと、源七が覗きこんだ欄間というのはこれですね」  耕助は|足《た》|袋《び》はだしのまま、戸袋の外にある大きな手水鉢のうえに立つと、背のびをして欄間からなかを覗いていたが、その間に警部が玄関から二人の|履《はき》|物《もの》を持って来た。  それから二人は庭へおりると、警部は日本刀のささっていた石燈籠の下や、琴柱の発見された落ち葉溜めをいちいち指さして説明した。 「なるほど。そして足跡はどこにもなかったんですね」 「そうです、そうです。もっとも私がやって来たときにはこの辺いったい、もうかなり踏み荒らされていましたが、雪のうえにはひとつの足跡もなかったことは久保氏も認めているんですよ」 「ああ、なるほど、雪のうえに足跡がなかったので、さきに来た刑事やお巡りさんが、遠慮なしにこの辺を踏み荒らしてしまったというわけですね。ときに鎌が突っ立っていたという樟の木はあれですか」  耕助は庭のあちこちに位置をかえて、あたりの様子を眺めていたが、 「なるほど、ちかごろ庭師が入ったらしく、よく手入れがゆきとどいていますね」  西の塀際にある松の木も小ざっぱりと刈り込まれて、縄でつった釣り枝にはまだ真新しい青竹が五、六本渡してあった。耕助が庭石の上に飛び上がって、その青竹のなかを覗いているのを見ると、警部は思わず笑い出した。 「どうしたんです。犯人が竹の節のなかに、かくれているとでも思っているんですか」  警部がからかい気味に訊ねると、耕助はいかにも嬉しそうにがりがり頭を掻きながら、 「そうです、そうです。犯人はこの竹のなかを潜って逃げたのかも知れませんよ。だってこの竹、綺麗に節が抜いてあって、向こうまで筒抜けですからね」 「なんですって」 「植木屋が釣り枝の添え木にするのに、いちいち竹の節を抜くわけはありませんね。それにこの枝、ご丁寧に二本も竹の添え木がしてある。縄の結びかたから見ると、一本はたしかに本職の仕事だが、この節を抜いた竹のほうは素人がやったらしいですね」  警部も驚いてそばへやって来ると、竹の中を覗いていたが、 「なるほど、節が抜いてある。しかし、これに何か意味があるのかな」 「そうですね。変なところに鎌がぶちこんであったり、筒抜けの竹の添え木があったりして、まんざら意味がないとは思えませんね。僕にもまだよく分からないけれど。……やあ、いらっしゃい、どうぞ」  だしぬけに耕助が叫んだので警部が振り返ると、枝折り戸のところに隆二と三郎が立っていた。二人のうしろに銀造の顔も見えた。 「入ってもいいですか」 「いいですとも。ねえ、警部さん、構わないでしょう?」  耕助は警部をふりかえると、 「筒抜けの竹のことは、しばらく、誰にも黙っていて下さい」  早口にそう言い捨てると枝折り戸のほうへ三人を迎えにいった。隆二と三郎は物珍しそうにあたりを見回しながら入って来る。銀造もむずかしい顔をしてその後ろからついて来た。 「あなたがた、事件以来まだこっちへ入って来られたことはなかったのですか」 「ええ、警察の方の邪魔をしちゃいけないと思って遠慮していたんです。三郎、おまえもはじめてだろう」  三郎は黙ってうなずいた。 「もっとも話だけは、良さんから聞いてよく知っています。どうです。何か新しい発見がありましたか」 「なかなか。何しろ難しい問題ですからね。警部さん、雨戸をあけてもいいでしょう?」  耕助はさっき出て来た西の縁側から中へ入ると、南の雨戸を二、三枚ひらいて、 「さて、ここへお掛けなさい。小父さん、あなたもここへ掛けたらどうです」  隆二と銀造は縁側に腰を下ろしたが、三郎は立ったままで、そうっと離家のなかを覗いている。警部は少しはなれたところから、探るようにこの一団を眺めている。  耕助はにこにこ笑いながら、 「どうです。三郎さん。あなた何かご意見がおありじゃないのですか」 「僕……」  雨戸の中を覗いていた三郎は、いくらかあわて気味の眼で耕助のほうを見ると、 「僕が……? どうしてですか」 「あなたはなかなか熱心な探偵小説のファンらしいじゃありませんか。探偵小説のトリックをお解きになる知識で、この事件の謎が解けませんか」  三郎は少し|赧《あか》くなったが、それと同時に、かれの眼には相手を|蔑《さげす》むような色がかすかに浮かんでいた。 「探偵小説と実際とでは違いますよ。探偵小説の場合は、犯人が登場人物のなかに限定されていますが、実際の場合はそうは問屋が卸しませんからねえ」 「そういえばそうですね。しかしこの事件の場合は、犯人が三本指の男と限定されているようじゃありませんか、そうじゃないのですか」 「そ、そんな事、僕にはわかりません」 「あなたもやはり探偵小説の読者ですか」  かたわらから隆二がおだやかに言葉をはさんだ。かれの顔には特別の感情は現われていないようであった。 「ええ、読みますよ。あれでなかなか役に立つことがありますからね。むろん実際の場合と小説とではちがいますが、ああいうものの考え方、理詰め一方で押していく考え方は、どんな生活にも役に立つものです。殊にこの事件は『密室の殺人』ですからね。僕いま脳味噌を総動員して、これに似た探偵小説はないかと考えているところなんです」 「密室の殺人というと?」 「つまりね、内側からちゃんと錠がおりていて、絶対に犯人の逃げ口のない部屋、そういう部屋の中で起こる殺人事件なんです。探偵作家はこれを不可能犯罪と呼んでいますが、その不可能をいかにして可能にするかということに、作家たちは魅力をかんじるんですね。たいていの作家がこれを書いておりますよ」 「なるほど、それは面白そうですね。で、どういうふうに解決するんですか。その中の二、三を話してくれませんか」 「そうですね。それは三郎さんにお聞きになったらいいでしょう。三郎さん、密室の殺人を扱った探偵小説の中では何が一番面白いですか」  三郎はまた蔑むように薄笑いをうかべた。それから兄の顔を見ながらいくらか臆病そうにこういった。 「そうだなあ。僕はやっぱりルルーの『黄色の部屋』だなあ」 「なるほど、やっぱりねえ。あれはもうクラシックだが、永遠に傑作でしょうねえ」 「その『黄色の部屋』というのはどういうんですか」 「それはこうです。内側から|閂《かんぬき》のおりた部屋のなかでお嬢さんが瀕死の重傷を負わされる。その悲鳴をききつけて、お嬢さんの親爺と召使いの二人が駆けつけ、ドアを破って中へ入ったところが、部屋の中は血みどろで、お嬢さんはひどい傷を受けている。それにも|拘《かかわ》らず犯人は部屋にいない、と、こういうんです。この小説が何故傑作とよばれるかといえば、その解決に機械を使っていないからなんです。密室の殺人を扱った探偵小説も沢山あるが、たいていは機械的なトリックで、終わりへいくと、がっかりさせられるんですよ」 「機械的トリックというと?」 「つまり錠だの閂だののおりた部屋の殺人なんですが、結局は犯人がある方法で、——針金だの紐だのを使ってですね。——あとから錠だの閂だのをおろしておいたというんです。こういうのはどうも感心しませんね。三郎さん、あなたはいかがですか」 「そうですねえ。僕ももちろんその説に賛成ですが、『黄色の部屋』のようなトリックはなかなかありませんから、機械的な奴でもものによっては我慢することにしているんです」 「例えば……?」 「例えばカーという作家がありますね。この人の小説はほとんど全部が密室の殺人か、あるいは密室の殺人の変型なんですが、この変型のほうにはなかなかよいトリックがある。『帽子|蒐集狂《しゅうしゅうきょう》の秘密』という小説などは素晴らしい独創的なトリックですが、厳密な意味での密室ものとなると、やはり機械的になるんです。しかしさすがにカーだけあって、針金だの紐だのであとからドアをしめたなんてインチキはやらない。『プレーグ・コートの殺人』など、やはり機械的トリックですが、それをカモフラージするために、苦心惨憺、凝りに凝っているので、僕は、大いに作者に同情を持っているんです。機械的トリック必ずしも軽蔑したものじゃありませんよ」  三郎は得意になって|喋舌《し ゃ べ》っていたが、急に気がついたようにあたりを見回すと、 「おやおや、お喋舌りをしているうちにすっかり暗くなっちまった。どうも探偵小説の話になるとつい夢中になるんですね」  三郎は急に寒そうに身をすくめると、薄暗がりのなかにある耕助の顔を、|狡《ず》るそうな、探るような眼で眺めていた。……  一柳家で第二回目の琴が、鳴ったのはその晩のことである。     二通の手紙 「耕さん、耕さん」  夜具のうえから揺り起こされて、耕助がはっと眼をさましたのは、もう明け方に近い頃である。気がつくと座敷のなかには電気がついて、枕をならべて寝ていた銀造が、のしかかるようにして自分の顔を覗いている。銀造のその顔色のきびしさに、耕助はぎょっとして、蒲団の上に起き直った。 「お、小父さん、ど、どうかしたんですか」 「なんだか変な音がしたような気がするんだ。琴をかきまわすような音が……夢だったかも知れないが……」  二人はそのままの姿勢で、じっと聞き耳を立てている。別に変わった物音はきこえない。心臓の鼓動の音まで読みとれそうな静けさの中に唯一つだけ、規則的なリズムをつくって動いている物の音がする。それは水車の音だった。 「お、おお小父さん」  ふいに耕助がガチガチ歯を鳴らしながら、押し殺したようなしゃがれ声で囁いた。 「一昨日の晩……あの人殺しのあった時にも、水車の音がしていましたか」 「水車の音……」  銀造は驚いて、探るような眼で耕助の|瞳《ひとみ》のなかを覗きこんでいたが、 「そういえば……聞こえていたような気がする。……そうだ、たしかに聞こえていた。……聞きなれた音だから、別に気にもとめなかったが。……しかし、あっ!」  ほとんど同時に二人は寝床から跳ね起きて、シャツに腕を通しはじめていた。  琴は再び鳴ったのである。ピンピンピンと糸を弾くような音、それについでブーンと空気を引っかきまわすような音……畜生、畜生、畜生、しまった。しまった。しまった……シャツの中でもがもがしながら、耕助は夢中になって叫んでいる。  昨夜耕助はおそくまで眠れなかったのである。約束どおり磯川警部がとどけてくれた写真と日記の燃えのこり、それから書斎から持って来た日記帳やアルバム、そんなものを調べるのに十二時までかかった。そしてそのあと、これまた書斎から持ち出した探偵小説のページを、あちこち繰っていたために、眠りについたのは二時を過ぎていたのである。それさえなければ至って眼ざとい自分だのに。…… 「小父さん、小父さん、いま何時ですか」 「ちょうど四時半、この間とほとんど同じ時刻だ」  すばやく身支度をととのえて雨戸をひらくと、今朝はまたひどい霧だったが、その霧のなかに揉みあっているふたつの影が見えた。ちょうど離家へ通ずるあの枝折り戸のまえのあたりだ。低い、叱りつけるような男の声と、しくしく泣いている女の子の声が聞こえた。それは良介と鈴子であった。 「どうしたんです。鈴子さんが何か……」  側へかけよって、そう聞きとがめる銀造の声はけわしかった。 「鈴うちゃんがまた、夢遊病を起こしたらしいんですよ」 「嘘よ、嘘よ、あたし玉のお墓参りに来たのよ。夢遊病なんて、嘘よ、嘘よ、嘘よ!」  鈴子はまたしくしく泣き出した。 「良介さん、あんたいまの音をきかなかった?」 「聞きましたとも。それでここへ駆けつけたところが、鈴うちゃんがフラフラ歩いているのでびっくりしたんです」  そこへ隆二と糸子刀自が霧の中から駆けつけて来た。 「そこにいるの良さん? ああ、鈴子もいるのね。三郎はどうしたんです。三郎の姿を見やあしなかった?」 「三ぶちゃん? 三ぶちゃんはまだ寝てるんじゃありませんか」 「いいえ、寝床のなかはもぬけの殻ですよ。あたし、あの音をきいて、一番に三郎を起こしにいったんだけど……」 「金田一君はどうしたんですか」  隆二の声に銀造が霧の中を見回しているとき、離家の中から耕助のけたたましい声がきこえた。 「誰か医者を呼んで来て下さい。三郎君が……」  あとは霧のなかに陰にこもってきこえなかったけれど、それをきいたとたん、一同は石のように体を固くしたようであった。 「三郎が殺された!」  糸子刀自が、悲痛な声で叫んで、寝間着の袖を眼にあてた。 「お母さん、あなたは向こうへ行っていらっしゃい。ああ、お秋さん、お母さんと鈴子を頼みます。それから医者を……」  折りから駆けつけて来た新家の秋子に、糸子刀自と鈴子をまかせておいて、隆二、良介、銀造の三人は枝折り戸のなかへなだれこんでいった。離家の雨戸はこの間と同じようにぴったりしまっていたが、欄間から洩れる灯の色が霧の中に明るい光をはねかえしている。 「あっち、あっち——西の縁側から入って来て下さい」  そういう耕助の声は、しかし玄関のすぐ内側からきこえるのである。一同が西へまわると、このあいだ源七の打ち破った雨戸がいちまいひらいている。そこからなかへ飛びこむと、|襖《ふすま》も障子もあけっぴろげて筒抜けになった座敷をとおして、薄暗い玄関の土間に、耕助がしゃがみこんでいるのが見えた。三人は揉みあうようにしてそのほうへ駆け寄ったが、すぐしいんと、凍りついたようにその場に立ちすくんでしまったのである。  玄関の|三《た》|和《た》|土《き》に、三郎が背中を丸くして倒れていた。その背中の右の肩からかいがら骨のあたりへかけて、真っ赤な血がしぼるようににじんでおり、右手は玄関の戸の内側によわよわしく爪を立てていた。  隆二は一瞬、棒を飲んだようにそこに立ちすくんでいたが、すぐ腕をまくりあげて土間へとびおりると、耕助の体を押しのけるようにして三郎のうえにかがみこんだ。それからすぐ顔をあげると、 「良さん、すまないが母屋へ行って僕の|鞄《かばん》を持って来てくれないか。それから村のお医者さんに一刻も早く来てくれるようにって……」 「三ぶちゃんは……三ぶちゃんはいけないのかい」 「いや、たいていは大丈夫と思う。|深《ふか》|傷《で》はずいぶん深傷だが。……気をつけて。……お母さんをあまり驚かさないようにしてくれたまえ」  良介はすぐ離家を出ていった。 「何かお手伝いすることはありませんか」 「いや、あまりいじらないほうがいいでしょう。いま良介さんが鞄を持ってきてくれるから」  隆二の声にどこかそっけない響きがあったので、銀造は眉をしかめて耕助を見た。 「いったい、これは、どうしたんだね」 「さあ。……僕にもよくわかりません。しかし外見から判断すると、向こうの屏風のところで斬られて、ここまで逃げて来たんですね。そして、戸をあけようとしてそのまま気を失ったのでしょう。屏風——ごらんになりましたか」  銀造と耕助はそこで八畳へとってかえした。問題の屏風はこの間の晩と同じ位置に、なかば倒れかかったまま立っていたが、上から一尺ばかりざっくりと斬りさげられていて、|眩《まばゆ》いばかりの金泥には、叩きつけたように血のしぶきが跳ねかえっていた。そしてそのしぶきのあいだに、花弁を散らしたように、生乾きの指の跡がついている。その指はやっぱり三本しかなく、しかも今度は琴爪もはめていないので、不明瞭ながらも指紋の渦が見てとられた。銀造は顔をしかめるとつぎに屏風のそばに投げ出してある琴に眼をうつした。琴の糸がまた一本切れていた。しかし今度は琴柱はそのままで、琴のすぐそばにころがっている。 「耕助君、あんたが駆けつけて来たとき、この雨戸は……?」 「しまっていましたよ。われめから手を突っ込んで、僕がこざるを外したんです。小父さん、石燈籠のそばをごらんなさい」  銀造は縁側へ出て、いま入って来た雨戸のすきから庭を見たが、すると石燈籠から少し右寄りのところに、またしても日本刀がころがっていて、霧のなかに鈍い光をはなっているのだった。……  こういう事はかくそうとしてもかくし切れるものではないが、田舎では殊に知れ渡るのが早いのである。夜の明ける頃までには、この村は申すに及ばず、近在の村々まで、一柳家の二度目の惨劇がつたわって、乱れとぶ風説のなかに騒ぎは大きかった。ところがそういう騒ぎの最中に、一柳家にまたひとつ、新しい報知がもたらされた。そしてその事が事件の面貌をすっかりかえてしまいそうに思われたのである。  それはこうだ。その朝の九時頃、川——村から自転車で駆けつけて来た一人の男が、この事件を担当している主任の人に会いたいというのであった。その頃には磯川警部も駆けつけていたので、すぐ会ってみると、その男の口上というのはこうである。  いま川——村の木内医院にひとりの婦人が収容されている。その婦人は昨日、川——村で起こった自動車事故で怪我をして、そこへ担ぎこまれたのだが、今朝の一柳家の事件をきいて非常に昂奮している。その婦人は今度の事件について何か知っているらしく、捜査主任にあって是非お話ししたいことがあるといっている。彼女は犯人を知っているらしい。……  耕助もその時警部のそばにいたが、この訴えをきいているうちに、彼はしだいに昂奮し出した。そうだ、あの女にちがいない。倉敷から同じ汽車で来た女。そして耕助があんなに心にかけながら、騒ぎにとりまぎれて、つい今まで失念していた女。—— 「警部さん、行きましょう。その女が何か知っているにちがいない」  そこで二人は自転車に乗って、すぐさま川——村の木内医院に駆けつけたのだが、果たして相手は昨日の女であった。彼女は手や頭に|繃《ほう》|帯《たい》し、薄い|煎《せん》|餠《べい》|蒲《ぶ》|団《とん》に横になっていたが、案外元気で血色も悪くなかった。 「あなたがこの事件を担当していらっしゃる警察の方でございますか」  そういう口の利き方もはっきりしていて、醜い容貌のなかにも一種の威厳を持っていた。もっともそういう威厳のなかには、女学校の舎監めいた臭みが多分にあったが。……  警部がそうだと答えると、自分は白木静子といって、大阪のS女学校で|教鞭《きょうべん》をとっているものである。そしてこの間殺された久保克子とは同窓であり親友であったと名乗った。 「なるほど、それで今度の事件について何か心当たりがおありだとのことでしたが」  白木静子は力強く|頷《うなず》くと、枕元のハンドバッグを引き寄せて、中から二通の手紙を取り出したが、先ずその中の一通を警部に渡した。 「どうぞ、これをご覧下さい」  警部が手にとって見ると、それは、久保克子から白木静子に宛てたもので、日付を見ると十月二十日、即ち一か月ほど前の手紙であった。警部は耕助と顔を見合わせて、ちょっと息をのんだが、すぐ急いで中身を引き出した。それはだいたい、つぎのような意味の手紙だったということである。 [#ここから1字下げ]  お懐しき静子姉さま  この手紙をしたためますにあたって、克子は先ずお姉さまにお詫びしなければならぬことがございますの。結婚まえの秘密は一切闇のなかに葬ってしまわなければならぬ。それを打ち明けることは、決して夫婦生活を幸福にする|所以《ゆ え ん》ではないというお姉さまの御忠告。克子はとうとうそれを裏切って、あの呪わしいTとのいきさつを一柳に打ち明けてしまいましたの。でもお姉さま、御心配なさらないで下さいませ。克子、いまそのことを後悔してはおりません。一柳も一時はたいへん驚いたらしいのですけれど、最後にはやさしく許してくれました。むろんこの事は、——克子の処女でなかったということは、一柳の心に暗いかげを投げたにちがいありません。でもわたし、ああいう秘密を抱いて、始終うしろめたい気持ちでいるよりは、この方が幸福な結婚生活に入れるのではないかと思っていますの。あの人の心にどういう影を投げたにしろ、克子、自分の努力と愛情で、きっと、それを吸いとって見せようと思っています。ですからお姉さま、どうぞ、どうぞ、御心配下さらないで。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]あなたの克女より  警部と耕助がその手紙を読み終わると、静子は、すぐに第二の手紙を渡した。それは十一月十六日の日付、即ち結婚式の日よりかぞえて九日まえに書かれたものであった。 [#ここから1字下げ]  お姉さま  克子はいま思い乱れております。昨日克子は叔父さまと二人で大阪の三越へ参りました。(お姉さまのところへお寄りしなかったことお許し下さい。叔父さまが一緒だったものですから)わたしたち婚礼のための買い物に参ったのですけれど、お姉さま、そこでわたし誰と出会ったとお思いになって? Tに出会ったのです! ああ、その時の克子の驚き! お姉さまお察し下さいませ。あの頃から見るとTはずいぶん変わっていました。ずいぶん|荒《すさ》んでおりました……一見して与太者とわかるような青年を二人連れて……私は真っ蒼になってしまいました。心臓が氷のように冷たくなって体が細かくふるえました。むろんわたしは口を利く気など毛頭ありませんでした。それだのに、それだのに……Tは叔父さまの油断を見すまして、わたしのそばへ近寄って来ると、にやにやしながら耳のそばで、こんな事を囁いたのです。お嫁入りするんですね、お目出度う……と。ああ、その時の克子の屈辱と|羞恥《しゅうち》、……お姉さま、わたしはどうしたらいいのでしょう。六年以前、ああして別れて以来、克子は一度もあの人に会ったことはありませんでした。克子にとってはあの人は、もう過去の墓穴に入った人も同じだったのです。一柳にもそう話し、それだからこそ一柳も許してくれたのです。わたしたちはもう二度と、Tという名前を口にしないと誓ったのです。それだのに、今となってTに出会うなんて、……むろん三越の交渉はそれきりで、Tはそのまま見向きもしないで立ち去ってしまいましたけど……お姉さま、お姉さま、わたしどうしたらいいのでしょう。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]克子より  二通の手紙を読み終わったときの、警部の昂奮は、大きかった。 「白木さん、するとあなたのご意見では、このTという男が犯人だというのですね」 「そうですとも。Tのほかにこんな恐ろしいことをする人がございましょうか」  白木静子は教壇から生徒を極めつける時のような切り口上でこういったが、やがて警部の問いにこたえてつぎのような話をしたのである。  T——ほんとうの名前は田谷照三というその男は、須磨の素封家の息子で、克子が識り合った時分、某医科大学の制服を着ていた。しかし事実はその大学の学生でもなんでもなく、単にそこを三度受験して落第したというのにとどまるのであった。克子はたいへん聡明な女性であったが、田舎から単身上京している多くの女学生のおちいる危険に、彼女はまだ気がついていなかった。そこを田谷に乗じられたのである。 「克子さんのそのときの気持ちは、決して浮ついたものではなく、ほんとうに相手を愛し、ゆくゆくは結婚するつもりだったのでございます。しかしその夢は三月もつづきませんでした。すぐにTの|欺《ぎ》|瞞《まん》が暴露し、そのほかにもいろいろ怪しからぬことをしている事がわかって来たので、四月目にはもう手を切ってしまわなければならなかったのです。その時、克子さんの代理人として、主としてTと交渉したのはかくいう私でございました。ところが最後に克子さんに会った時の男のいいぐさがいいではありませんか。やあ、こう尻が割れて来たら仕方がない。いいですとも、別れますよ。それから泣いている克子さんに向かって、久保君、何も心配することはないぜ、これを種にいつまでも君に食い下がろうというような量見は毛頭ないから安心しな、ですって。実にしゃあしゃあしたものです。それきり別れた克子さんは、その手紙にもありますとおり、爾来Tに会ったこともなければ、|噂《うわさ》をきいたこともなかったようですが、私は二、三度Tの噂をきいたことがございます。Tはその後ますます身を持ち崩し、軟派から硬派へ転向したとやらで暴力団に入って、|脅喝《きょうかつ》などやっているということをききました。そういう男ですもの、久しぶりに克子さんに出会って、しかも克子さんがお嫁にいくとわかっては、そのままにしておく筈はございません。ええ、克子さんや克子さんのご主人を殺したのはTにちがいございません」  耕助はこの話を非常に興味をもってきいていたが、やがて静子の言葉の終わるのを待って、かれは一枚の写真を出して見せた。それは昨夜磯川警部からことづけられたあの写真、即ち賢蔵のアルバムから切り抜かれた、生涯の仇敵、三本指の男の写真であった。 「白木さん、ひょっとするとTというのは、この男ではありませんか」  静子はちょっと驚いたように、その写真を手にとって見ていたが、すぐ力強く首を横にふった。そしてきっぱりとこういったそうである。 「いいえ、これではございません。Tはもっともっと好男子でした」     墓をあばいて  白木静子のこの物語は、金田一耕助と磯川警部のふたりに、異常な衝動を与えたようであった。もっともこの時二人が静子の話から受けた印象には、まったくちがったものがあったらしいのだが、それにしても白木静子のこの物語のなかにこそ、事件解決の重要なキイが秘められていたことが、後になってわかったのである。  それはさておき、それから間もなく木内医院を出た二人は、すっかり考えこんでいた。しかし見る人があって、|仔《し》|細《さい》に注意してみたならば、同じ考えこんでいるにしても、二人の顔色にまったくちがったものがあったのに気がついた筈である。磯川警部の苦虫をかみつぶしたような渋面に反して、金田一耕助は妙にうれしそうな顔をしていた。そしてかれがいかに昂奮していたかは、片手で自転車のハンドルを握りながらも、もう一方の手でしきりにがりがりと、あのもじゃもじゃ頭をかきまわしていたのでもわかるのである。  二人は黙りこんだまま、自転車をつらねて川辺の町を通りすぎ、間もなく岡——村へ通ずる、あの一直線道路へさしかかったが、するとその時だしぬけに、耕助が警部を呼び止めた。 「チョ、チョ、ちょっと警部さん、ちょっと、待っていて下さい」  警部が|怪《け》|訝《げん》そうに自転車を止めて見ていると、耕助はそこの曲がり角にある煙草屋へ入っていった。そしてチェリーをひとつ買うと、煙草屋のおかみさんにこんな事を訊ねていた。 「おかみさん久——村へ行くのはこの道を行けばいいんですか」 「へえ、そうですよ」 「この道を行って……それからどう行くんですか、すぐわかりますか」 「そうですね。この道をずっと行けば、岡——村のとっつきに、村役場がありますから、そのへんで山ノ谷の一柳さんときいてごらんなさい。大きなお屋敷ですからすぐわかりますよ。その一柳さんの表門のまえの路をいけばいいのです。山越しだけど一本路だから迷うようなことはありませんよ」  編み物に熱中しているおかみさんは、頭もあげずにそうおしえた。 「ああ、そう。いや、有難うございました」  煙草屋を出て来たときの耕助の顔には、包みきれない嬉しさがあったようである。警部は不思議そうな眼で、まじまじとその顔を見まもっていたが耕助はそれについて別に説明しようともせずに、すぐ自転車に飛び乗ると、 「お待たせしました。さあ、行きましょう」  警部はいまの耕助の質問の意味をかんがえてみたが、どうしても適当な説明がつかなかった。そしてわからないままに、耕助のあとについて、山ノ谷部落の一柳家へかえって来たのである。  さて、こういうことがあったあいだ、三郎はどうしていたかというと、かれは母屋の一室に担ぎこまれて、兄の隆二や、駆けつけて来たF医師によって手篤い手当てを受けていた。かれの傷は相当重かったし、それにこの傷からのちに破傷風をひき起こし、一時は生死も危ぶまれるような重態におちいったのだが、警部や耕助が川——村からかえって来たときには、ちょうど小康をたもっていて、今ならば|訊《じん》|問《もん》にたえうるということだった。そこで警部は自転車を乗りすてると、すぐ病室へ入っていったが、どういうわけか耕助は、この訊問に立ち会おうとはしなかった。  かれは自転車をおりると、そのへんにいあわせた刑事をつかまえ、しきりに何か話していたが、すると刑事は驚いたように耕助の顔を見直した。 「へへえ、すると久——村へいってきいて来るんですか」 「そうです、そうです。ご苦労ですが一軒一軒|虱《しらみ》つぶしにきいてみて下さい。どうせそんなに家数があるわけじゃないでしょう」 「ええ、そりゃそうですが……警部さんは……?」 「いや、警部さんには僕から話しておきます。これは大事なことですから。……じゃ、これを渡しておきましょう」  耕助が刑事に渡したのは、どうやらさっき白木静子に見せた、あの三本指の男の写真であるらしかった。刑事はそれをポケットにおさめると、不思議そうに小首をかしげながら、自転車に乗って飛び出していったが、その後を見送っておいて耕助は玄関のほうへとってかえした。そこには銀造が待っていた。 「耕助君。あんたは三郎の話をきかなくてもいいのかね」 「いや、いいんですよ。その話ならどうせ後から警部さんにきけますからね」 「刑事を久——村へやったようだが、久——村に何かあったのかね」 「ええ、ちょっと、……その事はいずれ後でお話ししますがね」  にこにこ笑っている耕助の瞳のなかを、じっと視つめていた銀造は、やがて満足そうな溜め息をもらした。  銀造にはわかるのである。耕助の模索時代はもう過ぎたのだ。かれの頭脳——いつか天眼鏡や巻き尺のかわりにこれを使いますといって叩いて見せた頭脳の中に、いまや論理と推理の積み木が一つ一つ積み重ねられているのだ。かれの瞳の輝きがそれをよく物語っている。謎の解けるのはもう近い……と。 「川——村で何か訊いて来たんだね」 「ええ。そのことについておじさんに話があるんです。しかし、ここじゃいけない、向こうへ行きましょう」  二人は前後して茶の間へ入っていった。一柳家の人々は残らず三郎の|枕《ちん》|頭《とう》に集まっているので、茶の間には誰もいなかった。耕助や銀造にとっては、この方が結局好都合であった。  これから言おうとすることは、耕助にとっては大きな苦痛だった。銀造がいかに深く克子を愛し、いかに深く克子を信用していたか、それを知っている耕助は、おそらくは相手の夢を破るであろう克子の秘密を打ち明けることに、良心の|呵責《かしゃく》にも似た苦痛をおぼえた。しかしそれは話さずにすむことではなかった。  果たして銀造のおどろきは大きかった。かれは一瞬魂のやり場を失ったもののような眼つきをした。打ちのめされた犬のような臆病な顔色になった。 「耕さん、そりゃ……しかし……ほんとうの事だろうか」 「ほんとうだと思います。わざわざ嘘を言いに来る必要はないのですから。それに克子さんの書いた手紙もありますから……」 「克子はなぜその事をおれに打ち明けてくれなかったのだろう。何故そんな友達などに……」 「おじさん」  耕助はいたわるようにかるく銀造の肩をたたいて、 「若い娘さんなどには、親兄弟や肉親より、あかの他人の友達のほうが、打ち明けやすい場合のほうが多いのですよ」 「ふうむ」  銀造はしばらく、すっかり打ちしおれた|恰《かっ》|好《こう》をしていたが、しかしこの精力的な老人は、いつまでもひとつ事に屈託しておられない|性《たち》に出来ているのである。しばらくすると気を取り直したように頭をあげて、 「それで……? これはどういうことになるんだ。それじゃそのT……田谷照三という男が犯人だということになるのか」 「警部はそう考えているようです。白木静子もそれを主張するんです」 「するとつまり、その男が三本指の男だというんだね」 「ところがそうじゃないんです。僕はそんな事もあろうかと思って、例の写真を用意していったんですが、白木静子ははっきりこの男じゃないと断言するんです。警部さんはそれでまた、袋小路に突き当たって大弱りなんですよ」  耕助は無邪気ににこにこ笑っている。銀造は探るようにその顔を見ながら、 「それで、耕さん、あんたの考えはどうなんだ。あんたの考えじゃ、その男はこの事件に関係ないというのかね」 「いや、そんな事はありません。その男はこの事件に非常に大きな関係を持っているんですよ。あ、——何か御用?」  障子のすきからのぞいたのは女中のお清だった。お清はあわてて顔を引っこめながら、 「あら、すみません。お嬢さんがいらっしゃりはしないかと思いまして……」 「いいえ、鈴子さん、見ませんよ。ああ、ちょっと、ちょっと、お清さん」  お清は呼びとめられてそこに立ち止まった。 「はあ、何か御用でございますか」 「うん、ちょっと君に訊ねたいことがあるんだ。あの晩、婚礼の晩ね。あの時|離家《は な れ》の|床盃《とこさかずき》に列席したのは、村長さんご夫婦とご隠居さん、それから新家のご夫婦と、それだけでしたね」 「はあ、さようでございます」 「ところで、その晩ご隠居さんの着ていた着物、紋付きだね。それを畳んで片づけたの、君じゃないの?」  お清は不思議そうな顔をして、 「いいえ、わたくし片づけは致しません」 「じゃ、誰が片づけたの?」 「誰も片づけは致しません。ご隠居様はとてもお召し物を大事になさいまして、ご自分の着物を決してひとに触らせません。いつもご自分でお畳みになるのですけれど、今度はあんなことがございましたので、まだそのおひまがないと見えて、向こうのお居間にかかっております」  耕助は突然、畳から飛び上がった。 「む、む、む、向こうの部屋だって。き、き、君、そ、そ、そこへ僕を案内してくれたまえ」  耕助の勢いがあまり猛烈だったので女中は呆れるというより、なかば怖れを抱いたらしい。二、三歩うしろへ飛びのくと、泣き出しそうな顔で耕助を見守っている。銀造も驚いて立ち上がったが、お清の顔を見ると、 「お清さん、何も心配することはないんだよ、さあ、わたしも行くから案内しておくれ。ご隠居さんの居間というのは……?」 「はあ、こちらでございます」 「耕さん? どうしたんだ。ご隠居さんの着物がどうかしたのかな」  耕助は二、三度強く首をたてにふった。しゃべるとまた吃りそうだったからである。  なるほどお清のいったとおり、糸子刀自の紋付きは、|漆塗《うるしぬ》りの|衣《え》|紋《もん》|竹《だけ》にとおしたまま、まだ|長押《な げ し》にぶら下げてあった。耕助はその袂を一つ一つ外からおさえていたが、突然、その顔にはなんともいえぬほど、嬉しそうな表情があらわれた。 「き、き、君、お清さん、もう向こうへ、行っていてもいいよ」  お清が妙な顔して立ち去るのを見送っておいて、耕助は袂の中に手を突っ込んだ。 「おじさん、おじさん、手品の種明かしですよ。ほら、舞台の手品師が箱かなんかに懐中時計を放りこむと、それが消えちまって、やがて見物のポケットから、時計が現われるという奴があるでしょう。あんなこと、誰だって知ってますね。見物というのはサクラで、はじめからこいつのポケットにゃ時計があるんですね、つまり時計が二つあって、問題は舞台の手品師が、箱へほうりこむ真似をしながら、いかにしてもう一つの時計をかくすかということにあるんですね。ほら、その時計がここにあるんですよ」  袂から出して、ぱっとひろげてみせた耕助の掌にのっかっているのは、波に鳥の浮き彫りのある琴柱であった。 「耕さん、これは……?」  銀造は大きく目を瞠って、思わず呼吸をはずませる。耕助はにこにこしながら、 「だからおじさん、言ってるじゃありませんか。手品の種明かしですよ。しかも一番初歩のね。あの晩……あ、いらっしゃい。こっちへ入っていらっしゃい」  銀造が振り返ってみると、長い袂の着物を着た鈴子が、おどおどした眼で縁側に立っていた。 「鈴うちゃん、ちょうどいいところだったよ。あんたに訊こうと思っていたの。ほら、これ、あの琴の琴柱だね。ね、そうでしょう」  鈴子はおずおず入って来て耕助の掌を見ると無言のまま頷いた。 「あの琴、琴柱が一つなくなっているね。あれ、いつなくなったの?」 「いつだか知らないの。今度出して見たら、なくなってたの」 「あの琴いつ出したの?」 「お嫁さんの来る日よ。その日の朝、お蔵から出して来たの。そしたら琴柱がひとつなくなってたので、あたしのお稽古の琴の琴柱を使ったのよ」 「あ、じゃお琴はお蔵の中にしまってあったのだね。そしてそのお蔵、誰でも入れんの」 「いいえ、いつもだと誰でもは入れないわ。でもお嫁さんが来るというので、いろんなお道具、お蔵から出したでしょう。だから先だってはずっとお蔵あいてたわ」 「ああ、そう、そしてみんな出たり、入ったりしてたんだね」 「ええ、みんな出たり入ったりしてたわ。だってお膳だのお|椀《わん》だの、お座蒲団だの、屏風だの、いろんなもの出さなければならなかったんですもの」 「そう、有難う。鈴うちゃんは利口だね。時に、ねえ、鈴うちゃん」  耕助はやさしく鈴子の肩に手をかけると、にこにこしながら少女の瞳をのぞきこんだ。 「鈴うちゃんはどうして、死んだ猫のことがあんなに気になるの」  金田一耕助が後に告白したところによると、その時かれはこの質問が、あんなにも重大な意味を引き出そうとは、夢にも思っていなかったそうである。かれはただいくらか知能のおくれたこの少女の胸に、いったいどのような悲しい秘密があって、毎夜猫のお墓のほとりをさまようのか、それを知っておきたいと思ったのである。  だが、この質問を受けると、鈴子はみるみる、|怯《おび》えたように顔色をくもらせた。 「玉……?」 「ああ、玉。鈴うちゃんは何かその玉に悪いことをしたおぼえがあるの?」 「ううん、ううん、そんな事ないわ」 「それじゃ何故……? 鈴うちゃん、玉はいつ死んだの」 「ご婚礼のまえの日よ。朝方死んじゃったの」 「ああ、そう、そして鈴うちゃんはそのつぎの日の朝、玉のお葬いをしてやったんだね。ね、そうだろう?」  鈴子は黙っていた、そして急にしくしく泣き出した。耕助は銀造と顔を見合わせたが、何かはっと思い当たったところがあるらしく、俄かに呼吸をはずませると、 「鈴うちゃんは、それじゃ、ご婚礼の日の朝、玉のお葬式をしたんじゃなかったんだね。鈴うちゃんはいままで嘘をついてたんだね」  鈴子はいよいよはげしく泣き出した。 「ご免なさい。ご免なさい。だって、玉可哀そうだったんですもの。ひとりで冷たいお墓の中へいくの、可哀そうだったんですもの。だからあたし、お箱の中へ入れて、押し入れの中へかくしておいたの。そしたら、……大兄さんが殺されて……」 「ふむ、ふむ、大兄さんが殺されて……それでどうしたの?」 「あたし、急に怖くなったのよ。だって三ぶちゃん、死んだ猫、いつまでもおいとくと化けて出るだの、何かよくない事が起こるのって、さんざあたしを|脅《おどか》したんですもの。だからあたし怖くなって、みんな大兄さんの事で騒いでる間に、こっそり玉をいけて来たの」  これが鈴子の可憐な秘密であった。そしてこの秘密が彼女を苦しめ、彼女を夢遊病者にしたのであった。 「鈴うちゃん、鈴うちゃん、それじゃ玉を入れた箱は、婚礼のときも、大兄さんがあんなことになったときも、ずうっと鈴うちゃんのお部屋にあったんだね」 「ご免なさい。ご免なさい。だってあたし、そんな事いうとお母さんに叱られるんですもの」 「おじさん!」  ふいに耕助は鈴子のそばを離れたが、すぐ気がついたように、 「鈴うちゃん、いいんだよ、いいんだよ。ね、もう正直に言ったのだから何も心配することはないんだよ。さ、涙をふいて向こうへいってらっしゃい。さっきお清が探していたよ」  鈴子が涙をふきながら、ばたばたと縁側を駆けて行くと、耕助はいきなり銀造の腕をつかんだ。 「おじさん、行ってみましょう。猫の墓へ行ってみましょう」 「耕さん、しかし……」  だが耕助は銀造の言葉をきいていなかった。よれよれの袴の|裾《すそ》をひろげながら、はや玄関のほうへ飛び出していた。銀造ももちろん、その後を追っかけた。  二人はすぐ、庭のすみにある猫の墓に行きついた。幸いそこには昨日の朝、墓をあばいたとき使ったシャベルが、まだそのまま投げ出してある。耕助はそのシャベルを取りあげると、すぐ墓を掘り出した。 「耕さん、いったいどうしたというんだね」 「おじさん、あの娘の無邪気な嘘が、すっかり僕を目隠ししていたんですよ。猫の棺桶は、人殺しのあった時分、まだ鈴子の部屋にあったんじゃありませんか」 「だから犯人が、その中へ何かかくしたというのかい。しかし、この墓は昨日もいちど掘ってみたんだぜ」 「そ、そ、そうです。だからおじさん、い、いまじゃ一番安全な隠し場所じゃありませんか」  小さな墓はすぐ掘り返されて、白木の箱が現われた。昨日もいちどこじあけられたその蓋は、釘がゆるんで開くのになんの造作もなかった。箱の中にはまだ少しも形のくずれていない、可愛い小猫の死体が鈴子の心尽しの暖かそうな絹蒲団にくるまっていた。  耕助はありあう棒切れの先で、その絹蒲団をつついていたが、すぐ身をこごめると、蒲団の下から何やらつまみあげた。それは油紙にくるんだもので麻紐で十文字にからげてあった。大きさはちょうど小猫ぐらいであった。  銀造は思わず大きく眼を瞠った。昨日はたしかにこんなものはなかったのである。  耕助はその油紙のかどを少し破ってなかを覗いたが、すぐそれを銀造の鼻先につきつけると、 「ほ、ほ、ほ、ほうら、おじさん、や、や、や、やっぱりあったじゃありませんか」  油紙の破れ|孔《あな》から、銀造も中を覗いたが、そのとたんかれは、足下の土もくずれていくような、大きなおどろきに打たれたのである。  おそらくかれは何年生きていても、この時の驚きを忘れることは出来ないだろう。事実かれはこの事があった直後に、さらにさらにショッキングな発見にぶつかったのだが、その時でさえこの場合ほど驚きはしなかった。     磯川警部驚倒す 「やあ、どこへ行ってたんです。お揃いで」  耕助と銀造が向こうからやって来るのを見つけると、磯川警部は怪しむように縁側から声をかけた。 「いやあ、ちょっと散歩」 「散歩? 庭をですか」 「ええ、そう」  警部は探るように二人の顔を見くらべたが、わけても土色になった銀造の顔色が強く注意をひいたらしく、 「どうしたんです。何かあったんですか」 「なあに、ちょっと……」 「いったい、なんです。そこにぶら下げているのは?」 「ああ、これ?」  と、耕助はハンケチにくるんだものをぶらぶらさせながら、にこにこ笑って、 「これはお|土産《み や げ》」 「お土産?」 「ええ、そう。しかし、警部さん、三郎君の話はどうだったんです。人にばかりきかないで、ご自分もひとつ話して下さいな」 「さあ、それがですがね。まあ、ここへお掛けなさい。久保さん、あんたどこか悪いんじゃない? ひどく顔色が悪いが?……」 「なあに、おじさんはね。克子さんの、ほら、例の一件を話したもんだから、ひどく気を落としてね。で、三郎君の話というのは?」 「さあ、それですがね。いっこう取りとめがないんだが、しかし金田一さん、今度のことはあなたにも責任の一半はあるんですよ」 「はて、僕に? それはどういうわけです」 「昨日あんたは三郎と探偵小説論をたたかわせたでしょう。つまり、あの事が三郎を刺激したんですな。密室の殺人といいましたね。三郎はそれの秘密を|発《あば》いてやろうとばかりに、昨夜こっそり離家へしのんでいったというんです」 「なるほど、なるほど。そいつは……そして? それからどうしたんです」 「でね、離家へ入るとどこもかしこも内側から戸締まりをしてしまったというんです。つまりこの間の事件と同じような環境をつくろうというわけですな。ところがそんな事をしているうちに、どうも床の間のうしろの押し入れの中に誰かいるような気がしてならなくなった。物音はしないが気配ですね。気配で人がいるような気がしてならない。|呼《い》|吸《き》|遣《づか》いの音がきこえるような気がする。そこで|奴《やっこ》さん、たまらなくなって、たしかめに行ったというんです、その押し入れを……」 「ふむふむ、すると……?」 「するとね、三郎が押し入れの戸をひらくやいなや、なかからひとりの男が飛び出して来た。しかもそいつはギラギラするような刀をふりかぶっている。三郎はきゃっというわけで逃げ出したんですが、座敷へ飛び込んだところを、屏風もろとも背後から斬り下げられたらしく、それから後は一切夢中で、何もおぼえていない。玄関までいった事さえ自分では知らぬといっているんです」 「なるほど、ところで相手の人相は?」 「それがなにしろ|咄《とっ》|嗟《さ》のことだし、暗がりだし、それに怯えきっていたところだから、ろくに相手の顔は見なかったというんですが、これは無理もありませんね。ただ、なんだか大きなマスクをかけていたような気がすると……、こういうんです」 「それじゃ指まで眼がとどかなかったでしょうね」 「むろん、そんなところまで見とどける余裕は全然なかったというんですが、しかしああして血に染まった指紋が残っている以上、そいつが三本指だったことには間違いありませんね」  耕助は銀造と眼を見交わした。 「それで……? 三郎の話はそれだけですか」 「ええ、まあ、そんなもんです。こっちはもっと取りとめた話がきけるかと思って期待してたんですが、当てが外れてがっかりでさあ。金田一さん、わたしにゃだんだん重荷になって来ましたよ。この事件は。——田谷という男の事もありますしねえ。三本指と田谷と関係があるのかないのか、くそッ、考えていると頭がいたくなりそうだ」 「まあまあ、そう落胆しないで、いまに何かよい事がありますよ」  耕助は縁側から腰をあげると、 「そうそう、忘れていた。さっきここにいた刑事さんですね、あの人にちょっと久——村へ行って貰いましたから」 「木村君? そして久——村に何があるんですか」 「ええ、ちょっと調べてもらいたいことがあって、おじさん、それじゃ行きましょうか」 「あんたがた、どこへ行くんです」  警部はいくらかとがめるような口調で訊ねた。 「ちょっと散歩。そのへんを歩いて来るんです。警部さん、あなたまだしばらくここにいるでしょう」  警部は探るように耕助を見た。 「それじゃね。何かのついでに隆二氏に訊いてもらえませんか。隆二氏は、人殺しのあった日の朝、こっちへ着いたといってるでしょう。ところが、前の日、即ち婚礼のあった二十五日ですね。その二十五日の昼過ぎに、あの人が清——駅へおりるのを見た者があるというんです。そしてそれは間違いなさそうですがね。隆二氏、何故あんな嘘をついたのか、ひとつそれをきいてくれませんか」 「な、な、なんだって?」 「あはははは、警部さん、僕の真似をしなくてもいいんですよ、おじさん、行きましょう」  耕助と銀造のふたりは、呆気にとられている警部をそこに残して、家をひとまわりすると裏木戸から外へ出た。  この裏木戸は婚礼の日の夕方、あの怪しげな男の出入りしたところで、屋敷の西側についている。そこを出るとすぐ外に小川が流れていて土橋がかかっている。二人はその小川を渡ると、小川の向こうがわの道を北へむかって歩き出した。 「耕さん、どこへ行くんだね」 「僕にもわからないんです。犬も歩けば棒にあたる。まあそこいらを歩いて見ましょう」  耕助は相変わらずあのハンケチ包みをぶら下げている。小川に沿って北へ進むと、一柳家の低い土塀の切れ目に水車小屋がある。水車はいまとまっていた。  その水車のへんから路は急に細くなって、崖沿いに東へ急カーヴしていたが、そのカーヴを曲がると、突然ふたりの眼前に、かなり大きな池が現われた。  岡山県でもこのへんは穀倉といわれているだけあって、水田がよく発達し、いたるところに|灌《かん》|漑《がい》用の池が掘ってあるから、こういう風景は珍しいことではなかった。だが、何を思ったのか、耕助はその池を見ると急に足をとめ、珍しそうに池の中を覗いていたが、ちょうどそこへ通りかかった農夫を見ると、すぐ呼び止めてこんな事を訊ねる。 「君、君、この池は毎年池干しをするんだろう。そうじゃない?」 「へえへえ、やりますよ」 「今年はもうすんだの?」 「いえ、まだで……実は毎年十一月二十五日ときまってるんですが、今年はほら、一柳さんとこにお|目《め》|出《で》|度《た》があって、みんな手伝いにいかなきゃならねえもんだから、来月の五日にのばしたんです」  耕助はなぜか失望の面持ちで、 「ああ、そう、そして一柳さんとこでも、その事は知ってるんでしょうね」 「へえ、そりゃもう。この池は元来、一柳さんの先代の、作衛さんの力で出来たもんですから、池干しをする時にゃ一番に一柳さんとこへお許しを願いにいくんです。なに、そりゃもう恰好だけですが、そういうしきたりになっておりますんで」 「そ、そ、そう、いや有難う」  その男に別れると、二人はまたぶらぶらと崖沿いの路をのぼっていった。銀造は何もきかなかったが、しかし、耕助がなにを求めているか知っているらしく、黙々としてついて来る。やがてまた崖が少しカーヴしていたが、その曲がり角まで来たとき、突然、 「あ、あれはなんだ!」  耕助が叫んで足を止めた。  崖を曲がったすぐ向こうに、狭い平地があって、そこに畳一畳じきよりも、少し大きいぐらいの、粘土で塗りかためた|蒲《かま》|鉾《ぼこ》|型《がた》の一種の構造物があった。それは炭焼きがまなのである。  この辺では本業として炭を焼く者はない。町や村が近いから、炭に焼いて出すよりも、割り木として出すほうが勝負が早いからである。しかし百姓でも少し|工《く》|面《めん》のよいところでは、自家用として炭を焼く。そういう人たちはめいめい自分で煉瓦を積み、土を練って、炭焼きがまを築くのである。自家用だから規模も小さく、六、七俵からせいぜい十二、三俵焼けるのが関の山で、そういうかまは畳一畳より少し広いぐらい、高さもせいぜい大人の胸まであるかなしかである。  耕助がいま見つけたのは、そういうかまの一つだったが、ちょうど炭が焼きあがったところと見えて、かまの中からまだ棒のままの炭が盛んに外へとび出して来る。耕助はそれを見ると急いでかまのそばへ駆けより、身をかがめて狭い入り口から中をのぞいた。かまの中では|頬《ほお》|冠《かぶ》りをした男が、四つん|這《ば》いになって炭の破片をかき集めている。あらかた炭は外へ放り出したあとらしかった。 「君、君」  耕助が声をかけると、その男はびっくりしたように、暗いかまの中でこちらを振り返った。 「ちょっと訊ねたいことがあるのだが、こっちへ出て来てくれませんか」  その男はしばらくもぞもぞしていたが、やがて炭の破片を一杯いれた灰ふごをかかえたまま、四つん這いになってかまの中から出て来た。顔も手も炭の粉で真っ黒になって、眼ばかりぎょろぎょろ光らせている。 「へえ、何か御用で?」 「この炭だがね。君がこのかまに火をつけたのはいつのことなの。これは大事な事なんだから、正直にこたえてくれませんか」  田舎ではちょっと変わったことがあるとすぐ村じゅうに知れわたってしまう。この小柄な風采のあがらぬ、よれよれの袴をはいた青年が、有名な探偵だそうなということは、昨日のうちに村じゅうに知れわたっていたから、そういわれると炭焼きの男は、どぎまぎしながら、節くれだった指を折ってかぞえた。 「へえ、このかまに火を入れたなあ、たしか二十五日の夕方でございました。へえ、それにちがいございません。ちょうど一柳さんの婚礼の日でございましたから」 「それで、この炭になる木だね。それをかまの中につめたのは……?」 「炭材ですか、へえ、炭材をつめたのはその前の日、つまり二十四日なんですが、その日は半分ほどつめたきりで日が暮れたのでかえっちまったのです。それでつぎの日の夕方、残りの奴を詰め、それから火を入れたんです」 「その間に、何か変わったことはなかったかね。これは妙だと思われるようなことは……?」 「そうですね。実は、二十五日の夕方火を入れてから、その晩ときどき見回りに来たんです。そうです、やっぱり二十五日ですよ。雪がさかんに降ってましたからね。ところがどうも変な匂いがするんです。皮の焼けるようないやあな匂いなんですよ。ひょっとしたら猫の死骸でもまぎれこみやがったかなと思ってると、そうじゃねえんで、悪いことをする奴があるもんじゃありませんか。誰かがボロ洋服と靴を、煙突から押し込んで行ったんですよ。ほら、向こうに放り出してありまさあ」  洋服のほうはもう|殆《ほとん》ど形をとどめていなかったが、靴の方は黒く炭化したまま、まだ原形をとどめている。耕助はステッキの先でそれをいじっていたが、 「君この中へ入ってもいいだろう」 「へえ、しかし、もう何もありませんぜ」  耕助は袴の裾の引き|摺《ず》るのもかまわずに、身をこごめて中へ入ると、暗がりの中でもぞもぞしていたが、やがて、|頓狂《とんきょう》な声で叫んだ。 「き、き、君!」 「へ、へ、へい!」 「あははははは、みんな真似をしやがる。君、すまないがね、大急ぎで一柳さんところへ行って、警部さんに来て貰ってくれませんか。お巡りさんや刑事がいたらみんな一緒にね。あ、それからシャベルを二、三梃持って来るように」 「だ、だ、旦那、そこに何か……」 「いまにわかる。とにかく大急ぎだ」  炭焼き男が真っ黒な|礫《つぶて》となって飛んでいったあとで、耕助も鼻の頭を黒くして、かまの中から這い出して来た。 「耕さん、やっぱりこの中に……?」  耕助は黙って、ただ力強くうなずいただけだったが、銀造にはそれで十分だったのだろう。息を|嚥《の》むような恰好をして、それきり後は問わなかった。耕助もしいんと黙りこんでいた。晴れわたった秋空から小鳥の声が降るように落ちて来た。  やがて警部がめいめいシャベルをかついだ巡査と刑事を三名つれて駆けつけて来た。皆ひどく驚いたような顔で、呼吸を弾ませている。 「金田一さん、な、何か……」 「警部さん、このかまの底を掘って下さい。死骸が一つ埋めてあるんです」 「し、死骸……」  まるで|山《や》|羊《ぎ》の|啼《な》き声みたいな悲鳴をあげたのは、あの炭焼き男であった。刑事やお巡りさんはそれに眼もくれず、かまの中へ飛びこもうとしたが、銀造は急にそれを呼び止めると、 「ちょっと待ちなさい。とてもこのままじゃ掘り切れない。君、君、この|竈《かまど》は君のものかな」 「へ、へえ」 「それじゃ、あとで弁償するが、この甲羅をこわしちゃいけないかね」  甲羅というのはかまの天井のことである。 「へ、へえ、そりゃ構いませんが、死骸なんて、死骸なんて、そ、そんな滅相な」  炭焼き男はいまにも泣き出しそうな顔をしている。刑事とお巡りさんはすぐ蒲鉾型の甲羅を、叩きこわしにかかった。どうせ、粘土で固めた素人細工だからすぐ|毀《こわ》れる。甲羅がこわれていくにしたがって、真っ暗だったかまの中に陽が流れ込んでいく。やがて甲羅があらかたとれると、刑事とお巡りさんが中へ飛び込んだ。警部と耕助と銀造は、上から覗きこんでシャベルの先を視つめている。  やがて土が掘りかえされるにしたがって、にゅっと男の片脚が先ず現われた。その脚はなんともいえぬ気味悪い色をしていた。 「ひゃあッ、こりゃ裸ですぜ」 「金田一さん、金田一さん、こりゃ一体誰です。今度の事件に……」 「まあ、いいから見ていらっしゃい。いまに、わかりますよ」  死骸は仰向けに寝かされていると見えて、やがて|痩《や》せこけた腹から胸へと現われて来たが、その胸を見たとたん、また刑事が頓狂な声をあげた。 「ひゃあッ、こ、こりゃ殺されてから埋められたんですぜ。ほら、胸のところを恐ろしく|抉《えぐ》られている」 「な、な、な、なんですって?」  今度は耕助の驚く番だった。文字どおりかれはその場に飛び上がった。 「耕さん、あの男が殺されているというのはいけないのかな」 「僕は——僕は——僕は——まさか、——まさか」 「君、早く顔を掘り出してみたまえ」  警部の命令ですぐ顔の周囲の土が取りのけられたが、そのとたん、三度刑事がおどろきの叫びをあげた。 「警部さん、こ、こりゃ例の男ですぜ。ほら、顔に大きな傷がある。三本指の男……」 「な、な、なんだって」  警部はのびあがって、死体の顔を覗きこんだが、その眼玉はいまにも飛び出しそうだった。ああ、間違いない。実に何ともいいようのない、気味の悪いその死体の顔には、唇の右端から頬へかけて、長い縫合の痕が走っている。まるで口が裂けているように。 「金田一さん、こりゃいったい、こりゃいったい、あっ、そうだ、君、君、そいつの右手を掘り出してみたまえ、右手を」  言下に右手が掘り出されたが、ここで又もや警部も刑事もお巡りさんも、悲鳴に似た叫び声をあげたのである。なんとその死体には右手がなかった。|手《て》|頸《くび》のあたりからズバリと切断されているのだった。 「金田一さん!」 「いいのですよ。いいのですよ。警部さん、これで何もかも|平仄《ひょうそく》があうんですよ。はい、お土産」  警部は血走った眼で|孔《あな》のあくほど耕助の顔を視つめていたが、やがていま渡されたものに眼を落とした。それはさっきから耕助がぶら下げて、歩いていたハンケチ包みであった。 「あけてご覧なさい。猫のお墓から、見つけて来たんですよ」  警部は手触りで、それがなんであるかも覚ったのにちがいない。はっとしたように息を吸うと、ふるえる指でハンケチを解き、麻紐を切り、油紙をひらいたが、すると中から出て来たのは、なんと手頸から切断された男の右手であった。その手には三本しか指がなかった。拇指と人差し指と中指と。…… 「警部さん、これがあの血の指紋を|捺《お》すために使われたスタンプですよ」     耕助の実験  金田一耕助があの素晴らしい実験によって、一挙にこの|変《へん》|梃《てこ》な密室の殺人事件を解決して見せたのは、その晩のことである。この事については、特に請われてその席につらなったF医師が、覚え書きのなかに、詳細に書きとめているから、私はいまそのままここに借用することにしよう。この覚え書きの他の部分から判断してF医師という人は、医者という職業柄、たいへん冷静な、物に動ぜぬ人物のように思われるのに、この時ばかりはよほど驚いたと見えて覚え書きにもひどく昂奮したような痕が見える。私はしかし、それを出来るだけ平板なものに訂正しておくことにする。その方がこの事件の結末としてふさわしいと思うからである。なお、以下しばらく私というのが医師であるということはいうまでもない。 [#ここから3字下げ] F医師の覚え書き|抜《ばっ》|萃《すい》 [#ここで字下げ終わり]  一柳家へ来ているあの奇妙な青年、金田一耕助君から、今晩、ある実験をするから立ち会ってくれという招待をうけたのは、あの恐ろしい三本指の男の死体が掘り出されてから間もなくのことである。  この死体が掘り出された際、いちばんに検屍したのは私であるが、その時、金田一君は私にむかってこんな事をいった。 「この死体について、あなたがどのような意外な事実を発見されようとも、この発表は後刻、つまり僕がある種の実験をおわるまで、差しひかえていただきたいと思うのですが」  金田一君がなぜそんなことをいったのか、その言葉の意味の半分だけは、すぐ私にもわかった。その恐ろしい死体を調べおわったとき、私はそこに非常に予想外な事実を発見して一驚したのである。だがその事をなぜすぐ発表してはならないのか、なぜ、後刻まで延ばさなければならないのか、その方の意味は夜になるまで、私にもわからなかった。  それにしても私は、金田一耕助というその青年の、一種神秘的ともいうべき洞察力に、敬服せずにはいられなかった。聴けばあの死体は、偶然そこから掘り出されたのではなく、金田一君の指図によって、掘り出されたということである。してみればかれは、たとえはっきりそこに死体があるとは知っていなくても、三本指のあの男が、すでに死体となっているだろうということは知っていたにちがいない。更にまた、検屍の結果私がはじめて知りえたあの意外な事実、それをもかれはあらかじめ、ちゃあんと知っていたらしいのだ。あの一見風采のあがらない、もじゃもじゃ頭の吃りの青年の姿が、私の眼に一種不可思議な存在としてうつって来たのも無理ではなかろう。だから私は一も二もなくかれの言葉にしたがった。と、同時に、非常な期待をもってその夜の実験というのを待ちうけていたのである。  その実験というのは、つぎのようにしてはじまったのである。  約束によってその夜私が一柳家を訪れたのは九時頃のことであったが、すぐ私は離家のほうへ案内された。離家の枝折り戸のところには、木村刑事が張り番をしていたが、私の姿を見るとすぐ玄関までつれていってくれた。離家の雨戸はその時どこもかしこも閉されていたが、問題の八畳へ入ってみると、そこには四人の男が火鉢をかこんで、黙々として煙草をくゆらしていた。四人というのは金田一君をはじめとして、磯川警部に久保銀造氏、それから一柳家から唯一人出席していた隆二さんだが、その人たちの緊張のためにいくらか|蒼《あお》|褪《ざ》めた顔を見ると、私もいよいよ事件が大詰めまで来たことを、感じないではいられなかった。  金田一君は私のすがたを見ると、すぐに煙草の吸い殻を、火鉢の中に押しこむと、 「さあ、これでみんな揃いましたから、さっそく実験をはじめることにしましょう」  金田一君は元気よく立ち上ると、 「本来ならばこの実験は、あの犯行のあった時間、即ち明け方の四時頃まで待ったほうがしぜんなんですが、それではあまり皆さんをお待たせすることになるので、少し時間を繰りあげたのです。そのために、いくらか人為的な操作をしなければなりませんが、その事はあらかじめご了解下さい」  言いおわると金田一君は二本の指を口にあてて、鋭い口笛を吹いた。と同時に雨戸の外を東から西へ駆け抜けていく足音がきこえた。私たちがぎょっとして顔を見合わせていると、金田一君はにこにこしながら、 「なあに、木村刑事ですよ。さっきいった人為的操作というのを、私はあの人に頼んでおいたのです」  そういいながら金田一君は、床の間のまえに立ててあった屏風に手をかけた。この屏風は私が入って来たときから向こうむきに立ててあったのだが、いま金田一君がそれをひらいたとき、みな、いちように大きく眼を瞠った。屏風の陰には等身大の|藁人形《わらにんぎょう》が立てかけてあったのである。  金田一君はにこにこしながら、 「作男の源七君に頼んでこさえて貰ったのですよ。ほんとうはあの時人間が二人いたのですが、実験はこれ一つで十分です。ところで皆さんはこの部屋が、あの晩と同じ状態になっていることを認めて下さるでしょう。ほら、その西側の障子のあきぐあいなど……。そしてこの屏風はここにこういうふうに立ててあり、その屏風のこちら側に死体があったのでしたね」  警部に手伝ってもらって金田一君は、屏風をあの晩と同じ位置に立てなおしていたが、急に、しっというように両手で私たちをおさえる真似をした。ちょっとの間私にはその意味がよくわからなかったが、すぐ水車の音をさしているのであることに気がついた。  さっきまで止まっていた水車が、そのとき急に動き出したと見えて、ガッタン、ゴットンと鈍い回転の音がきこえて来る。私たちは思わず顔を見合わせた。 「木村刑事が|樋《とい》の水を落としてくれたのですよ。あの水車がいつも回転しているのでないことは、皆さんご存じでしょう。いつもは樋がはずしてある。そうして使うときだけ、ああして樋の水を落として水車を動かすんですね。ところで近頃じゃまだ日中は、|野《の》|良《ら》の仕事が忙しいから、周吉という人があそこへ米を|搗《つ》きに来るのは、いつも明け方四時頃のことなんです。つまり毎朝四時頃になると、あの水車が回転しはじめるんですよ」  金田一君は早口にそんなことをいいながら、いったん廊下へとび出したが、すぐ戻って来たところを見ると、手に一本の抜き身と、二本の糸をひっぱっている。 「この刀はむろん、床の間の裏の、押し入れの中にかくしてあったものなんです。それからこの糸……ほら、琴の糸ですよ」  廊下からつづいているその琴糸を、金田一君は屏風のうえから座敷へひいた。見るとそれは二本の糸ではなくて、一本の糸がそこで折り曲げられて二重になっているのだった。金田一君は輪になったその尖端を、くるくると二重のわなにするとその中に刀の柄をとおし、|鍔《つば》のところでしっかりぶら下がるようにした。 「警部さん、ちょっとその藁人形を……」  警部は言下に藁人形を抱いて来る。金田一君は、左手にその藁人形を抱き、右手に抜き身を握ったまま、屏風のうちがわに立っている。私たちは息をのんでそういう金田一君のすがたを見守っていた。刀の柄にまきつけられた二条の琴糸は、はじめのうち、屏風のうえからぶらんと垂れさがっていたが、やがて誰か屏風の裏から、引っ張るものがあるように、しだいに向こうに|手《た》|繰《ぐ》られていく。銀造氏はそれを見るとふいに大きく眼を瞠った。 「あっ、水車が……」  そのとたん糸はピンと緊張した。刀の鍔はすでに屏風のうえにある。と、そのとたん金田一君が、藁人形のほうから押しつけるようにして、ぐさっと、抜き身を胸のあたりに突っ立てた。 「あっ……」  警部も銀造も隆二さんも、拳を握って思わず呼吸をはずませる。  やがてころあいをはかって、金田一君が手をはなすと、藁人形はばったりその場に倒れた。その拍子にすっぽり抜けた抜き身は、まだ屏風のうえからぶら下がっている。だが、それも、ちょっとの間で、すぐ屏風の向こうに見えなくなった。と同時にそのきっさきが、バターンと雨戸を叩く音がした。  私たちはすぐそれを追っかけて西の廊下へ飛び出した。あの二条の琴糸は、いま欄間からぶら下がっている。しかもそれは水車の回転にしたがって、しだいに外へ手繰りよせられていく。抜き身の鍔が欄間の角にひっかかって、二、三度刀が反射的に飛び上がったが、それでも無事に欄間をくぐって、するすると外へ出ていった。と、同時にバサッと音がして、欄間から何やら落ちて来た。金田一君はそれを拾いあげると銀造氏に見せながら、 「ほら、あなたがあの晩ここから飛び込んで来たとき、廊下に落ちていた日本手拭い。……つまりあの欄間に、傷がつかないようにおいてあったのですね」  金田一君が雨戸をひらいたので、私たちはすぐ外へ飛び出した。むろんみんなはだしのままだったが、大きな驚きのために、誰もそんなことをかまっている者はいなかった。  ちょうど月がのぼりかけたところで、庭は大して暗くもない。見ると私たちのすぐ眼のまえに抜き身がぶらんとぶら下がっている。そして抜き身の鍔に巻きついている、あの二条の糸は、いまは左右に別れて、向かって左のほうは石燈籠の|灯《ひ》|入《い》れの中を通って、西のほうへつづいている。そしてもう一方は、便所の屋根へ向かって走っている。その便所の屋根を金田一君がぱっと懐中電燈で照らした。 「あっ、|琴《こと》|柱《じ》!」  そう叫んだのは警部である。いかさま突き出した便所の屋根の角のところに、琴柱が一つ取りつけてある。そしてその琴柱の股のなかをくぐって、琴糸が走っているのである。水車の回転にしたがって、二条の糸は左右からしだいに手繰り寄せられて、やがて琴柱と、石燈籠の灯入れのあいだに、ピーンと一直線に緊張した。そしてその中間に抜き身のぶらさがっていることはいうまでもない。 「水車の力と、石燈籠と琴柱の安定、三つの中で一番弱い一角が破れるんです」  水車がきしむような音を立てる。琴糸はいよいよ強く緊張したが、やがて、琴柱がビューンと飛ぶと、琴糸の緊張はそこでがったりゆるんだ。 「警部さん、あの琴柱を探してご覧なさい。多分、落ち葉溜めのへんに落ちている筈です」  警部はすぐに探しあてたが、果たしてそれは落ち葉溜めのすぐそばに落ちていた。  さて、いったん緊張のゆるんだ糸は、すぐまた徐々に緊張していく、金田一君が懐中電燈で、今度は|樟《くす》の木の幹をてらした。 「鎌……」  なるほどそこには|研《と》ぎすました鎌が、樟の葉陰にがっきりとぶちこんであり、研ぎすましたその刃と幹とのつくる角度のあいだを、糸が走っているのである。金田一君はその樟の木の向こうの空間を懐中電燈で照らすと、 「あの糸の向こうの方を見ていて下さい」  鎌の刃をわたった糸は、そこからずっと西の方へ走っているが、その糸が緊迫していくにしたがって、うしろの崖から垂れている竹が五、六本、それにおさえられてしなっていく。やがて糸はまた、鎌と燈籠の灯入れのあいだにピーンと一直線に緊張した。あの抜き身はまだその間にぶら下がっているが、こんどは前よりよほど燈籠のほうへ寄っている。 「水車の力と、燈籠と鎌の安定、それに今度は糸の強さが加わります。四者のなかで、一番弱い一角がくずれるのです」  その時である。琴糸におさえられていた五、六本の竹が跳ねっ返る拍子に糸を|弾《はじ》いでピン、ピン、ピン——と音を立てたが、そのとたん、鎌のところでぷっつり糸が切れた。と思うと、ブルン、ブルン、ブルンと空中をひっかきまわすような音がした。と、同時にあの抜き身がくるくると二、三度宙に舞ったのち、ぶすりと燈籠の根元に突き立ったのであった。 「どうです。おじさん、この間の晩、刀が突き立っていたのも、やはりこの辺だったでしょう」  しかし、誰もそれに答える者はいなかった。暗がりの中で、激しい息遣いがきこえるばかりである。みないっせいに眼をみはって、まだ激しくゆれている刀を視つめていたのである。 「さあ、それではついでに糸の行く方を見定めようじゃありませんか」  金田一君の声にはじめて、気がついたように顔をあげると、一同は刀のそばを通りぬけ、庭の奥へふみこんだ。二つに切れた二本の糸は、どちらも枝から枝へと渡りながら、しだいに向こうへ手繰られていく。そしてやがてその糸は、二本とも向こうに見える松の添え木にした、青竹の中へ吸いこまれていった。 「さあ、ここまでご覧になればいいでしょう。あとはこの竹をくぐって、水車の軸に巻きつけられていくんです。その軸には荒縄がぐるぐる巻きにしてありますから、琴糸の二本や三本巻きついたところで、当分誰も気がつく筈はありません」  銀造氏がううむと太い|唸《うな》り声をもらした。警部が畜生と鋭い舌打ちをした。それからわれわれはまた雨戸の方へとってかえしたが、そこで隆二さんがふと立ち止まってこんな事を呟いた。 「しかし、あの琴柱は……? あれはなんのために必要だったのだろう」 「ああ、あれですか。あれは刀が引き摺らないためですよ。ご覧なさい。あの樟の木からじゃ、欄間は少し遠過ぎるんです。だから途中で一度支えるものをつくっておかないと、欄間から出た刀は地面へ落ちて、そこへ引き摺った跡がつく。この装置を考案した人はそれを嫌ったんです。琴柱ばかりじゃありません。あの屏風も、向こうの青竹も、みんな刀や琴糸が引き摺って、畳や地面に跡をつけないために巧みに利用されているんです。屏風といい、鎌といい、石燈籠といい、青竹といい、みんなその場にありあわせたものや、その場にあって不自然でないものを使ったところに、考案者の頭のよさがうかがわれますね。ただ一つ、琴柱だけが不自然ですが、それを逆に利用して、かえって神秘的な効果を強めることに成功したんですから、いよいよもって凡手じゃありません」  実験はおわった。そしてわれわれはもう一度あの八畳へとってかえしたのだが、明るいところで見合わせた一同の顔は、金田一君を除いては、みんな真っ蒼になっていた。     本陣の悲劇 「で……」  火鉢をとりまいたまま一同は、長いことそこに黙りこんでいたのだが、やがてぼそりとそういったのは銀造氏だった。古井戸の中へ石でも落としたような陰気な声だった。 「で……?」  金田一君がにこにこしながら銀造氏の顔を見る。そのとたん警部が一膝ゆすり出た。 「つまり賢蔵氏は自殺したというんですね」 「そうですよ」 「克子を殺して、そのあとで自殺したんだね」  銀造氏がうめくように呟いた。隆二さんは深く首をたれていた。 「そうなんですよ。それで実はF先生に来ていただいたんですが、先生、最初に二人の体を調べたのはあなたでしたね。どうでしょう、その時の賢蔵氏の死体の位置や体の傷と、私のいまの実験とのあいだに、矛盾したところがあるでしょうか」 「つまり、自分で二、三か所体に傷をつけておいて、そのあとで心臓を貫いたというんですね。もちろん、いまのような装置を賢蔵氏がしておいたとしたら、それは不可能なことじゃありませんね」 「じゃ、矛盾はないのですね」 「まあ、ないと思います。しかし問題は、賢蔵さんがなぜそんなことをしたかということですね」 「それなんだよ、金田一君、賢蔵氏はなぜまたそんなことをしたのだ。結婚式の晩に花嫁を殺して自殺する。それはよくよくのことですよ。賢蔵氏はなぜそんな事をしたんです」 「警部さん、その事ならあなたもご存じの筈じゃありませんか。今朝白木静子という婦人が語ってくれた事実、つまり克子さんが処女でなかったという秘密、それが今度の事件の直接の原因なんですよ」  警部は大きく眼を瞠って、噛みつきそうな顔をして金田一君を睨んでいた。それから呼吸をはずませながらこういった。 「しかし、しかし、それしきの事で……女が処女でなかったら、そしてそれが気に入らなかったら、破談にすればいいじゃないか」 「そして親戚じゅうの物笑いの種になってもかまわないとおっしゃるのですか。そうです、ふつうの人間ならそれで辛抱出来たのです。しかしそれが出来なかったところに、賢蔵氏の大きな悲劇の原因があったのですよ」  それから金田一君はゆっくりと、つぎのようなことをいったのである。 「警部さん、私がいまお眼にかけた種明かし、あれはなんでもないことなんですよ。たいていの手品の種明かしというものは、分かって見ればああいうふうに、あっけない、むしろ子供|騙《だま》しみたいなものです。だからこの事件のほんとうの恐ろしさは、いかにしてああいうことが行なわれたかという事より、なぜああいうことが行なわれなければならなかったかという事にあるんです。そしてそれを理解するためには、先ず何よりも賢蔵氏という人の性格と、それから一柳家の雰囲気から理解してかからねばなりません」  金田一君は隆二さんをふりかえりながら、 「ここに賢蔵さんを一番よく識っていらっしゃる筈の隆二さんがいらっしゃるから、私の言葉が間違っていれば訂正して下さると思います。私は昨夜賢蔵さんの日記を、かなり丹念に読んでみたんですが、私が非常に興味を感じたのは、そこに書かれている事柄よりも、日記そのものの扱いかたなんです。いったい日記というものは、一年三百六十五日、必ず一日に一度は開くものだから、どんなに几帳面な人の日記でも、多少は綴じがゆるんだり、ページの角がいたんでいたり、また、たまにはインキのしみがつくとかしているものです。ところが賢蔵さんの日記に限って絶対にそんなことはない。まるでいま製本したばかりのようにきちんとして清潔なんです。それでいて日記を怠っているかといえば、どうしてどうして、実に克明につけていられるんです。しかもその文字というのが、一字一画もゆるがせにしないような細い、チカチカした書体で、見ているとその書体だけで切なくなって、息切れがして来るような感じなんです。それだけでも賢蔵さんという人がいかに神経質で潔癖な人だったかわかるんですが、この事については更に女中のお清さんがこんな事を話してくれましたよ。これはほんの一例なんですが、このお宅へ客が来て火鉢を出す、その火鉢に少しでも客の手がふれる。すると賢蔵さんは後でその部分をアルコールで消毒しなければ気がすまなかったそうです。こうなると潔癖というよりも、病的としか思えません。つまり賢蔵さんという人には、自分以外の人間はすべて|穢《きたな》らしくて不潔に思えて仕方がなかったのです。こういう性質と、もう一つの賢蔵さんの大きな特徴、それは日記を読めばすぐ分かることですが、感情の起伏が非常に大きい。つまり極端から極端へうつる性質なんです。よく愛憎の念ただならずというようなことをいいますが、賢蔵さんの場合はそんな|生《なま》|易《やさ》しい言葉ではいい現わせないほどそれが深刻なんです。生涯の仇敵……ああいう言葉を無造作に使われるところを見ても、この事はよくわかります。それからもう一つ、この人は非常に正義感の強い人であった。この事はふつうならば人間の長所であるべき筈なんですが、賢蔵さんに限って、それが長所というよりも短所として数えられる場合のほうが、多かったのじゃないかと思う。つまりあまりそれが強過ぎるために、性格のうえに余裕というものが全然なかった。不正や|欺《ぎ》|瞞《まん》に対して、自分を責めることも大きかったが、他人にむかっても厳格に過ぎるきらいが多かったようです。それから、そういう正義感の強い人だけに、こういう農村の大地主という地位に対して常に疑問を抱いていられた。封建的色彩の強い思想や習慣に対しても、はげしい憎悪を持っていられた。ところが不思議なことにはそういうふうに嫌悪していながら、では、この一柳家で誰が一番封建的だったかといえば、実は賢蔵さんご自身だったのです。一柳家の家長であるという権威、本陣の末裔であり大地主であるところから来る暴君性、それを非常に多分に持っていられて、他人がその尊厳を冒すと強い不愉快を感じられた。つまり賢蔵さんという人は、そういう矛盾にみちた人格だったのですね」  隆二さんは黙って首をうなだれている。それはいちいち金田一君の言葉を肯定しているように見えた。私は賢蔵さんのことはよく識っているが、金田一君のいまの言葉は、その人をさながら浮き彫りしているようであった。  金田一君はふたたび言葉をついで、 「こういう人は、当然の結果として、孤独ならざるを得ない。自分以外の人間は誰も信用することが出来ない、というよりも自分以外の人間はことごとく敵に見える。しかもそれは近親者ほどはげしいのです。ところで賢蔵さんがしじゅう接触していられる近親者といえば、先ずお母さん、それから従弟の良介さんに、弟の三郎君と妹の鈴子さんとこの四人ですが、後の二人はまだ年も若いから、問題はおのずから前の二人、ことに良介さんに限定される。この良介さんという人がまた非常に興味のある人物らしい。賢蔵さんの性格をすっかり裏返しにしたような人じゃないかと思うんです。表面は柔順で、へらへらしていて、肌触りも悪くないように見えていて、裏へまわると賢蔵さんと同じように、気性のはげしい人のようです。日記を見てもよくわかるのですが、賢蔵さんがこの人とお母さんのために、どのように悩まされたか、どのように、神経をいらだたせていたか。それでいて正面衝突が出来なかったのは、教養の差という自尊心が、賢蔵さんをおさえていたのです。良介さんのほうではそれをよく心得ているものだから、何食わぬ顔で、わざと賢蔵さんの気に触るようなことをしていたんじゃないかと思われる節もあります。さてこういうところへ克子さんの問題が起こったのですが、この縁談に対して周囲がどんなに反対したか、そのことは皆さんもよくご承知ですから多く言う必要もありませんが、それを強引に押しきって、いよいよ結婚というところまでこぎつけた。ところがその間ぎわになって克子さんが処女でなかった。かつて愛人があった。しかも偶然とはいえ、最近その愛人にあったということもきいたとき、賢蔵さんはいったいどのような気持ちだったでしょう」  金田一君はぽっつりと言葉を切った。誰も口を開こうとする者はいなかった。警部と銀造氏も隆二さんも、みな|暗《あん》|澹《たん》たる顔色だった。 「私が思うのに、賢蔵さんが克子さんに心を惹かれたのはその聡明さ、朗かさ、朗かななかにもしっとりしたところがあり、性質もテキパキしている。そういうところも大きな要素だったのでしょうが、何よりも強い魅力だったのは克子さんが非常に清潔な感じのする人、それだったのではないかと思う。清潔——これこそ賢蔵さんが一番とうとんだところだったのに、いざとなったぎりぎりで、彼女がすでに男を知っていた。彼女の体内には他の男の血がながれていることがわかったのです。まえにもいったように賢蔵さんは、他人の触った火鉢でさえ、アルコールで消毒しなければ納まらぬ人なんです。こういう場合には低級な言葉ほどぴったりします。一度ほかの男——賢蔵さんにとっては他人はみな穢らしいものだったんですよ——の胸に抱かれたことのある女を、自分の妻として抱いて寝られるか。賢蔵さんにとっては、考えただけでもそれは悪寒の走ることだったに違いない。ではその縁談を破談にするか、賢蔵さんにとってそれは絶対不可能だった。  そんなことをするのは今まで軽蔑しきっていた親戚じゅうの人たちに、はっきり|兜《かぶと》をぬぐのも同然ですからね。では名義上の妻として、親戚の眼を欺いていいか、それまた賢蔵氏には出来ない理由があった。と、いうのは、結婚式の数日まえに、克子さんが大阪のデパートで、田谷という男に遇っていることです。田谷という男がどういう人物か、これはわれわれにも分からないと同様、賢蔵氏にも分からなかった。あるいはその男、昔の関係を種にゆすりに来るような人物ではないかも知れない。しかし、賢蔵氏ははっきりとそうした保障を受けるわけにはいかなかった。かりに、克子さんを名義上の妻として、表面を|糊《こ》|塗《と》しているところへ、田谷という男がやって来たとしてごらんなさい。どんな不面目な事態が起こるか——それを考えると、賢蔵氏は、とてもそういう冒険は出来なかったでしょう。だが、この殺人の動機は、そういう現実的な問題より、もっと深いところ、即ち賢蔵氏の性格にあったのではないかと思う。おそらく賢蔵氏は、自分をこういう、のっぴきならぬ立場におとしいれた克子さんに対して、はげしい憎しみを持っていたにちがいない。そういうけがらわしい体をもって、のめのめと自分の妻となろうとした女。——それに対して、賢蔵氏は名状することの出来ない憎悪を抱いていたのでしょう。しかも、賢蔵氏の性格として、自分がそういう憎悪を持っていることを、克子さんに知られることすら|懼《おそ》れたにちがいない。つまり、賢蔵氏のお父さんや叔父さんにあった感情の激発は、賢蔵氏の場合には、胸中深くひそみ込んで、ああいうネチネチとした陰険な回りくどい計画となって現われたのですね。つまり、ふつうの人間にとって不自然に見えるこの動機も、賢蔵氏の性格と、本陣の末裔というこの家の雰囲気から見れば、少しも不自然ではない。いや、むしろ避くべからざる動機となったのですよ。で、結局、ああいう方法をとるよりほかに仕様がなかった。しかも表面は、あくまで自分の主張をとおしたように見せかけなければならないから、婚礼の式だけは挙げなければならぬ。しかし、事実上の夫婦になることはまっぴらだったのですから、あの瞬間をえらぶよりほかはなかったのです」 「つまり心中ということになるのですか」 「心中……? いや、おそらくそうじゃないと思います。これは悪意と憎しみにみちた、ふつうの殺人事件なんです。自殺が目的じゃないのですからね。自分をこういう、のっぴきならぬ立場におとしいれた克子さんに対するはげしい憎しみ。——それが|昂《こう》じて、克子さん殺しの計画に成長していったんです。ただ、犯人が非常に聡明だったから、どんな巧妙な犯罪も、結局は露見しないではおかぬということを知っていた。いや、たとい露見せずとも、あの人の良心、正義感が殺人犯人としての自覚に長く耐えていけないだろうということを、自分でちゃんと知っていた。だから警察の手の及ばぬうちに、自分の良心に|破《は》|綻《たん》を来さぬまえに、さきくぐりをして、自殺してしまった、というほうが当たっているのではないでしょうか。つまりこれはふつうの殺人事件や探偵小説と、順序が少し逆になっているだけのことなんです。ふつうの場合は第一に殺人が起こる、第二に警察や探偵が活躍する。第三に犯人がつかまって、自殺する。と、こういう順序になるのですが、この事件の場合では、第二と第三が逆になっているだけなんです。だから、犯人が自殺していたからって、この事件を軽く見るのは間違っていると思う。犯人はあくまで克子さん殺しを自分のせいでないように見せかけているのですし、更に自分の自殺でさえも、自殺でないように見せかけているのですから、|悪《あく》|辣《らつ》といえばいっそう悪辣ということが出来ると思う」 「自殺と思われたくなかったのは、やはり親戚に兜をぬぎたくない。それ見たことかと、親戚や良介さんにも嗤われたくないという考えからなんですね」 「そうです。そうです。この事件の謎はすべてそこから出発しているんです。つまり本陣の悲劇なんですね」     予行演習  私たちはそこで長いこと黙りこんでいた。がらんとした離家の中で火鉢一つだから、寒さがしだいに身にこたえたが、しかし誰一人この会談を早く切り上げたいと思うものはなかったようだ。警部は火鉢の灰に、字を書いては消し、書いては消ししていたが、やがてふっと顔をあげると、 「いや、それでだいたい、なぜああいうことが起こったかということがわかりましたが、ではどういうふうにしてああいうことが起こったか、今度はひとつ、それをきかせて下さい」  警部の言葉をきくと、金田一君は|俄《にわ》かに嬉しそうに、がりがりともじゃもじゃ頭を掻きまわして、 「さあ、それですよ。この事件では事件の計画者はすでに死んでいるのですから、告白をきくというわけにはいかない。だからわれわれが想像していくよりほかに手はないのですが、ここには関係者の顔触れもだいたい揃っていますから、はじめからこの事件を研究していってみようじゃありませんか」  金田一君はふところから小さな手帳を取り出すと、それを膝のうえにおいて、 「私が最初この事件から感じた印象は、探偵小説的な色彩が非常に強いということでしたね。密室の殺人ということからしてすでにそうですが、そのほかにも三本指の男だの琴の音だの、アルバムの写真だの、焼け残った日記の断章だの、すっかり探偵小説ですからね。こういう要素も一つや二つだけだと、偶然にからみあって来たのだと思えないことはありませんが、これだけ念入りに揃っていると、そこに一つの意志が働いているとしか思えない。しかも意志たるや、たいへん探偵小説的な意志なんです。と、そう考えているところへ、ぶつかったのが、あの三郎君の蔵書です。警部さん、あの時、僕がどんなに喜んだか、どんなに昂奮したか、あなたもよくご存じでしょう」  警部は無言のまま頷いた。 「いったい、この事件の中心となっているトリック、自殺を他殺と見せかけるトリックは探偵小説ではしばしば扱われるものなのです。その代表的なものが、シャーロック・ホームズ物語の中の『ソア橋事件』という小説ですが、自殺を他殺と見せるためには、凶器を死体から出来るだけ遠くへ離しておかなければならない。『ソア橋事件』で使われる凶器はピストルですが、このピストルに紐をつけ、その紐の他の端に|錘《おもり》をつけておく。自殺者は橋の上に立ってピストルで自分の頭を射つのですが、そのとたんに手を放すとピストルは錘の重さで河の底へ沈んでいくという仕掛けになっています。私は確信をもって言い得ると思うんですが、賢蔵さんが、こんどのことを思いついたのは、この小説がヒントになっているんです。その証拠には、三郎君の蔵書の中にはこの小説もあるんですが、それが非常に丁寧に読まれたらしい痕があるんです」 「なるほど、よくわかりました。しかし、そうすると三郎はこの事件にどういう役割を持っているのでしょう」  気遣わしそうに訊ねたのは隆二さんであった。すると金田一君はいかにも嬉しそうに、もじゃもじゃ頭をがりがりやりながら、 「いや、ちょっと待って下さい。三郎君のこんどの事件における役割というものは、非常に興味があると思うんですが、それはもう少し後にお話ししましょう。少なくとも賢蔵さんが最初この計画をたてた当初には、三郎君は関係していなかったと思う。賢蔵さんの性格として、こういう重大な計画に人の助けを借りるということは、あり得ないことだと思われますからね。さて、賢蔵さんの心中に、しだいに、こういう計画が熟していった、ということを頭において、さてもう一度、こんどの事件をはじめから見直そうじゃありませんか」  金田一君はノートに眼を落とすと、 「今度の事件の最初の幕は、十一月二十三日に切って落とされているんですね。即ち、結婚式の前々日の夕方、不思議な三本指の男が、役場のまえの川田屋へ現われた——あの瞬間から、こんどの事件は活動に入っているんですよ」 「そうだ、あの三本指の男は、一柳家といったいどういう関係があるんです」  警部が思い出したように膝を乗り出した。 「警部さん、あの男は一柳家とはなんの関係もない人物ですよ。ただ通りがかりの男に過ぎなかったんです」 「しかし、耕さん」  と、銀造氏は眉をひそめながら、 「その男は飯屋のおかみさんに、一柳家へ行くのはどういけばよいかと聞いているんじゃないか」 「そうです。しかしおじさん、あの男がほんとうに聞きたかったのは、一柳さんの家ではなく久——村へ行く道だったんですよ。その事は今朝、川——村で警部さんに実験してお眼にかけたんですがね」  警部はそこで大きく眼を瞠った。金田一君はにこにこしながら、 「あの男が遠いところから来たらしいということは、みんなの意見が一致していますね。そこであの男が汽車でやって来て清——駅でおりたと考えます。そこであの男は久——村へいく道を訊ねるんです。そういう場合、訊かれた人はどういうふうに答えるでしょう。清——駅付近から久——村まで二里あまりある。ひと息に教えるのはなかなかむずかしい。そういう場合、人は先ず手近な場所を教え、その辺へいってもう一度きけと教えるのがふつうです。そこであの男は川——村までやって来てもう一度訊ねた。それを今朝私は実験してみたのですが、私に道を教えてくれた煙草屋のおかみさんはこういうふうにいいましたよ。——この道をまっすぐ行けば岡——村の役場のまえに出る。そのへんで一柳さんときいてごらんなさい。大きなお屋敷だからすぐわかる。その一柳さんのまえの道をまっすぐ行けば、山越しに久——村へ出られると。——あの三本指の男もそういうふうに教えられて役場のまえまでやって来た。そこであの飯屋のおかみさんに、一柳さんの家をきいたのです」  警部も銀造氏も隆二さんも、思わず大きな呻き声をもらした。  無理もないのである。いままで関係者一同をなやましていたあの三本指の男と一柳家の関係は、そんな些細なことだったのか。 「そうなのですよ。その時まであの男は、一柳家とはなんの関係もない人物だったのです。ところが、それから間もなく、急にその男がこんどの事件に入って来るようになった。というよりは、賢蔵氏の計画のなかへ落ちこんで来たといったほうが当たっているでしょう。さて役場のまえを立ち去ったその男は、そこからすぐにこのお屋敷のまえまでやって来た。来てみるとなるほど大きなお屋敷だ、しかもそこの主人がちかごろ若い娘と結婚しようとしている——と、そんなことをいま耳にしたばかりですから、ちょっとなかを覗いてみる、というのはそういう場合、誰でも起こす好奇心でしょう。そしてそこを近所の人に見つかって、照れかくしにとってつけたように久——村へ行く道を訊ねた。これもまたごくしぜんな行動です。だからあの時、久——村への道をきいたのは、動機としてはばつの悪さを誤魔化すためだったんでしょうが、決して心にもないことをいったわけじゃなかったのです。実際、久——村へ行くつもりだったのですから。ところが皆さんもお気づきでしょうが、道はここから急に坂になっている。そして、あの男が非常に|憔悴《しょうすい》していたということは、誰の意見も一致している。その男は坂へかかるまえひと休みしたくって、しかしああいううさん臭い風態ですから、ひと眼にかからぬところで休みたくて、うしろの崖へ這いのぼっていった。というのもこれまたごくしぜんな行動だったでしょう」 「そして、そこを賢蔵氏に殺されたのですか」  警部のこの質問が出ると同時に、私は遠慮がちに空咳をしてみせた。すると金田一君がそれに気がついて、にこにこしながら、私のほうを振り返った。 「いや、その事については、F先生が説明して下さるでしょう。実はそのために、先生にここへ来ていただいたのです。先生、ここでひとつ検屍の結果をどうぞ」  私ははじめて金田一君が、その発表をいままで延ばすように要請した気持ちがわかって微笑した。一見、なんの|見《み》|栄《ば》えもないように見えるこの青年にも、やはり芝居気はあったのである。かれは一番劇的効果のある瞬間までこの事実を発表したくなかったのだ。 「はあ、それでは、私から検屍の結果を、簡単に申し上げます。あの死体は殺されたのじゃありません。自然死なんです。詳しいことは解剖の結果を待たねばわかりませんが、私の判断したところでは、極度の衰弱と過労から来た心臓の故障、そういうところではないかと思います。それから胸部のあの傷ですが、あれは少なくとも、死後二十四時間は経過した後に出たものと思われるのです」  あっ——と、いう叫びが一同の口からもれた。隆二さんは俄かにいきいきと眼を輝かせながら膝を乗り出した。 「それじゃ、あの男は兄に殺されたわけじゃなかったのですか」 「そうですよ。私ははじめからそう思っていた。賢蔵氏がいかにこんどの計画に熱中していたとしても、なんの罪もない人物を殺すほどの非道はやるまいと思ったのです」 「しかし、あの傷は……? 胸のあの傷は……?」 「あれはね、警部さん、賢蔵さんが実験をしてみた跡なんですよ。賢蔵さんもさっき私がやってみたと同じ実験をしたんです。賢蔵さんはああいう計画をたててみたが、果たしてそれが、うまくいくか、うまくいくとして、その間どれくらいの時間を要するか。それを実験してみたかったんです。つまり予行演習ですね。あの死体はその試験台につかわれたのです。おじさん、あなたの話によると、鈴子さんは事件のあった前の晩にも、やはり琴の糸を弾くような音をきいていたといったそうですね。実験はそのとき行なわれたのですよ」  私たちは思わず顔を見合わせた。隆二さんの顔はふたたび真っ蒼になっていた。それは殺人ではなかったけれど、殺人と同じ程度に、いやそれ以上に恐ろしいことだった。私は背筋が寒くなるのをおぼえずにはいられなかった。 「さて、話をふたたびもとに戻して、あの三本指の男は、うらの崖に這いのぼると、間もなくそこで人知れず息をひきとった。それを賢蔵さんが見つけたんです。それは二十三日の晩か、二十四日の朝だったでしょう。賢蔵さんはこれぞ屈強の試験台とばかりに、死体をひそかにこの離家へ担いでかえってかくしておいた。匿した場所は、その床の間のうしろの押し入れの中だったでしょう。だからあそこには三本指の男の痕跡がのこっていたのは、なんの不思議もないことなんです。さて、以上が二十三日の出来事ですが、そのつぎが二十四日、つまり結婚式の前日ですね。その日の昼過ぎ、茶の間でひと|悶着《もんちゃく》起こったことは、皆さんもご存じでしょう。賢蔵さんとお母さんの間に、琴のことで問題が持ち上がった。ところがそこへ良介さんが猫の棺桶をつくって来る。そしてそのあとへ、三郎君が散髪屋からかえって来て、三本指の男がこの家のことをきいていたということを披露する。ところが、その時、鈴子さんが三本指というところから琴を連想した。鈴子さんとしてはまことに無理のない連想ですが、鈴子さんがその時琴をひく真似をしてみせた、ということがこの事件に大きな関係を持っているんです。つまりそれが賢蔵さんに、はっとある暗示をあたえたんです」  私たちは探るように金田一君の顔を見た。 「賢蔵氏はその時すでに、綿密な計画をたてていられた。しかし、さて、その計画に使う紐についてはまだはっきりした考えは持っていなかった。それは細くて強くて、しかも相当の長さを必要とする。何にしようか……と、考えていたところへ、鈴子さんが三本指のことから琴をひく真似をしてみせた。ここで注意していただきたいのは、その時分には、すでに三本指の男は死体となって、離家の押し入れのなかにかくされていたんですよ。賢蔵氏はその死体を試験台に使うつもりでいる。その男のことがいま急に問題になったのだから、賢蔵氏は少なからず驚いたにちがいないが、それと同時に、鈴子さんの手つきを見て、はっとある暗示にぶつかったのです。三本指と琴……そこに一種の因果関係を認めた賢蔵氏は、琴の糸ということに気がついたのです。まったくそれは妙なことです。あの無邪気なお嬢さんの、なんでもない所作が、殺人の大きな要素を暗示する。まことに恐ろしいことですが、それが実際だったんです。そこで、賢蔵氏は土蔵へ琴をとりに入られた。このお宅には琴が幾面もありますから、琴糸も余分が沢山ある。その中から若干部分を持ち出したところで、誰も気のつく筈がありません。ところが琴の糸をとりにいかれた賢蔵氏は、そこでまた琴柱というものが眼にとまった。あの便所の屋根にとりつけておく支点としては、賢蔵氏も最初から琴柱を使うつもりではなかったと思う。股になった小枝かなんか使うつもりでいられたんでしょうが、琴柱というものを見ると、これがアーチ型になっていて、糸を支えるのにはまことに都合よく出来ている。で、これを利用しようと考えられた。こうして事件はしぜんと琴というものに縁が深くなっていったんです」 「ううむ」  と、警部は唸り声をあげた。 「そしてその晩、実験をしてみたんだね」  と、銀造氏が訊ねた。 「そうです。ところがこの実験について賢蔵氏は、予期しない二つの結果にぶつかったんです。その一つは、あの|叢《むら》|竹《たけ》が琴糸をはじいてピンピンピンと音を発すること。この事は竹をきってしまわない限り、翌晩も起こるに違いない。しかし、急に竹をきることを賢蔵氏は好まなかった。そこでその音はそのままにしておいて、逆にそれを、カモフラージしようと考えたんです。それが殺人の直後、自殺の直前にひいてみせたあの琴の音です。この琴の音のために、人々はそれから間もなく起こった、あの叢竹の琴糸をはじく音から、完全に目隠しされてしまったんです」 「ううむ」  と、警部がまた唸った。 「そして、第二の思いがけない結果というのは?」  と、銀造氏がまたあとを促した。 「それは三郎君に、実験の現場を見つけられたということですよ。もっとも、これは僕の想像ですが、どうもこの時以外に、三郎君がこの計画に、割り込んで来るときはなかったように思われるんです」  あっ——と、私たちは思わず顔を見合わせた。隆二氏の顔はいよいよ蒼くなっていた。     止むを得ざる密室 「さて、僕の想像があたっているとして、三郎君がこの実験の現場を見つけたとして、そこにどのような情景が起こったか、それは、三郎君にきいてみなければわかりません。しかし、三郎君が途中から、この計画に参加したろうことは、彼氏でなければ思いつけぬような小細工が、この事件に沢山弄してあることでもわかります。私が思うのに、賢蔵氏はただ単に他殺と見られさえすればよかったので、そこに犯人をつくっておこうなどとは思っていなかったにちがいない。ところがそこへ探偵小説マニヤの三郎君が参加して来た。三郎君から見れば、犯人のない殺人事件なんておかしくてというわけで、急に擬装犯人をつくることになったのでしょう。それにはそこに死骸となっている三本指の男こそ、まことに恰好の人物である。賢蔵氏も三郎君も、その男がどういう人物なのか、なぜ自分の家を訊ねていたのか、それらの事は少しも知らなかったのでしょうが、うさん臭い風態で、自分の家をきいていた。それだけでも擬装犯人としてはまことに恰好の人物である。ことに、三郎君はその男の特徴ある三本指の指紋が、川田屋のコップに残っているにちがいないと気がついたから、大いに創作欲を刺激されたにちがいありません。その指紋を利用しようということは、探偵小説ファンならば、誰でも思いつくことです。しかも、なおそれだけでは物足りなくて、アルバムの写真や日記の断片で、あくまでも三本指の男と賢蔵氏のあいだに、何か因縁のもつれがあるように作りあげたのですが、これなどは、探偵小説マニヤの三郎君ならでは考えられないトリックでしょう。つまり賢蔵氏の頭のいいあの装置と、三郎君の探偵小説マニヤらしいトリックがからんで来たために、この事件はいっそう複雑さをまして来たんですよ。つまりこれは、二人の共同製作だったんです」 「そうだ、あの写真がどうしてあそこに貼ってあったのですか」 「警部さん、あなたはあの写真をアルバムの台紙ごと切り抜かれたでしょう。もしそのあとで写真を台紙からはがしてごらんになったら、すぐそこにある細工に気がついた筈なんです。ほら、ごらんなさい」  金田一君ははがされた写真と台紙を取り出すと、 「この写真の裏には、まえにほかの台紙に貼りつけてあったのをはがした跡があります。また、この台紙にはそこに別の写真が貼ってあったらしい跡がのこっています。つまりあのアルバムにはまえに他の写真が貼ってあったのをひっぺがして、そのあとへこの写真を貼りつけたのです。即ち、賢蔵氏が生涯の仇敵として憎んでいた人物は実在したことは実在したが、それはこの写真の主ではなかったのです」 「しかし、この写真はどうして手に入れたのでしょう」 「それはもちろん、三本指の男が持っていたんですよ」 「しかし、それは妙ですね。人間てそういつも、自分の写真を持って歩くものじゃないでしょう」  隆二さんが眉をひそめていった。 「そうですよ。おっしゃるとおりですよ。ふつうの人はね。しかし、ある職業の人物は、たいていいつも自分の写真を持っていますよ。たとえば自動車の運転手など……」 「あっ」  警部が急に大きな声をあげた。 「そうなんだ。私もそれを考えていたんだ。こういう型の写真をいつもどこかで見ているような気がしていたんです。これは運転手の免許証に貼ってある写真なんですね」 「そうですよ。そうですよ」  金田一君はいかにも嬉しそうに、がりがり頭を掻きまわしながら、 「そうわかれば、あの男の顔にある大きな傷跡や、三本指の由来もおわかりになったでしょう。ここでついでにあの男の身分を明らかにしておきましょう。あの男、名前は清水京吉というんです。|後《し》|月《つき》|郡《ぐん》のもので小さいときから東京へ出ていた。そしてそこで自動車の運転手をしていたんです。ところが近頃、その自動車が大衝突して、ああいう体になった。もう運転手も出来ない。それに非常にからだを悪くしているので、しばらく静養したいが、おいてくれないかといって、久——村の伯母の所へ手紙をよこした。そこで伯母というのがそういうわけならいつでも来いといって返事をやったが、その後なんの|音《おと》|沙《さ》|汰《た》もない。実は今日来るか明日来るかと待っていたところだというんです。これは今日木村刑事に久——村へいって調べて貰ったところですがね。ところで清水という男は伯母の縁づいたさき、即ち久——村へ一度も前に来たことがなかったそうです。それから、この写真をその伯母という人に見せたところが、小さい時にあったきりだからよくわからないが、この写真は京さんの父、即ちその婦人の兄弟ですが、その人によく似ているから多分間違いあるまい、という返事だったそうです。つまりあの三本指の男は、清水京吉という自動車の運転手で、久——村の伯母をたずねていく途中、このうらの崖のうえで不幸な生涯を終わったのですよ」 「そして、それが兄によって利用されたんですね」  隆二さんが沈痛な面持ちでいった。しかし警部は隆二さんの気持ちなどかまっていられなかったのである。 「ところで、あの日記の断片、あれはどう解釈しますか」 「ははははは、あれも三郎君の小細工の一つですよ。賢蔵氏のように克明に、長年日記をつけていれば、そのあいだにはいろんな出来事があります。それをあちこち抜き出してモンタージュすれば、どんな筋書きだって、出来上がりますよ。ごらんなさい」  金田一君がノートのあいだから取り出したのは、焦げた五枚の日記の断片だった。 「この中の一、……浜へおりて行く途中、いつものところを通ったら、今日もお冬さんが琴を弾いていた。私はちかごろあの琴の音をきくと切なくて耐ま……、これと第三の……はお冬さんの葬式だ。淋しい日、悲しい日、島は今日も小雨が降っている。お葬式についていったら……と、それからもう一枚、第五の……島を去るまえに私はもう一度お冬さんのお墓に参った。野菊を供えてお墓のまえに|額《ぬか》ずいていると、どこからか琴の音が聞こえて来るような気がした。私は率然として……と、以上の三枚は、ペンの工合といい、インキの色といい、また文章のなかに出て来るお冬さんという名前から見ても、明らかに同じときに書かれたものです。ところが、第二の……あいつだ、あいつだ。私はあの男を憎む。……私は生涯あの男を憎む。……これと第四の、……私はよっぽどあいつに決闘を申し込もうかと思った。この譬えようもない憤激。淋しく死んでいったあの人のことを思うと、私はその男を八つ裂きにしてやっても飽き足らぬ。私はあの男を生涯の仇敵として、憎む、憎む、憎む……と、この二枚はまえの三枚とペンもちがえばインキもちがっている。ところで、一、三、五の三枚、これを書いたときは旅行中なんですから、そう幾本も万年筆を用意していたとは思えない。だから二と四とは、全然ちがったときに書かれたものにちがいないんです。それに書体などから見て、この二と四とは、ほかの奴より前に書かれたのじゃないかと思われる。つまり、賢蔵氏がまだ大学にいられた頃のことじゃないかと思うんですが、隆二さん、それについて、あなたにはほんとうに何もお心当たりはないのですか。学校にはいる時分、何かそのような事件があった事を、あなたはほんとうにご存じじゃないのですか」  隆二さんはそれを聞くと、はっとしたように、金田一君の顔を少し仰いだが、やがて面目なげに首をうなだれると、ためらい勝ちながらも、こんな話をしたのである。 「この事については、私もたいへん不思議に思っていたんです。そうです。学校にいるころ、ある事件があって、兄は同僚のひとりを非常に怨み、かつ憎んでいた事があるんです。その人はもと兄の親友でした。ところが恩師の令嬢に関する恋愛事件で、兄はまんまとその親友に裏切られた、背負投げをくわされた……と、兄はそう信じていたのです。その結果、兄は非常に不面目な立場におかれて、学校を止さなければならなくなったばかりか、相手の令嬢もそれがもとで病死されたのです。この事件の真相は私にもよくわかりませんが、兄はもういちずにそれを、親友の策謀であるとばかり信じていたようです。そして、ああいう激し易い性質の人ですから、相手の人物に対して、怨み骨髄に徹していたようです。だから、今度の事件で、『生涯の仇敵』という言葉を兄が使っているのを知ると、すぐ、その人の事を思い出したんですが、しかし、だんだんきくと、生涯の仇敵というのは、兄が島で出会った男であるという事になっています。それじゃ、あの人とちがうのかなと思ったのと、もう一つは、その相手というのが、名前をいえばあなたがたも、すぐ、ははあ、あの人かとお気づきになるほど、偉い学者になっているので、まさかあの人が……と、思ったものですから、いままで黙っていたのです」 「なるほど、それで、あなたはその人にお会いになったことはないのですか」 「ありません。写真はちょくちょく見ますが、それも近頃のことですから、あのアルバムに貼ってあった写真が、その人の若い頃のものかどうか、私にもわからなかったのです」 「いや、それでよくわかりました。三郎君はこの事件と、その後賢蔵氏が島で経験したエピソードの二つをたくみにモンタージュして、それへ三本指の男の写真を織りこみ、ここに一つ架空の事件と人物を創作したんですね。うまいもんですな。ははははは、島のエピソードが選ばれたのはそこに琴が出ているからでしょう。賢蔵さんはああいう人だから、自分の日記を決してひとに見せるようなことはなかったでしょう。しかし、三郎君のような人にかかってはかなわない。三郎君は面白がって、兄さんの秘密をすっかり覗いていたんです。そしてどこにどんなことが書かれているか、どれとどれをアレンジすれば、この事件に関係があるらしく見えるか、そんなことをすぐ思いつくほど、彼氏はよい頭脳を持っているんです。だから私は思うんですが、三郎君がいったん、この計画に参加してからというものは万事はその方寸から出て、賢蔵氏はただ命それに従う人形に過ぎなかったんでしょう。何しろ三郎君は面白半分に、探偵小説的|蘊《うん》|蓄《ちく》を傾けるんですから|叶《かな》いませんや」  金田一君のそういう話をきいていても、私は少しも不自然には思わなかった。この一柳家では、隆二さん一人がまずふつうの人間である以外に、誰も彼もいっぷう変わっていることを、私もよく知っていたからである。 「さて、そういうふうに万事手筈が終わった後に、死体の手頸を切り落とし、それから二人で炭焼きがまの中に埋めたんです。それは二十五日の夜明け前のことになります。さてその日の夕方、即ち式のはじまる直前に、三本指の男がまた台所へ出現したということになりますが、これはむろん賢蔵氏自身だったんでしょう。アルバムや日記にああいう細工をしておいても、それがそのまま見落とされては、なんにもならない。それで警部さんの注意をそのほうへ持っていくためと、もう一つには三本指の男がその頃まで生きていたことを示すためにああいうことをやったのだろうと思う。さて、台所であの紙片を渡すと、賢蔵氏は西側の道から裏の崖へまわり、そこから滑りおりて、離家へはいって着替えをして待っている。そこへお秋さんが来てあの紙片を渡す。賢蔵氏はそれをズタズタに引きさいて袂へねじ込み、はなれを出ていったが、その時、雨戸をしめておいてくれるようにお秋さんに頼んでいった。ところがお秋さんが母屋へかえったときには、賢蔵氏の姿がどこにも見えなかったというが、見えないのも道理、賢蔵氏はまだこの離家にいて、足跡をつけたり、自分の血をとってそこの柱や雨戸の裏に三本指の指紋をつけたり、それから証拠の鞄や洋服を、炭焼きがまの煙突のなかへ突っこみにいったり、更に大体用意してあった琴糸を、欄間のところまで引いて来たのもその時だったでしょう」  ふいに警部が大きく眼を瞠った。 「金田一さん、それじゃあの三本指の指紋は|宵《よい》からあそこにあったんですか」 「そうですよ、そのとき以外にあの指紋をつける時間はありませんからね。そしてこのことが、私に事件の真相を気づかせた第一の段階なんです。何故といって、三本指の血の指跡は、ほかにも残っていましたが、見易いところ、即ち屏風にのこっていた血の指紋は琴爪をはめていた。それに反してはっきり指紋の残る指跡は、みんな非常に発見しにくいところに残っている。これに何か意味があるのではないか。そう考えた私はそこに二つの意味を考えたのです。この指紋は二か所とも非常におくれて発見されているが、犯人はそれを計算に入れていたのではないか。即ち、あまり早く発見されては、犯人にとって都合が悪いことがあるのではないか。発見されてもかまわないが、早く発見されては都合が悪い。それはつぎのような理由が考えられる。即ち、血の乾きぐあいや変色の状態、これがほかの血の跡とちがっていること、そうです。そういう場合、発見がおくれればおくれるほど、その間の相違はわからなくなりますからね。犯人はそれを望んでいたのではないか。それが第一ですが、第二としては、そういう場所に指紋が残っていたのでは、たとえ床盃の場合、すでにそこにあったとしても誰も気づくものはなかったろう、と、これが第二です。しかし、それよりも前に、誰でも一応は考えたでしょうが、犯行の場合、琴爪をはめるほど用心深い犯人が、あちこちに血にそまった指紋をのこすというのは、どう考えても変ですからね。だから、この指紋は故意に、おされたものであり、そしてその時刻は、犯行よりずっと前であったろうと考えたのです」 「ううん」  警部が鼻を鳴らしてまた唸った。金田一君はにこにこしながら、 「さて、こうして舞台ごしらえが出来ると、賢蔵さんはあの手頸をもって、母屋のほうへかえっていかれた。ここで疑問が起こるのですが、賢蔵さんはその前夜、鞄や洋服を炭焼きがまへ突っこみにいかれたのだから、その際どうしてこの手頸を始末してしまわなかったのだろう。……これはやはり三郎君の指令であったとしか思えませんね。三郎君にはこの事件が面白くて仕方がなかった。自分もあとでこの手頸を利用して一芝居うちたいという誘惑にうちかてなかった。それで兄さんに頼んで手のとどくところへそれを隠しておくようにしてもらったのでしょう。といって、まさか自分で預かっとくわけにはいかない。事件が発見されたあとで、家探しされることは覚悟していなければならなかったでしょうからねえ。そこで猫の棺桶が利用されたんですが、それが犯行の直後に、鈴子さんによって埋められたのですから、予想以上にうまい隠し場所になったわけですよ」 「そうしておいて書斎へ入って、日記の始末をしたんですね」 「そうです。そうです。その日記はあらかじめ三郎君がアレンジしておいたのでしょう。ここで注意しなければならないのは、そうして日記の始末をするくらいなら、賢蔵さんは当然袂のなかにある紙片も始末すべき筈でしょう。それを焼きもせず、しかも一片もなくさないで、袂の中にちゃんと入れていた……賢蔵さんほどの人にしてそれに気づかぬ筈はないから、あの手紙はわざと残しておいたと見るよりほかはないでしょう? さて、それから間もなく式がはじまったのですが、その席でも、注意すべき事柄が二つあります。その一つは、あの琴を離家へ持って来るようにしたこと。幸いそのことは村長さんが言い出してくれたんですが誰も切り出さなかったら、賢蔵氏が言い出すつもりだったのでしょう。その証拠に、克子さんに向かって、あの琴はおまえが貰っておおきというような事をいっている。それからもう一つは、三郎君に川——村のおじさんを送っていくように命令していることです。これは三郎君にアリバイを作らせるためだったのですよ。ところで、私は隆二さんに一つお訊ねがあるんですがね」  隆二さんはちょっと眉をあげて金田一君の顔を見た。 「このことはさっきも警部さんから訊いてもらった筈なんですが、あなたは二十五日の夕方すでにこちらへ来ていられた。それだのに何故式に列席なさらなかったのです。そしてまた翌日になって、何故いま着いたばかりというような嘘をつかれたのです」  隆二さんはそれをきくと、愁然と首をたれた。 「そのことなら、いまの三郎に関するあなたのお話で、私にもはじめてはっきりと兄の真意がわかりました。兄は私に、決して今度の式にかえって来てはならぬと、厳重にいって来たんです。おそらく兄は、私につまらぬ疑いがかかってはならぬと、アリバイをつくってくれたのでしょうが、私にはその真意をはかりかねた。しかもその手紙にある、なんともいえない強い語気が、私を不安にさせたので、私はかえって来ずにはいられなかったんです。そこで学会を一日早く切り上げて、川——村まで様子をききに来たんですが、式にはやはり出ないほうがいいだろうと思ってひきかえしました。ところが翌日になってあの騒ぎですから、おじさんや三郎とも打ち合わせて、その朝着いたということにしてしまったのです」 「兄さんはあなたを愛していたんですね」 「いや、兄が私を愛していたというよりも、私だけが兄を理解していたのです」 「わかりました。兄さんはあなたに疑いがかかることを懼れたというよりも、あなたに真相を看破されることを懼れたのではありませんか」  隆二さんはうなずいて、 「そうかも知れません。あの朝、話をきいたとたん、私は兄のやったことなのだ、と直感したくらいですから。何故——そしてどういう方法でやったのか、それは私にもわからなかったが……」 「いや、有難うございました。これであなたのことは片づきました。さて、これからいよいよ犯行の場面ですが、その前に床盃が終わったとき、賢蔵さんは琴柱の一つをお母さんの袂にそっと忍ばせておいたのです。この事は、警部さんの話をきいたとき、すぐ私はそれに気づいたのですよ。何故といって、あの落ち葉溜めから発見された琴柱には、三本指の指紋以外には誰の指紋もついていなかったということでしたね。もしその琴柱があの晩琴についていたものとしたら、それは明らかに不合理なことなんです。この琴はその晩鈴子さんと克子さんとによって弾かれている。そして琴を弾く場合には誰でも一度調子をあわせるものですが、それには左手で琴柱の位置を調節するでしょう? だから、この琴から持ち去られたものとしたら、当然、そこに鈴子さんや克子さんの指紋が、残っていなければならぬ筈なんです。まさか犯人が、他人の指紋を綺麗にぬぐって、自分の指紋だけをつけておくなんて考えられませんからねえ。だから、あの琴柱はその晩ここでひかれた琴についていたものではない。そしてあの血にそまった指紋は故意にそこに残されたものである。と、私はそういうふうに考えたのです」  銀造氏はマドロスパイプを|咥《くわ》えたままおだやかにうなずいた。警部はいくらか面目なげに頭を掻いていた。隆二さんはまた首をうなだれてしまった。 「賢蔵さんがお母さんの袂にしのばせた琴柱は、私がそこから発見しましたよ。これは多分、三郎君があとで始末をする筈だったのでしょうが、打ち合わせが不十分だったのか、それとも混雑にとりまぎれて三郎君が忘れたのか、今日までそこにあったのです。さて、これで準備は全部出来上がったわけです。そしてあとはいよいよ悲劇の瞬間ですが……」  金田一君もさすがに顔をくもらせた。私たちも思わず息をのんだ。 「恐ろしいことですね。それが計画に計画されたものだけにいっそう恐ろしい気がしますね。賢蔵氏はあの水車が回転しはじめるまで、じっと寝床のなかで待っていたんです。そしてその音がきこえはじめた瞬間むっくり起き上がると、便所へいくふりをして、押し入れのなかから抜き身をさげて来る。克子さんをズタズタに斬り殺す。琴爪をはめて琴をひく、屏風に血にそまった琴爪の跡をのこす。この琴爪の跡をのこしたということは、私にもちょっと、愉快なんですよ。それは賢蔵氏自身の指紋を、かくすためというよりも、むしろ、あの人の、几帳面さを現わしているんじゃないかと思う。すでにして琴糸と琴柱を使った。あに琴爪を使わざるべけんや、そういう気持ちじゃなかったでしょうかねえ。さて、それから琴爪を手洗い場へ捨て、そのついでに、欄間のところまで引いてあった琴糸をひっぱって来て、そこでいま私が実験してお眼にかけたような方法で自殺した。そして首尾よくここに奇怪な本陣殺人事件が出来上がったわけですよ」  一同はシーンと黙りこんでいた。寒さが急に身にしみて私は思わず|身《み》|顫《ぶる》いした。するとほかの人たちも、それが感染したのか、いちように肩をすぼめて体を顫わせた。だがその時、隆二さんがふとこんなことをいったのである。 「だが、兄はなぜ雨戸をあけておかなかったのだろう。そとから犯人が入ったと思わせるには、その方がしぜんだったろうに」  隆二さんのその呟きをきいたとたんである。金田一君が実に、実に猛烈にもじゃもじゃ頭をかきまわしたのは。——そしてまた恐ろしく吃りながら、こんなことをいったのである。 「そ、そ、そ、それですよ。わ、わ、わ、私がいちばんこの事件に興味をかんじているのは……」  それからあわてて冷え切った茶をのむと、いくらか落ち着いた口調になり、 「賢蔵さんもむろん、そのつもりだったんですよ。ところが思いがけない事態が起こって、賢蔵氏の計画が無茶苦茶になってしまったんです。思いがけない事態というのは、ほかでもない、あの雪ですよ。ねえ、おわかりですか、あの人は、玄関につけたと同じ靴跡を、西側の庭にもつけておいたんです。そこから犯人が逃げたと思わせるように。ところが雪がすっかりその靴跡を埋めてしまった。では、改めて靴跡をつけようか。いや、それは不可能です。なぜって、あのボロ靴は御用ずみとばかりに、炭焼きがまの煙突のなかへ突っ込んでしまったのですからね。すでにして雪の上に足跡なし、雨戸をあけておいたところで、それなんの意味をなさんや。ええいっ、いっそ密室の殺人にしてしまえ——と、思ったかどうかわかりませんが、それが、雨戸をあけておかなかった原因だろうと思うのです。つまりこれは犯人が計画した密室の殺人ではなく、犯人にとってはまことに不本意ながら、密室の殺人にせざるを得なかった事件なのです」     曼珠沙華  以上がF医師の手記である。覚え書きにはこの後に三郎のことが書いてあるが、そのことについては私はほかにも聞いたことがあるから、それを参照してここに簡単に記しておこう。  あの破傷風から回復したとき、三郎は警部からきびしく追究されて、なにもかも一切告白したが、それはだいたい金田一耕助が想像したとおり、かれが兄の計画に参加するにいたったのは、やはり、あの実験を見つけたからであった。それについて三郎はつぎのように語ったということである。 「その時の兄さんの恐ろしい権幕を、私はいまでも忘れることが出来ません。あの晩私は、離家にあかりのついているのに気がついて、こっそり忍んでいったのです。それというのが、その二、三日、妙に兄さんの素振りが落ち着かなかった。何かしら、ぼんやりと考えこんでいたり、詰らないことにも、ぎくりとして飛びあがったり……殊にその日の午過ぎ、散髪屋からかえって来た私が、三本指の男の話をした時の、兄さんの顔色ったらなかったのです。それが胸にあったものですから、離家に明かりがついているのを見ると、私は、むらむらと好奇心を起こして、こっそり様子を見にいったのです。むろん、あの枝折り戸は厳重に内側から閂がおりていましたが、私は垣を乗りこえて、なかへ入っていったのです。そして、西側の雨戸のすきから、座敷のなかを、覗こうとしたんですが、そのとたん、欄間からぶらりと日本刀の抜き身がとびだして来たのですから、そのときの私の驚き。——ご想像下さい」  三郎は更に語をついで、 「私はあやうく声を立てるところでした。それを辛うじておさえることの出来たのは、みずからおさえたのではなくて、あまりの驚きに、声も出なかったらしいのです。私はあっけにとられて、宙にぶら下がっている抜き身を見ていました。すると間もなく、あのピンピンピンブルンブルンという音がしたかと思うと、抜き身がばっさり、石燈籠のそばに落ちたのです。ところが、そのとたん、雨戸がひらいて、兄さんが顔を出したのですが、私はあまり驚いていたために、かくれる才覚さえ出なかったんです。ぼんやり立っているところを、兄に見つけられたんですが、その時の兄さんの恐ろしい|形相《ぎょうそう》。——私はいまでも忘れることが出来ません。兄さんは|襟《えり》|髪《がみ》とって、私の体を離家の八畳にひきずりこみましたが、見るとそこには、あの三本指の男の死体がころがっています。しかも、胸に恐ろしい傷を受けて——」  さすがの三郎も、その時の恐ろしい光景を思い出すと、身顫いを禁じ得なかったそうである。 「私はてっきり、兄さんは発狂したんだ。そして自分もそこにいる男と同じように、殺されるのだと思いました。兄さんは私の体をねじふせたまま、しばらく昂奮のため、口も利けませんでしたが、やがて昂奮がおさまると、まるで空気の抜けた風船みたいに、しょんぼりしてしまいました。まったく兄さんがあんなにしょげ返ったのを見たのは私もはじめてでした。兄さんという人は、元来気の小さい、女のような物事をくよくよと気にする性質なんですが、ふだんそれを押しつつんで、いつも冷酷なくらい|傲《ごう》|岸《がん》にかまえている人なんです。それが見栄も外聞もなくしょげかえってしまったのですから、私は気の毒のようでもあり、痛快なような気もしたものです。兄さんはやがて、やっと気を取りなおすと、はじめて自分の計画の一半を打ち明け、この事を誰にもいってくれるなと、泣くようにして頼みました。ここで計画の一半と申し上げたのは、そのとき、兄さんは克子さんの事には少しもふれないで、唯、自分は自殺するつもりだが、誰にも自殺だと思われたくないのだといったのです。私はむろん、すぐいやだときっぱり断わりました。すると兄さんはなぜいやなのかとききました」  賢蔵のこの質問に対する三郎の答えこそ、ふるっているのである。それこそ探偵小説マニヤ三郎の面目|躍《やく》|如《じょ》たるものがあった。三郎はこう答えたというのである。 「そこで私はこういったのです。殺人事件の起こった場合、まず第一に疑われるのは、被害者の死によって、いちばん利益を受けるものである。この場合では隆二兄さんだが、隆二兄さんはいまこの家にいないから、嫌疑者からオミットされる。そうなると疑いは自分にかかって来るにちがいない。……私はそういったのです。すると兄さんが、なぜ、なぜお前が疑われるのだ。おれが死んだって、お前は少しも利益は受けないじゃないか。この財産はみんな隆二のものになるんだぜ。と、いいました。そこで私がいったんです。そんなことはありません。兄さんが死ぬと、私は五万円の保険金が受け取れる。……」  三郎がこういったときの、賢蔵の顔こそ、見物だったろう。かれはまるで、不思議な動物でも見るような眼つきをして、三郎の顔を視つめていたそうだが、やがて物凄い笑いかたをすると、こんな事をいったということである。 「三郎、お前は利口な奴だ。なかなか頭脳がいい。よし、それならば勝手にしゃべれ。兄さんは自殺したんだといいふらせ。その代わり三郎、お前は保険金を受け取れないぜ。被害者が自殺をした場合には、保険金は支払われないことになっているんだから。三郎、それでもよいか。五万円をふいにしても、三郎、おまえは惜しいとは思わないか……」  弟が弟なら兄も兄であった。一柳家の人たちは、みんな異常なところがあったが、わけても三郎は、いちばん風変わりな性質だったらしい。かれは兄のその一言で、すっかりジレンマにおちいったのであった。そこで、自分に疑いのかからぬように、アリバイをつくることを兄に約束させると、さて、それから後は大乗り気で、得意の探偵小説的うんちくを傾けて、この計画に参画したのである。  私が思うのに、三郎がかくも熱心に、兄の計画を助けたのは、むろん五万円の問題もあったろうが、もうひとつは、うまれてはじめて獲得した、兄に対する優越感が、面白くてたまらなかったからでもあろう。金田一耕助の指摘しているとおり、いよいよ三郎が参加して、探偵小説のうんちくを傾けはじめてからというものは、兄弟の地位はすっかり顛倒してしまったそうである。賢蔵は唯々諾々として三郎の命令のまま動いた。三郎がつぎからつぎへと思いつく、奇妙なトリックに対しても、苦笑いをしながらも、唯命これ従う、という有様だったそうである。三郎にはそれが得意で、面白くて耐まらなかったのにちがいない。  三本指の男の持っていた写真から、あのアルバムのトリックや、それからひいては日記の細工を思いついたのは、みな三郎であった。また、死人の手頸を斬り落としておいて、その指紋を利用しようと考えたのもかれだった。但し、三本指の男を犯人に仕立てようという考えは、賢蔵も持っていたそうである。しかし、賢蔵にはそれをどうすればよいか、よく分からなかった。かれはただ、三本指の男の死体を、人知れずかくしてしまったら、そいつに疑いがかかりはしないか……と、それぐらいの知恵しかうかばなかった。そこを三郎が修飾し、補筆して、まんまとあの大芝居に完成したのである。  世の中にはこういう才人——三郎もたしかに一種の才人にはちがいない——が、ままあるものである。自ら主役となって筋はかけないが、他人のかいたあら筋を修飾し、補筆し、助言して、面白いものに完成する。そういうことに、不思議に妙を得た人物があるものだが、三郎もそれだったのであろう。  しかし、この事件における三郎は、修飾者だけではおさまらなかった。おそらく、あまり得意になりすぎたかれは、自分も主役が演じたくてたまらなかったのだろう。そのことは、つぎのようなかれの言でもわかるのである。 「あの手頸は、もし誰かひとりでも、自殺と疑うような者があった場合に利用するつもりで、猫の死体といっしょに埋めることにしたんです。私はそれを、事件のあったつぎの晩、ひそかに掘り出しておきました。その時鈴子が夢遊病を起こして、ふらふらやって来たので、三本指を見せておどかしておいたのです。しかし、その時には、私もまさか、あんなふうに利用しようとは、夢にも思っていませんでした。私に、あんなことを思いつかせたのは、あの小生意気な、金田一耕助という男なんです。あいつがもう少し|鹿《しか》|爪《つめ》らしい、堂々とした探偵だったら、私もあんな真似はしなかったでしょう。ところが、あいつときたら、年頃からいっても、私とあまりちがわないし、しかも、風采のあがらぬ、貧弱な男でいながら、いやに名探偵ぶっているのが、私には|癪《しゃく》にさわってたまらなかったんです。そこへもって来てあいつは、密室の殺人でも、機械的トリックは面白くないなどと、私に挑戦して来た。いまから思えばあの男の手だったんですが、私はつい、うっかり、その手に乗ってしまったんです。よし、それならひとつ、このトリックを看破してみろ……そういう気持ちで、私はもう一度、密室の殺人をやってみせようとしたんです。そこで、前の晩掘り出しておいた手頸で、屏風に血の指紋をつけると、その手頸はまた、猫の墓のなかにかくしておき、そのあとで、ああいう芝居をしてみせたのです。もちろん、こんな深い傷をうけるつもりはなかった。ほんのちょっぴり、かすり傷をうけておくつもりだったんです。私は兄がやったとおりにして、あとは日本刀を屏風にぐさりと差しこんでおき、そこへ自分から背中を持っていったんですが、もののはずみで、こんな深傷になってしまったんです。あの樟の木をしらべて下されば、鎌のかわりに、私がとりつけておいた|剃《かみ》|刀《そり》が見つかる筈です」  要するに三郎という男は、性格破綻者だったにちがいない。死という厳粛な事実でさえも、かれにとっては一種の遊戯だったにちがいない。三郎はあくまでも、兄が克子を殺すつもりでいたことは知らなかった、と言い張ったそうだ。これはかれの言うとおりかも知れない。しかし、それを知っていたとしても、かれがやっぱり同じことをやらなかったとは誰がいえよう。  三郎はもちろん起訴されたが、まだ判決が下らないうちに、事変がしだいに深刻化して来たので、法廷から応召して、漢口で戦死したということである。可憐な鈴子もその翌年死んだ。この少女は死んだほうが、幸福だったかも知れない。良介は去年広島へ旅行していて、そこで原子爆弾のために死んだということだが、父の|終焉《しゅうえん》の地で、その子が同じ戦争のために命をおとすというのも、何かの因縁でしょうと、村の故老はいっている。  隆二は戦争中、最後まで大阪に頑張っていて、一家誰も疎開して来なかった。昔から村の生活を好まなかったかれは、あの事件以来、いよいよ、古風な本陣の生活に、愛想をつかしたらしいということである。そしてあの広い一柳家には、いま、隠居の糸子刀自が、ちかごろ|上海《シャンハイ》から着のみ着のままでかえって来た、長女妙子の一家や、新家の秋子とその子供たちと一緒に住んでいるということだが、とかく揉めることが多くて、家の中には風波が絶えないらしいとは、村の人たちの噂である。  これで私は本陣殺人事件の|顛《てん》|末《まつ》を、残らず書いてしまったつもりである。私はこの記録で、故意に読者を|瞞着《まんちゃく》するようなことは、一度もやらなかったつもりである。水車があの位置にあることは、ずっとはじめに言っておいた。また、この記録の冒頭で、私はつぎのようなことを書いている。してみれば、私はあの恐ろしい方法で、二人の男女を斬り刻んだ[#「二人の男女を斬り刻んだ」に傍点]凶悪無慚な犯人に対して、絶大な感謝を捧げなければならないかも知れないと。この時いった二人の男女とはむろん清水京吉と克子のことであり、克子は殺されたのだけれど京吉の方は殺されたのではなかったから、私はわざと二人の男女を殺した[#「二人の男女を殺した」に傍点]とは書かなかったのである。二人の男女を賢蔵と克子であると思われたとすれば、それは諸君の早合点というものである。また、同じ章で、現場のことを書いたところで、そこに男女二人が血みどろで斃れて[#「斃れて」に傍点]いた光景は云々と書いたが、血みどろで殺されて[#「殺されて」に傍点]いたとは書かなかった。賢蔵は殺されたのではなかったから。探偵作家というものは、こういう物の書き方をするものであるということを、私はアガサ・クリスチー女史の「ロージャー・アクロイド殺し」から学んだのである。  さて、この稿を閉ずるにあたって、私はもう一度、あの一柳家を見にいった。  私がこのまえ見にいったときは、まだ早春の肌寒いころで、田圃の|畦《あぜ》には、まだつくしの頭ものぞいていなかったのに、いまはもう、見渡すかぎり、黄金の波打つ、みのり豊かな秋である。私はまた、こわれた水車のそばを通って一柳家の北をくぎっている崖にはいあがり、藪のなかにわけいった。そして南を向いて一柳家を見る。人の話によると、今度の財産税と農地改革とで、さしもの一柳家も、没落の運命を避けることは出来ないであろうということである。それかあらぬか、本陣の面影をそのままにうつしたといわれる、あの大きな、どっしりとした母屋の建物と、|頽《たい》|廃《はい》のかげが濃いように思われてならなかった。  私はふと眼を転じて、鈴子が愛猫を埋めたという、屋敷の隅を眺めたが、するとそこには、ひがん花とよばれる、あの|曼《まん》|珠《じゅ》|沙《しゃ》|華《げ》の赤黒い花が、いちめんに咲いているのであった。ちょうど可憐な鈴子の血をなすったように。……    車井戸はなぜ軋る     本位田一家に関する覚え書 [#地から4字上げ]付、本位田大助・秋月伍一生き写しのこと  |本《ほん》|位《い》|田《でん》|家《け》の墓地は、K村をいだく丘の中腹にある。  黒木の|柵《さく》にとりかこまれた百坪ばかりの墓域は、いつも|塵《ちり》ひとつとどめぬまでに掃ききよめられ、そこに本位田家累代の墓が整然としてならんでいる。妙なたとえだが、私はいつも、人を威圧するようなこの墓の一群を見ると、格式ばった本位田家の一族が、|麻裃《あさがみしも》をつけ、かしこまっているように思われてならぬ。まことにこれらの、墓のあるじたちは、このたび起こった子孫の不始末について、にがにがしげに評議していることだろう。そう思ってみるせいか、一番末席につらなる墓の、なんとなく恐縮しているように見えるのは、自分の気持のせいだろうか。  思えば慈雲院賢哲義達|居《こ》|士《じ》、俗名本位田大三郎、昭和八年三月二十日亡と刻まれた、この墓のぬし大三郎こそは、二十数年の昔において、こんどの事件の種をまいた当人なのだ。私はいま図らずも手に入れた、この恐ろしい事件のてんまつを語る|一《いち》|聯《れん》の文章を発表するにあたって、事件の遠因となった本位田大三郎、ならびに本位田家の地位というものについて、いささか筆をついやしてみようと思う。  由来、本位田家は小野、秋月の両家とともに、K村の|三名《さんみょう》といわれ、旧幕時代年番で名主をつとめた家柄である。しかも、時代がかわって名主の職をうしなって以来、小野、秋月の両家がしだいに微禄していったにもかかわらず、本位田家のみは昔のとおり、いや、昔以上にさかえたという。それはいろいろ理由もあるが、要するに、他の両家に人物がいなかったに反して、本位田家には代々傑物が現われたせいであろう。  とりわけ維新当時のあるじ弥助というのが|辣《らつ》|腕《わん》|家《か》で、伝説によるとこの人は、当時のドサクサにまぎれて、旧藩主の領地の少なからぬ部分を、払い下げの名目で、自家の名義に書きかえたという。  そのあとをついだ庄次郎という人は地味で手堅い一方の人物だったが、それだけに貨殖のみちにたけていたらしく、目のとび出るような高利の金を貸しつけ、少しでも返済の期日がおくれると、情け容赦なく、家でも田地でも山林でもとりあげた。  一説によると、小野、秋月の両家が衰微したのは、代々の主人が無能だったせいもあるが、さらにそれに拍車をかけたのは、庄次郎の高利の金にいためつけられたからで、大正初年に大三郎が家をついだころには、両家の田地も、あらかた本位田家の名義になっていたのみならず、両家に伝わる家宝|什器《じゅうき》も、おおむね本位田家の土蔵におさまっていたという。  大正三年庄次郎が死んで家督をついだとき、大三郎は二十八歳、妻はあったが子はなかった。本位田家も弥助を中興の祖とすれば、もう三代になっている。大三郎はいかにも三代目らしい、|鷹《おう》|揚《よう》で|寛《かん》|闊《かつ》な旦那になっていた。かれは|賑《にぎや》かなことが好きで、よく遊び、旅廻りの芸人などに、|贔《ひい》|屓《き》が多かったが、父祖の血はあらそえぬと見えて、そのため家産をへらすような、馬鹿な真似はしなかった。つまり派手な性格のうちにも、チャッカリしたところを持っていたのである。  そのころ小野家はすっかり微禄して、一家ひきはらって神戸のほうへうつっていたが、秋月のほうはそれでも、辛うじて面目をたもっていた。  当時の秋月の主人は善太郎といって、大三郎より七つ年上だったが、いかにも没落名家の|末《まつ》|裔《えい》らしく、生活に関してはまったく無能力者だった。かれは草人と号して歌をよみ、へたな文人画をかき、よく|半《はん》|切《せつ》だの|短《たん》|冊《ざく》だのをかいて、大三郎のところへ持ちこんだ。そして大三郎が快くそれを買ってやると、重い口でへたなお|追従《ついしょう》をならべたが、そんなとき家へかえると、うってかわって機嫌が悪く、大三郎を口ぎたなく|罵《ののし》り、妻のお柳にあたりちらした。お柳はそれを浅間しいと思う。  お柳はおとなしいもの静かな女で、|縹緻《きりょう》も悪くなく、村の娘をあつめてお裁縫をおしえたり、お茶やお花の師匠をしたり、秋月の旦那には過ぎたものだという評判だった。善太郎はそれを憎んだ。  妻は自分に満足していない。——自分を|軽《けい》|蔑《べつ》している。  そう考えると、善太郎の残忍な血がたぎりたち、なんでもないことに妻を|打擲《ちょうちゃく》し、どうかすると髪の毛をとって、ひきずりまわしたりすることがあった。そんなときお柳は、外聞をはばかって高い声さえ立てなかった。善太郎はそれをしぶといといい、ふてくされていると罵った。  夫婦の間には、おりんという女の子がひとりある。縮れっ毛の、|愛嬌《あいきょう》にとぼしい、陰気な子供であった。  大正六年、おりんが六つの年に、善太郎は中風で倒れて半身不随になってしまった。それまでは微禄しながらも、なんとなく面目をたもって来た一家の生計は、こうなると長年の無理がたたって火の車になった。病人をかかえて、お柳は身も心もやせ細った。  見るに見かねて大三郎が、ちょくちょく見舞いに来るようになり、来るとかならずいくばくかの金を包んでいく。大三郎が来ると善太郎は大喜びで、歯の浮くようなお追従をならべたが、大三郎がかえっていくと、|掌《てのひら》をかえしたように罵った。それでいて大三郎のおいていった金をかえせとはいわなかった。  善太郎が中風でたおれた翌年、|即《すなわ》ち大正七年に、大三郎の妻とお柳が、ほとんど同時にみごもった。そして翌年の春、ほとんど同時に男子を出生した。うまれたのは秋月家のほうがひとつきほど早かったが、善太郎はその子がうまれた七日目の夜、不自由なからだで寝床を|這《は》い出し、車井戸に身を投じて死んだ。  お柳がうんだ赤ん坊を見たものなら、なぜ善太郎が身投げしたかすぐうなずけた|筈《はず》である。その赤ん坊は両眼とも|瞳《どう》|孔《こう》が|二《ふた》|重《え》になっていた。ところで本位田大三郎も、この珍しい二重瞳孔の持ち主なのである。大三郎がうまれたとき当時まだ生きていた祖父の弥助が、大喜びでこんなことをいったという。 「この子は|瞳《ひとみ》が二重になっている。将来かならず本位田家の家名を、天下にあげるやつじゃ。大事にそだてなければならぬ」  若くして本位田家をついだ大三郎が、わがままいっぱいにふるまいながら、ひとに乗じられることもなく、立派にやっていけたのは、身にそなわった器量にもよるが、ひとつはこの伝説からくる威圧が、かれを一種特別な存在として奉っていたからである。  このことと、善太郎が中風で倒れていらい、夫婦の交わりもなかったであろうことを思いあわせれば、お柳のうんだ子が大三郎のたねであろうことは明らかであり、善太郎がこのあまりにも|明瞭《めいりょう》な、不義のあかしを見せつけられて、憤死したのは無理もないといわれた。  |田舎《い な か》ではこういう問題はかなりルーズにあつかわれる。ことに男の場合は、不問に付される場合が多いのだが、さすがに女のほうには風当たりが強かった。ことに|良人《お っ と》がそのために憤死したとあっては、お柳に対する非難は大きかった。お柳はそういう|嵐《あらし》のなかを、じっと|怺《こら》えて一年いきた。そして伍一(それがお柳のうんだ子供の名前である)が乳ばなれするのを待って、当時八つになっていたおりんとともに遠縁の老女にたくし、おのれは良人の一周忌の晩に、おなじ車井戸に身を投じて死んだ。書置きはなかったが、罪の清算をしたのであろうといわれている。  大三郎の妻のうんだ子は、大助と命名された。五つ六つになると大助と伍一が兄弟であることは、誰の眼にもハッキリとわかった。母を異にしながら、それほど二人はよく似ていた。ただ伍一が二重瞳孔を持っているのに大助にはそれがないという相違はあったけれど。だから二人がいちばんよく似ていた小学校の五、六年ごろには、ふたりを見分けるには眼を見るよりほかなかったという。  しかし、その期間をすぎると、二人の相似もしだいにうすれていき、二十を過ぎるころにはもうそれほど似ているとは思えなくなった。それはたぶん境遇と環境のせいだろう。小学校を出ると大助は、中学から大阪の専門学校へすすんだが、本位田家の嫡男として鷹揚にそだったかれは、肉付きもゆたかに色も白く魅力にとんだ青年になっていた。  それに反して幼いころから、姉のおりんとともに、|鋤《すき》|鍬《くわ》とって働かねばならなかった伍一は、|痩《や》せて骨ばって色も黒く、性質もとげとげしていた。  田舎のひとは口につつしみがなく、他人のスキャンダルを|肴《さかな》にして楽しむくせがあるから、伍一も早くから自分の出生にからまる秘密を知っていた。そしてそのことがしだいにかれの性質をけわしいものにしていったのである。  同じ父の子でありながら大助が何不自由なく幸福にしているのに、自分はなぜこのように貧乏で不幸であらねばならないのか。——そう考えると伍一の|腸《はらわた》は、不平と不満と憤りとでよじれるようにいたんだ。出生の月日からいえば、自分のほうが大助よりひと月、早かったということである。してみれば自分こそ本位田家の長男として全財産を要求してもよい筈ではないか。それにも|拘《かかわ》らず自分はなぜ、|路《ろ》|傍《ぼう》の石ころのように見捨てられなければならないのか。大助が愉快に学生生活を楽しんでいるのに、自分はなぜ、汗にまみれ、血豆だらけになって働かねばならないのか。  伍一のそういう救いがたい不平や|怨《えん》|恨《こん》に、はたから油をそそぐのはおりんであった。物心つく時分からおりんは、いやというほど父の善太郎から、本位田家に対する|呪《のろ》いの言葉を吹きこまれている。おりんは父からうけたこの呪いを|刺《ほり》|青《もの》|師《し》が針でさすように、伍一の皮肉に植えつけようと試みた。本位田家に対する|復讐《ふくしゅう》、大三郎への呪い——物心つく時分から、伍一が姉にきく言葉といえば、そういう狂おしい|呪《じゅ》|詛《そ》ばかりであった。  おりんはしかし忘れていたのである。伍一は大三郎の子供であり、本位田家の血をひく一員であるということを。だから、本位田家に対する呪いだの、大三郎への復讐などは、伍一にとってはどうでもよいどころか、むしろかれは本位田家や大三郎に対して、強い|憧《あこが》れを持っていたのだ。ただひとつのことにあっては、かれも姉と同じ考えをわかつことが出来る。大助に対する憎しみである。大助のことを考えると、かれは全身の血が、|蒼《あお》|白《じろ》い焔となってもえあがるかと思われるばかりであった。かれは大助を憎み、憎み、憎んだ。  さて、本位田家では大助のあとに二人の子がうまれている。大正十一年に次男の慎吉が、昭和五年には娘の鶴代が……。実は慎吉と鶴代のあいだにもう二人、子供があったということだが、いずれも早世しているからここでは勘定に入れないことにする。  この鶴代というのは、たいへん気の毒な娘で、先天性心臓弁膜症で、ちょっとの歩行にも息切れがし、屋敷から外へ出ることはほとんどなかった。むろん、学齢に達しても学校へ通うことなど思いもよらず、したがって教育も家庭でうけた。彼女の教育にあたったのは主として祖母のお|槇《まき》で、彼女は祖母の|膝《しっ》|下《か》で読み書きの手ほどきをうけたが、頭のよい子で、十二、三のころには「|遊《ゆう》|仙《せん》|窟《くつ》」から「源氏」などの古い注釈本なども読んだという。  大三郎は墓にも彫られているとおり、昭和八年、即ち鶴代が四つのときに死んだ。大三郎の妻は毒にも薬にもならないおとなしい女だったので、一家の重責はしっかり者の祖母のお槇の肩にかかって来た。お槇は亡夫庄次郎にきたえられた、たるみのない性質で、がっちりと本位田家の屋台骨をささえていた。  昭和十六年大助は、学校を出るとすぐに結婚した。戦争がいよいよきびしくなったので、相当の家ではどこでも|息《むす》|子《こ》を早く結婚させたのである。大助の妻は|梨《り》|枝《え》といって、隣村の没落士族の娘だったが、一説によると、梨枝は伍一と恋仲だったのが、思いがけなく本位田家の跡取り息子から求婚されると、一も二もなく牛を馬に乗りかえたのだという。もしその|噂《うわさ》にして真実ならば、伍一の大助に対する憎しみは、いよいよ油をそそがれたことだろう。  昭和十七年、大助と伍一は同時に召集をうけ、同じ部隊に入隊した。はじめ二人は揚子江沿岸にいたようだが、異境にあっては伍一もさすがに旧怨を忘れたのか、たいへん仲よくやっていたらしい。そのころ大助からの妻の梨枝に寄越した手紙によると、二人は部隊で双生児のマスコットと大事にされているとあり、二人ならんでうつした写真が同封してあったが、この写真こそ、のちに起こったあの事件に、非常に無気味な影を投げかけたのである。  私も一度その写真を見たが、あの事件とかれこれ思いあわせると、|戦《せん》|慄《りつ》せずにはいられなかった。  相似がまた二人の肉体によみがえって来たのである。おそらく戦地という同じ環境が、二人の肉体を平均に地ならししたのだろう。応召まえの大助は、肉付きゆたかに色も白かったのに、戦地の苦労がかれの体から適当に肉を|削《そ》ぎおとし、顔もたくましく日にやけていた。  それに反して伍一のほうは、応召以前より肉付きもよくなり日焼けはかえって色があせ、こうして両方から歩みよった結果、二人はそれこそ瓜二つといってよいほどよく似ていた。ただひとつ、伍一の眼の二重瞳孔から来るあの異様に無気味なかがやきをのぞいては。……  昭和十八年には本位田家の次男慎吉が、学徒出陣で出ていった。しかし、このほうは半年もたたぬうち胸をやんで召集解除になった。かれは一年あまり自宅で静養をしていたが、戦争がすむと間もなく、K村から六里ほどはなれたH結核療養所へ入った。  慎吉たちの母は、二人の息子がつぎつぎと兵隊にとられたので気落ちがしたのか、十八年の秋に亡くなったので、慎吉が療養所へ入ると、本位田家のひろい屋敷には祖母のお槇と嫁の梨枝と、孫の鶴代、ほかに昔からいる老婢のお杉と、鹿蔵という知恵遅れの下男と、五人きりになってしまった。  だから慎吉は、療養所へ入ってからも月に一度か二度はかえって来て、二、三日泊まっていくようにしていた。K村と療養所は、さしわたしにして|僅《わず》か六里のみちのりだったが、乗り物の便利の悪いところで、汽車の少ないローカル線から、軽便鉄道、さらにバスに乗りかえていると、どうかすると朝早く出て、夕方までかかることがある。日帰りは絶対に無理だった。  慎吉は妹を愛した。かれは文学青年で、自分も文学者として立つつもりだったが、自分よりもむしろ妹の才能を高く買っており、たとえば「嵐が丘」の作者、エミリ・ブロンテのような作家に、妹を仕立てあげようと思っていたらしい。  鶴代はうまれつきの心臓弁膜症で、一歩も家を出ることが出来ない体質で、いつも土蔵のなかの一室で本を読みくらしているような娘だったが、強い感受性と鋭い観察眼をもっていた。  慎吉はこの妹に、用があってもなくても、時折り療養所の自分あてに手紙を書くように命じた。それは筆ならしと同時に、ものを|視《み》る眼をきたえさせようという意味であったらしい。鶴代はこの兄の命令を守って、せっせと慎吉に手紙を書きおくった。  昭和十九年のおわりから、昭和二十年のはじめへかけて日本のどこの村でもそうであったように、K村にも多くの変化があった。都会の空襲がはげしくなるにつれて、村から町へ出ていったものが、おいおい疎開でひきあげて来たからである。そのなかに小野の一家があった。  小野の主人は宇一郎といって、神戸で文具店をやっていたが、焼け出されて、三十年ぶりでかえって来たのである。宇一郎が村を出たのは二十代であったが、かえって来たかれは、真っ白な頭をした、よぼよぼのお爺さんになっていた。妻のお|咲《さき》は後妻だということで、夫婦のあいだには十六をかしらに五人の子があった。  さいわい小野の家は|親《しん》|戚《せき》のもとに預けてあったので、それを|雨《あま》|洩《も》りのしない程度につくろい、小作にあずけてあったわずかばかりの田地を、かえしてもらって、百姓をはじめた。宇一郎には先妻とのあいだに、昭治という男の子があったが、兵隊にとられて消息がわからぬという。  昭和二十年八月、戦争がおわると間もなく、伍一の姉のおりんが町からかえって来た。おりんはすでに三十五になっていたが、まだ独身で、戦争中ちかくの町の軍需工場で、炊事婦みたいなことをやっていたが、敗戦と同時に職からはなれ、村へかえって来ると、牛小屋みたいな家へ住み、|猫《ねこ》の額ほどの|田《たん》|圃《ぼ》や畑をつくり出した。幼いころから無愛想な女だったが、うちつづく不仕合わせにいよいよ無口になりどこか妖婆を思わせるような女になっていた。  こうしてだいたい人物がそろったところで、昭和二十一年夏のはじめ、突然なんのまえぶれもなく本位田大助が復員して来た。むろんかれの復員は、本位田家にとっては何物にもかえがたい喜びであったが、それにも拘らず一種名状しがたい鬼気と戦慄を、かれは持ってかえったのである。  私はもう一度、本位田家の墓地を見まわす。と見れば整然たる本位田家累代の墓のはずれ、赤く咲いた|百日紅《さるすべり》の根元に、可愛い一基の塚があり、塚のうえにはまだ新しい白木の柱が立っている。柱の表面には、 [#ここから1字下げ] ——珠蓮如心童子 [#ここで字下げ終わり]  裏へまわってみると、 [#ここから1字下げ] 本位田鶴代、昭和二十一年十月十五日亡。 [#ここで字下げ終わり]  これこそ可憐な鶴代の仮墓であり、彼女のいのちを奪ったのは、いうまでもなく、あの恐ろしい事件の衝撃だった。  彼女はしかし死ぬまえに、この事件についておのれの見聞したところ、また、おのれの感想、臆測について、細大あまさず兄の慎吉に書きおくっている。むろん、これらの手紙は、はじめから、事件を報告するために書かれたのではない。まえにもいったとおり、慎吉の忠告にしたがって、彼女はおのれの身辺に起こる出来事を、なにくれとなく兄に書き送っていたのである。しかし、事件が起こってからは、いきおいそれが中心になっていったのは当然で、彼女はそこに世にも恐ろしい疑惑や、血みどろな事件の経過や、最後に彼女の運命をうばい去った、あの衝動的な発見について綿々として語りつづけている。  私はこの手紙を読みかえすたびに、わずか十七歳の少女を襲った、このような恐ろしい経験に、戦慄をかんじずにはいられない。そこには鶴代という少女の、のたうちまわる|苦《く》|悶《もん》と、絶望的な悲しみが、草笛の音のように封じこまれている。  諸君がこれから読まれようとする物語は、鶴代の書いたその|文《ふみ》|殻《がら》の一束なのだが、じつは私はこの文殻を金田一耕助から手にいれたのである。金田一耕助はこの一束の文殻のほかに、新聞の切り抜きや、それからもうひとりの人物の手記を私に提供してくれたのだが、そのとき、かれは暗い眼をしてこういった。 「あらかじめお断わりしておきますが、ぼくはこの事件に全然タッチしなかったんです。いや、タッチしようとしたことはしたんですが、ぼくが真相を看破して、犯人に接触しようとしたときには、すでに他の明敏な頭脳の持ち主が、それを指摘していたので、ぼくは無言のままひきさがったんです。したがって、ぼくはこの事件に全然関係がないのですが、それではどうしてこれらの手記がぼくの|手《て》|許《もと》にあるか、それは最後までお読みくださればわかります。手記にはナムバーを付しておきましたが、整理はできておりません。それらのことは一切あなたにおまかせいたします」  金田一耕助の意見にしたがって、私は鶴代の手紙のなかから、事件に直接関係のある部分だけを抜き出し、整理し、読みやすくするためいくらか筆を加えた。それだけのことをお断わりしておいて、では、順次、鶴代の手紙をくりひろげていくことにしよう。  最初の手紙は昭和二十一年五月、即ち事件より約五か月まえに書かれたものである。     うらみ葛の葉 [#地から4字上げ]付、葛の葉屏風に瞳のないこと        〇 (昭和二十一年五月三日)  昨日はイヤなことがありました。兄さんは小野さんの一家が疎開でこっちへかえっていることを、知っていらっしゃるでしょう。その小野のおじさんが、昨日うちへいいがかりをつけに来たのです。  兄さんはうちに、|葛《くず》の葉の|屏風《びょうぶ》が、あるのを御存じですか。わたしはいままでちっとも知らなかった。だってお蔵のなかへしまったきりで、わたしが物心ついた時分から、一度も出したことないんですもの。そんな屏風のあることさえ知らなかったのです。  小野のおじさんが昨日来たのは、その屏風のことなのです。おじさんはそれを返してくれというのです。おじさんはこんなふうに申しました。 「あの屏風は三十年まえに、わたしが神戸へ出るときにこちらの大さん(お父さんのこと)にお預けしておいたものです。別にお譲りしたわけのものではありません。あれは小野家の家宝として、代々つたわっているものですから、何をなくしても、あれだけは手離すわけには参りません。わたしもこうして御先祖さまの土地へかえって来たのですから、あの屏風を手許にひきとって、毎日眺めてくらしたいと思います」  と、そんなふうなことをくどくどと、いつまでも繰り返すので、ほんとうに弱ってしまいました。はじめはお|嫂《ねえ》さんがお会いになりましたが、いつまでたっても|埒《らち》があかないので、とうとうお|祖《ば》|母《あ》さまがお会いになりました。お祖母さまはたいそうお怒りになって、 「宇一つぁん、あんた何をいいなさるのだ。あの屏風のことならわたしもよく憶えていますよ。あれはあんたが村をひきはらって神戸へ出るとき、商売のもとでが足りないから、二十円貸してくれといって、そのかたにあれを置いていったんじゃないか。そのときあんたはなんといいなさった。いかに御先祖様が大事でも、こんな屏風を背負いこんで、神戸|三《さん》|界《がい》まで流れていくことは出来ません。これはお宅でとっておいてください、と、そういうたのをわたしはちゃんと憶えていますよ。それをいまさらになって返せなどとあんまりじゃないか」  お祖母さまはそうお叱りつけになりましたが、小野のおじさんは|眉《まゆ》|毛《げ》ひとつ動かさず、同じようなことをくどくど繰りかえしたあげく、それでは、あのときお借りしたお金はおかえし致しますからと、十円札を二枚ならべたときにはわたしも、あまりのことに、びっくりしてしまいました。  小野のおじさんは、このインフレを御存じないのでしょうか。戦争まえと現在とでも、物価は何十倍、何百倍とちがっています。まして大正のはじめごろの二十円がいまの二十円でとおると思っているのでしょうか。あまり馬鹿にした仕打ちに、わたしでさえ腹が立ってしまいました。  あとでお祖母さんがこうおっしゃいました。 「貧すればドンするので、それは宇一つぁんだっていくらか人間がかわったようだが、まさかあんなユスリがましいことをいって来るほどの人ではない。あれはお咲さんが悪いのだよ。どこかで屏風のことを聞きつけて、宇一つぁんを|唆《け》しかけたのにちがいない。それでなければ、こっちへかえってから一年以上もたったいまごろになって、あんなことをいって来る筈がないものね。|昔馴染《むかしなじ》みのひとがかえって来るのは嬉しいが、お咲さんみたいに、どこの馬の骨だか牛の骨だかわからぬような人間まで、ついて来るんじゃやりきれない。戦争からこっち、だんだん、人間の気持ちが悪くなって来てるから、梨枝さん、あんたなんかも、よほどしっかりしてくれなきゃ困りますよ」  わたしは何も、お祖母さまの|尻《しり》|馬《うま》に乗るわけじゃありませんが、お咲さんてひと、ほんとに評判の悪いひとです。あのひと神戸で酌婦かなんかしていたんですって。小野のおじさんといっしょになってから、|継《まま》|子《こ》の昭治さんをひどくいじめて、家にいられないようにしたのもあの人だということです。昭治さんはそれですっかりぐれてしまって、兵隊にとられてからも何度、営倉へ入れられたかわからないという話です。昭治さんといえば終戦後間もなくひょっこりかえって来ましたが、三日とたたぬうちに、お咲さんと|大《おお》|喧《げん》|嘩《か》をしてとび出しました。それでいて、あのおうちいちど小野のおじさんが売ろうとしたことがあるのを、昭治さんがお金を出してやめさせたことがあるんですって。だから村の人、みな昭治さんを可哀そうだといってます。昭治さんはK市でゴットン(強盗のこと)をしているという話だけど、それがほんとうだとすると、お気の毒なことです。        〇 (昭和二十一年五月四日)  昨日は筆がわきみちへそれたまま、疲れてしまったので手紙が尻きれとんぼになりました。今日は昨日のつづきで葛の葉屏風のことを書くことにします。  小野のおじさんは、子供のわたしでさえ腹が立ってジリジリするくらい、同じようなことを繰り返していましたが、お祖母さまがなんといっても相手になさらないので、とうとう|諦《あきら》めてかえってしまいました。くどくどと同じことばかりいっていたときには腹が立ちましたが、そうしてションボリとかえっていくのを見るとなんとなく気の毒になりました。よれよれの|兵《へ》|児《こ》|帯《おび》をちょこんと結んで、結び目の片っ方だけだらりと長くなっているのが、とても貧乏くさいかんじがして、ずっとせんにお墓参りにかえって来たときからみると、小野のおじさんもずいぶん年をとられたと、涙がこぼれそうになりました。  それにしても、わたしとお嫂さんとふたりきりだったらどうでしょう。あんなにしつこくからまれたら、きっと泣き出してしまいます。お祖母さまがいらっしゃらなければ、この家はほんとうに|暗《くら》|闇《やみ》です。お祖母さまはお元気で、気性もしっかりしていらっしゃいますが、なんといってももう七十八、お年がお年ですから、さきのことが心配でたまりません。大助兄さんはまだ消息がわからないし、頼りになるのは兄さんだけです。兄さん、一日も早くお元気な体になってください。  おや、また、筆がわきみちにそれました。御免なさい。こんなに無軌道な書き方しか出来ない鶴代、とても小説家なんて思いもよりませんわね。  さて、小野のおじさんがおかえりになったあと、お祖母さまもさすがに気づかれをなすったのでしょうか、しばらく黙って眼をとじていらっしゃいましたが、やがて眼をお開きになると、お嫂さんのほうを向いて、こうおっしゃいました。 「梨枝さん、あんたお杉にいってね、蔵のなかから屏風を出させておくれ」  お嫂さんがびっくりして、 「屏風といいますと……?」  と、お訊ねしますと、お祖母さまは、 「葛の葉の屏風のことですよ。お杉はきっと知っていると思う。あなたも手伝って、ここへ持ち出してください」  と、おっしゃいました。わたしは不思議に思って、 「お祖母さま、それではその屏風、小野さんのところへお返しするの?」  と、ききますと、お祖母さまは、ただ、 「いいえ」  と、おっしゃったきり、あとはなんともおっしゃいませんでした。  お嫂さんとお杉の手で、あの葛の葉屏風が持ち出されたのは、それから間もなくのことでした。ほんとうをいうと、さっき小野のおじさんの話をきいているときから、わたしはこの屏風についてはげしい好奇心を抱いていたのです。だって、いままでそんな屏風のあることすら知らなかったのですし、小野のおじさんの話をきくと、とっても立派なもののように思えたからです。  だから屏風が持ち出されると、わたしは胸をワクワクさせ呼吸をつめて、くるんであった|油《ゆ》|単《たん》のとれるのを視詰めていました。  兄さんは、あの屏風をごらんになったことがございますか。いいえ、お祖母さまのお話では、もう長いこと出したことがないということですから、きっと御存じないにちがいない。その屏風のおもてを見た|刹《せつ》|那《な》、わたしはなんとなくはっとするようなものを感じました。なぜ、そんな気になったのかよくわかりませんが、急に身内がジーンと冷えて胸がドキドキするのを覚えました。  その屏風というのは、二枚折りなのですが、左のほうに葛の葉のすがたが描いてあります。それはたぶん安倍の童子にわかれをつげ、良人|保《やす》|名《な》をふりすてて|信《しの》|田《だ》の森へかえっていくところなのでしょう。|両袖《りょうそで》をまえに掻きあわせ、うつむき加減にうなじを長くさしのべた葛の葉のすがたが、胡粉まじりの淡い線で、いかにもなよなよと描かれており、|裾《すそ》は秋草のなかに|暈《ぼ》かされて……そして、右|半《はん》|雙《そう》にはただひとつ、二日ばかりの糸のような月。背景には一面にきららが吹きつけてあり、そのきららのくすんだ色が、いっそう夜の安部野の淋しさ、もの悲しさをあらわしているように思われます。  その屏風には、どこにも狐のすがたなど描いてありません。葛の葉にも、|尻尾《し っ ぽ》などは出ておりません。しかしそれでいてすんなり立った女のすがたにも狐の化けたらしいところが見えるのだから不思議です。秋草のなかに長く裾をひいてぼかされた、下半身から、もう狐になりかけているような気がしてならないのです。わたしはそれを不思議に思いました。そしてその原因がどこにあるのだろうかと、つくづく葛の葉のすがたを見直しましたが、そうしているうちに、わたしははっとあることに気がついたのです。  その葛の葉は、いかにも悲しげにうなだれているのですが、眼だけはパッチリひらいています。ところが、ひらいた眼には両方とも、瞳がかいてないのです。|画龍点睛《がりょうてんせい》という言葉がありますが、まったく人のかたちのなかで、いかに瞳というものが大事なものであるか、この絵を見るとよくわかります。なよなよと、色美しくえがかれた美女の顔に、眼はあっても瞳のないということは、なんという妙な感じをいだかせることでしょう。わたしはこの絵を見ているうちに、ふと文楽の人形のことを思い出しました。文楽の人形のうち、たとえば「朝顔日記」の|深《み》|雪《ゆき》など、盲目になる役につかう人形は、眼玉がくるりとひっくり返って、白眼ばかりになるように仕掛けてありますが、葛の葉屏風の葛の葉は、ちょうどそういうかんじなのです。そして、そこからなんともいえぬ|妖《よう》|気《き》が流れ出しているのでした。  この絵をかいた人は、何かのはずみで瞳を入れるのを忘れたのでしょうか。それとも、あらかじめこういう効果を知っていてわざと瞳を入れなかったのでしょうか。わたしにはなんとなく、後者の場合のように思われてなりませんでした。  お嫂さまも呼吸をつめて、屏風の葛の葉を視詰めていらっしゃいましたが、やがてかすかに身顫いなさると、 「なんだか薄気味の悪い絵ですこと」  と、お|呟《つぶや》きになりました。お祖母さまは、不思議そうにその顔をごらんになると、 「おや、どうして?」 「だって盲目の葛の葉なんて……鶴代さん、あなたどうお思いになって」  だしぬけにお嫂さまがわたしのほうに話しかけられたので、わたしは思わずドギマギいたしました。これは兄さんだけにお話しすることですけれど、お嫂さまに話しかけられると、わたしはいつもこうなのです。なぜだか自分でもわかりません。わたしはお嫂さまをやさしい人だと思っていますし、筆や言葉ではいいつくせないほどお嫂さまが好きなのです。それだのに、お嫂さまと二人きりになると固くなってしまって、何か話しかけられたりすると、しどろもどろになってしまうのです。これはきっと、お嫂さまがあまりお美しいせいだろうと思っています。そのときもわたしはすっかりあがってしまって、 「ええ、ほんとうに……わたしもそう思います」  と、簡単にこたえました。お祖母さまは黙って屏風の絵をごらんになっていましたが、 「あなたがたは、この絵の瞳のないことをいっているのですね。でもこれこそは、絵をかいた画工さんの、ふかい用意にちがいありませんよ。この絵の葛の葉は、ほんとうの葛の葉姫ではありません。狐の化けた葛の葉です。しかもいま、正体が露見してすごすごと信田の森へかえっていくところなのです。この絵をかいた画工さんは、狐火をもやしたり、狐の尻尾をかいたりしないで、瞳を省略することによって、この葛の葉が人間でないことを示したのです。わたしはいつもこの絵を見ると、そのところに感心させられますよ」  お祖母さまは眼を細めて、なおもまじまじと屏風のおもてをごらんになっていましたが、やがて二人のほうを振り返られると、 「この屏風は、このままここへおいておくことにしましょう。いいえ、あたしはそれほどこの屏風が好きだというわけじゃない。しかし、宇一つぁんにあんないいがかりをつけられて、お蔵のなかへしまっておいたら、こちらに後ろ暗いところがあって、かくし立てするように思われましょう。だから、わざと、こうして人眼のつくところへおいておくのです」  そういうわけで、葛の葉屏風はそのままお座敷へ飾られることになりました。だから今度兄さんがかえって来たら、屏風を見ることも出来るわけです。あの薄気味悪い葛の葉屏風を。……     大助かえる [#地から4字上げ]付、小野昭治脱獄のこと        〇 (昭和二十一年六月十日)  今日は村の噂を二、三御報告いたします。  昨日、小野のおじさんのところへ、|見《み》|識《し》らぬ人が三人、たいへんな権幕で乗りこんで来たそうです。この三人というのは、O市の刑務所の看守さんだそうですが、このひとたちの話によって、はじめて昭治さんの消息がわかりました。  昭治さんはコソ泥を働いて、O市の未決に入っていたのだそうです。ところがさすがに身を|憚《はばか》ったのか、それとも他に大きな余罪があったのか、大島なにがしと偽名を使っていたということです。ところが、いよいよ公判もちかづいて来たので偽名では押し通せないと思ったのか、同囚の五、六名をかたらって、床板をはがして、脱走を企てました。そして、ほかの人たちはすぐ見付かって、全部つかまったのに、大島なにがしだけは見事脱走してしまったのだそうです。  そこで刑務所では、大島なにがしの名乗っていた、生国へ手配をしたところが、そういう該当人物なしということで、はじめて偽名ということがわかり、改めて同囚のひとたちをしらべたところが、いつか大島なにがしの洩らした言葉のなかに、Y島の囚人作業場にいたことがあるということをいっていたそうで、そこで早速、Y島へ電話をかけたところが、大島なにがしという男はこの作業場にいたことはないが、そういう人相風態の男なら、小野昭治にちがいないと、はじめて正体がわかったのだそうです、昭治さんはどっちかの腕に「御意見無用、命大安売り」という|刺《いれ》|青《ずみ》をしているのだそうです。  そこで刑務所の人たちが、小野のおじさんのところへ来たのだそうで、なんでも脱獄囚があった場合四十八時間以内は刑務所の責任とやらで、今朝十時頃まで小野のおじさんのところへ張り込んでいて、それから引き揚げていったということです。  わたしは、昭治さんが気の毒でたまりません。聞くところによると、三月ほどまえY村へ入った三人組の強盗も、昭治さんたちだったそうで、この時もほかの二人はつかまったのに、昭治さんだけ逃げてしまったのです。それで警察でも手配中だったとのことですが、そういうことがあるから、昭治さんもコソ泥でつかまったとき、偽名で通そうとしたのでしょう。しかし、いくら逃げても永久に逃げおおせることは出来ますまいに、罪に罪をかさねて、ゆくすえはどうなるのでしょうか。昭治さんはずっとまえ、お咲さんにいびり出されて、三、四年この村の親類にあずけられていたことがありますから、村の人はみんな昭治さんに同情しています。昔はあんな人ではなかった。涙もろい、いたって思いやりの深い子だったのに、これというのも、みなお咲さんのせいだと、みんなお咲さんを憎んでいます。そうそう。たしか兄さんと同い年で昔は仲のよいお友達でしたわね。だから昭治さんのことは、兄さんのほうがよく御存じでしょう。  お咲さんといえば、葛の葉の屏風のことで、あの後二、三度やって来ましたが、お祖母さまが相手になさらないので、根負けしたのか、このごろ姿を見せなくなりました。お咲さんは、昭治さんを見付けたら、首に綱をつけて駐在所へひきずっていってやると言ってるそうです。なんて憎らしい人でしょう。  秋月のおりんさんは、あいかわらずうちの山の木を盗んで困ります。あの人も伍一さんはかえらないし、うちにひきくらべても気の毒な人と思い、なるべく見て見ぬふりをしていましたが、ちかごろはだんだんずうずうしくなって自分のうちの|焚《た》きものばかりか、よそへ売る分まで盗んでいくということです。うちの鹿蔵が口惜しがって、昨日ひそかに見張りをしていて、盗んでいる現場をとりおさえたところが、いうことが憎らしいではありませんか。 「山と娘は盗みものだよ。それに元来この山は、うちのものだったのを、本位田家に|騙《だま》しとられたのだ」  と、そういって|空嘯《そらうそぶ》いていたといいます。おりんさんはお墓の横の、牛小屋みたいな一軒家に住んでいるのですが、あんな淋しいところにひとりでいて、よく怖くないことだと思います。  吉田の銀さんが、いよいよお嫁さんを貰うことになりました。ところで、そのお嫁さんを誰だとお思いになって? |嫂《あによめ》の加奈江さんなのです。加奈江さんの御主人安さんは、南方へいったきり消息がわからなかったのですが、ちかごろはビルマかどこかで戦死したことがわかりました、そこで弟さんのお嫁さんになることになったのです。加奈江さんは銀さんより三つ年上だということです。村の人はお目出度いといっています。そして安さんが生きていたら、たいへんなことになるところだったと、ニヤニヤしながら申します。  わたしはなんだか変な気がしましたが、この話をきいたとき、お祖母さまはとても考えこんでおしまいになりました。そしてわたしと二人きりになったとき、 「慎吉はいくつになったのかしら」  と、ひとりごとのようにおっしゃいました。 「兄さんはわたしより八つうえだから、二十五でしょう」  と、こたえますと、 「そう。……そうすると、梨枝より一つうえだね」  と、おっしゃいました。わたしがびっくりして、どういうわけかと思ってお祖母さまの顔を見ていると、お祖母さまは気がついたように、きつい顔をして、こんなことをおっしゃいました。 「鶴代、お祖母さまがいまいったことを、決して誰にもいうんじゃありませんよ」  お祖母さまはそれから、|俄《にわ》かに思い立ったように、御仏壇にお|灯明《とうみょう》をあげ、長いことそのまえで合掌していらっしゃいました。  わたしには、お祖母さまが何を考えていらっしたのかわかりません。        〇 (昭和二十一年七月三日)  ダ イスケカヘルスグ コイ」マキ        〇 (昭和二十一年七月六日)  兄さん、お加減はいかがですか。送っていった鹿蔵の話では、療養所へつくと発熱して、また赤いものが出たという話なので、お祖母さまもたいへん心配していらっしゃいます。  兄さん、どうぞ|昂《こう》|奮《ふん》なさらないで。あまりここで昂奮なすって、せっかく順調にいってたお体が、また悪くでもなるようなことがあったら、わたしたちどうしたらいいのでしょう。お年よられたお祖母さまのことも考えてあげてください。こうなったらもう、兄さんひとりが頼りなのですから。  それにしてもあの日の驚き! いま思い出しても腹の底がつめたくなるような気がします。  あれはさきおとといのことでしたわ。夕方ごろ、わたしは土蔵のなかのお座敷で、兄さんに送っていただいた御本を読んでおりました。隣のお部屋ではお祖母さまが、|眼鏡《め が ね》をかけてほどきものをしていらっしゃいました。|梅《つ》|雨《ゆ》どきの、妙に冷えびえする晩方で小雨が降ったりやんだりしていました。  わたしはときどき本から眼をあげて、隣のお部屋をふりかえってみると、お祖母さまは、ほどきものをする手をとかく怠りがちに、なにやら深くかんがえこんでおられる様子でした。生意気なことをいうようですが、わたしにはそのとき、お祖母さまがなにをかんがえていられるか、はっきりわかるような気がしたのです。それというのが、その日の昼過ぎ、吉田の銀さんがあたらしいお嫁さんの、加奈江さんとおそろいで|挨《あい》|拶《さつ》に来られたからです。  銀さんは日焼けのした体に、借り着の紋付きを着て、暑いのか恥ずかしいのか、いっぱい汗をかいていましたが、それでもいかにも嬉しそうでした。加奈江さんは壁のように|白《おし》|粉《ろい》をぬり立てて、手などもまっ白に塗っていましたが恥ずかしいのかろくに顔もあげませんでした。加奈江さんは色白のポチャポチャと可愛い顔立ちですから、銀さんより三つ年うえだといっても、それほど不自然には見えません。銀さんは小さいとき小児麻痺を|患《わずら》って、|片《かた》|脚《あし》が少し跛をひき、そんなことから兵隊にはとられませんでしたが、百姓をするには差し支えなく、体も丈夫だし、村でも一番辛抱人ですから、加奈江さんもきっと幸福になるでしょう。  玄関だけの挨拶でふたりがかえっていくと、お嫂さんやお杉が、いろいろと取り|沙《ざ》|汰《た》をしました。 「加奈江さんはパッと派手な顔立ちだから、ああしてお化粧をすると、見違えるほどきれいになるわね、銀さんのあの嬉しそうな顔ったら……」 「でも、変ですねえ。兄さんのお嫁さんだったのが、弟のお嫁になるなんて。……しかも、三つも年下の男と……」 「でも、いいじゃないの。二人とも好きあっているという話だもの」  お嫂さんは何気なくそういいましたが、するとお祖母さまが、そのあとをうけて、 「そう、あれもひとつの方法ですね。亡くなったひとには気の毒だけど……」  そういって、お嫂さんの横顔をまじまじとごらんになりました。  お祖母さまはきっと、そのことを考えていらしたのでしょう。おりおりほっと溜め息が、つぼめた唇から洩れるのがきこえました。  そのときなのです。お杉のけたたましい声がきこえたのは。…… 「御隠居さま、たいへんです。たいへんです。若旦那が……」  わたしはてっきり、兄さん、あなたのことだと思いました。ひょっとすると兄さんが、療養所でまた悪くなられたのではないかと考えました。だが、すぐにそれが勘ちがいであることがわかりました。つぎの瞬間、お杉がころげるように入って来ると、 「御隠居さま、早く出てごらんなさいまし、戦争にいっていた若旦那が、戦友のかたと……」  わたしはそれではじめて、大助兄さんのことだとわかって、|弾《はじ》かれたように立ち上がりましたが、そのとき、なんということなく、お祖母さまの顔色をうかがいました。お祖母さまの顔からは、一瞬血の気がなくなって、石のようにかたい表情になりました。わたしはそれを、いまでも不思議に思っています。  大助兄さんは、お祖母さまの秘蔵っ子でした。大助兄さんのことといえば、お祖母さまは眼がないのでした。それだけに、お祖母さまは大助兄さんの噂をするのが|辛《つら》いらしく、また万一のときの失望を、自らおもいはかって、大助兄さんは死んだもの、生きてかえらぬものと、自分で自分にいいきかせ、その場合の処置までも、ひそかに考えていらっしゃるようなお祖母さまでした。しかし、それはあくまでも、大助兄さんが人一倍、可愛いところから来ているのです。それだのに、あの時のお祖母さまの|蒼《あお》ざめた顔色といかつい表情はどうしたのでしょう。  でも、お祖母さまの顔色はすぐよくなりました。そしてたとえ一刻でも、|躊躇《ちゅうちょ》したことを悔むようにソワソワと立ち上がると、 「まあ、まあ、まあ、大助が|還《かえ》って来たんですって? そしてどこにいるの?」 「お玄関にいらっしゃいます。戦友のかたと御一緒に」 「どうしてこっちへ入って来ないの。そして梨枝はどうしました」 「はい、奥さまにも申し上げておきました。御隠居さま、早く出ておあげなさいませ」 「鶴代、おまえもおいで」  わたしたちは土蔵を出ると暗い廊下を抜けて玄関へ出ました。すると四角い玄関の光のわくのなかに、兵隊姿の男のひとが二人立っているのが見えました。二人とも妙に押し黙っていました。それにしてもお嫂さまはどうしたのだろうと見廻すと、薄暗い玄関の畳のすみに膝をついたままいまにも泣き出しそうな顔をしているのでした。わたしたちの足音をきくと、まえに立っていた人が、こちらへ向きなおって、直立不動の姿勢のまま、 「ああ、お祖母さまでいらっしゃいますか。ぼくは正木というものですが、本位田君をお連れして来ました」 「大助は……、大助はどうかしたのですか」  お祖母さまは伸びあがるようにして、正木という人のうしろをのぞきこみながら、こういいました。お声がかすかにふるえているようでした。 「ええ、本位田君は負傷をして、……一人歩きが出来ないものだから、……本位田君、お祖母さまだよ」  正木さんはこういって、一歩横へ身をさけました。そのうしろから大助兄さんが、おずおずと、二、三歩まえへ踏み出しましたが、そのとたん、わたしは何かしら、心臓に冷たいものでも当てられたような悪感をかんじたのです。  大助兄さんはすっかり|窶《やつ》れて、おまけに、顔も|火傷《や け ど》でもしたような大きなひっつれが出来ています。しかし、わたしが無気味に思ったのは、火傷のためではありません。大助兄さんがこちらを向いて、ハッキリ両眼をひらいています。しかし、その眼はちっとも動かず、こんな際にも拘らず、なんの表情もやどしていないのです。顔の筋肉や唇がはげしい感動を示しているのに、両眼だけはわれ関せず|焉《えん》とばかり冷々淡々として動かないのです。それはまるでポッカリ開いた魂の抜け穴みたいに見えました。 「本位田君は」  と、そのとき正木さんが横から言葉をそえました。 「戦傷を負うて両眼をうしなわれたのです。それであのとおり両方とも義眼をはめているのです」  わたしには正木さんの声が、どこか遠いところからひびいて来るようにきこえました。自分とはまったく関係のないことが話されているような気持ちでした。わたしは正木さんや大助兄さんの姿をこえて、ボンヤリ玄関から外を眺めていました。あいかわらず暗い空から、細かい雨がふりつづけています。わたしはふと、こんなことはまえにもあった。雨の降る日に大助兄さんがかえって来て、その兄さんの眼は両方とも義眼だった……と、そんなような他愛のない気持ちがしました。  ふと見ると、門の外に五、六人、村の人が立ってこちらを見ています。その人たちは何やらヒソヒソ|囁《ささや》きながら、ときどき顔を見合わせています。わたしはそのなかに秋月のおりんさんのすがたがまじっているのに気がつきました。おりんさんのちぢれ毛に、細かい雨が小さな水玉をいっぱいつづっています。おりんさんはしかし、そんなことお構いなしに、及び腰になって一心に玄関のなかをのぞきこんでいます。  おりんさんの食いいるような視線のさきを、何気なくたどって来たとき、わたしは突然、夢からさめたような気がしました。おりんさんの視線は、まるで|錐《きり》で揉みこむように、大助兄さんの背後を見透しているのでした。     かたしろ絵馬 [#地から4字上げ]付、鶴代、大助の正体を確かめようとすること        〇 (昭和二十一年七月十二日)  その後いかがですか。赤いものも一度きりでおとまりになったとやら、お祖母さまも、よろこんでいらっしゃいます。暑さが急に加わってまいりましたから、くれぐれもお大事に。  うちもおいおい落ち着いてまいりました。大助兄さんの復員をきいて、お祝いやらお見舞いやらに来てくださる人もこのごろはだんだん少なくなって来て、どうやらもとの静かなうちにかえりそうでございます。大助兄さんは、つかれが出たといって、あれからずっと寝たり起きたり、お客さまにも出来るだけあわぬようにしていましたが、一昨日は伍一さんの最期の模様をお話ししなければならないからと、おりんさんを呼びにやりました。そうそう。この事はまだご存じなかったと思いますが、秋月伍一さんは戦死なされたそうです。  おりんさんは、だいぶ待たせてからやって来ました。大助兄さんはおりんさんにむかって、伍一さんの最期の模様をこまごまと語ってあげました。わたしもお祖母さまやお嫂さまといっしょに、そばで聞いておりましたが、それはだいたいつぎのような話でした。  モンドーとかいうところの戦争で大助兄さんは伍一さんと二人きりで、部隊からはぐれてしまったのだそうです。そこへ砲撃を加えられて、伍一さんは、死んだのだそうです。大助兄さんは伍一さんのからだから、かたみの品を採り出すと、それを身につけて単身あてもなくさまよっているところを、また砲撃を加えられ、その破片に顔を吹かれて両眼をうしない気を失って倒れたのだそうです。そこへ折よくとおりかかった友軍に発見され、無事助けられたということでした。 「そういうわけで、伍一君から、なんの遺言もきいておりません。|亡《なき》|骸《がら》はぼくが埋葬いたしましたが、これがそのとき、とっておいたかたみの品です」  大助兄さんがそういって差し出したのは、黒い血のしみついた手帳でした。おりんさんはそういう話をただ黙ってきいていました。大助兄さんの話がおわっても、自分から根掘り葉掘り聞こうともしないのです。おりんさんはほんとうに妙なひとです。こんな場合、ふつうなら、たったひとりの弟の死ですもの、涙のひとしずくぐらい落とすのがあたりまえでしょう。それだのにおりんさんは、いかつい、おこったような顔をして、黙ってきいているだけです。それでいて、その眼だけは食いいるように、大助兄さんの顔を視詰めているのです。  おりんさんはきっと、大助兄さんが生きてかえって来たのに、伍一さんだけ死んだことをおこっているのでしょう。考えてみるとそれも無理のないことで、わたしもおりんさんを気の毒に思います。しかしそれだからといって、わたしはおりんさんの無礼を、許す気にはなれません。折角大助兄さんが、親切に話してあげたのに、おりんさんは一言も、礼もいわずに、かたみの品を|鷲《わし》づかみにすると、そのままプイと立ってしまいました。  ところが、それからすぐあとのことです。お母さまもお嫂さまも、あっけにとられてボンヤリしているので、わたしがあわてて玄関まで送っていくと、薄暗いところでおりんさんは、誰も見ていないと思ったのか、ニヤリと妙なわらいかたをしたのです。  ああ、その笑い! わたしはなぜかゾーッと背筋がつめたくなるような気がしました。それほどそのときのおりんさんの笑いというのは、意地悪い、ヒネこびれた、なんともいいようのないほど気味の悪いものでした。  おりんさんはしかし、すぐわたしの存在に気がつくと、あわててその笑いをひっこめ、ジロリと怖い眼をしてわたしを|睨《にら》みつけると、おこったような顔をして、ズンズン出ていきました。それにしてもおりんさんは、なんだってあんなイヤなわらいかたをしたのでしょう。  わたしはやっぱりおりんさんが嫌いです。        〇 (昭和二十一年八月一日)  たいへん御無沙汰いたしました。もっとたびたびお手紙差し上げるべきところ、鶴代、すっかり混乱してしまって。……なぜ混乱しているのか、鶴代にはハッキリ理由もつかめません。しかし、なんだかわたし怖いのです。ええ、ほんとにわたし怖いのです。なんだか本位田のうちに悪いことが起こりそうな気がします。兄さん、兄さん。わたしどうしたらよいのでしょう。        〇 (昭和二十一年八月八日)  兄さん、|堪《かん》|忍《にん》してください。変な手紙を差し上げて、よけいな心配をおかけしたことを、まことに済まなく思っております。このお手紙も兄さんのお眼にかけてよいか悪いか、わたしずいぶん迷いました。しかし、あんなお手紙を差し上げたあと、奥歯にもののはさまったようなことを書くと、|却《かえ》って兄さんの心配の種になるだろうと思いますので、思いきって何もかも申し上げることにいたしました。兄さん聞いてください。今日このごろのわたしの悩みを。そして、鶴代が間違っているところをピシピシお教え下さい。  大助兄さんがかえって来てから、家のなかの様子はすっかり変わってしまいました。よいほうへ変わったのではありません。すっかり悪くなってしまったのです。大助兄さんという人は、昔はたいへん朗かな、思いやりの深いそして陽気な人でした。大助兄さんのいるところ笑い声の絶えることなく、誰だって大助兄さんを好きにならずにはいられないような人でした。  それだのに、どうしたのでしょう。今度かえって来てからは、まるで人が変わったように陰気な人になってしまいました。いいえ、陰気ばかりではありません。何といいますか、|妖《あや》しい鬼気のようなもので、すっぽり身をつつんでいるのです。大助兄さんがかえって来てから、もうひと月以上になりますが、わたしはいちども、あの人が笑うところを見たことはありません。  いいえ、笑うどころか、用事のあるとき、極く短い言葉でいいつけるほか、口を利くことさえ滅多にないのです。それでいて猫のように足音のない歩きかたで、しじゅう家のなかを歩きまわり、何かを嗅ぎ出そうというふうに、じっと聞き耳を立てているのです。うすぐらい中廊下などで、白い|浴衣《ゆ か た》を着た大助兄さんが、ガラスの両眼をしらじらと見張ったまま、ソロリソロリと歩いているところなどに出会うと、わたしはゾッと背筋が冷たくなるような気がします。  土蔵のなかで本を読んだり、ものを書いたりしているときでも、ふと、生気のないあの二つの眼を思い出すと、わたしは心臓に冷たい刃をあてられたような悪感をかんじます。家のなかのどこかから大助兄さんがガラスの眼で、じっとわたしたちの姿を見守っている。いいえ、これは決して、わたしの|妄《もう》|想《そう》でも強迫観念でもありません。大助兄さんはどこにいても、家中のものの行動をちゃんと知っているのです。そして、わたしたちのあいだに、どのようなことが話されているか、そして話のうらにどういう意味がかくされているか(何もかくされてはいやしないのに)それを嗅ぎ出そうとして、じっと見えぬ眼を見張っているのです。いったい、大助兄さんは何を嗅ぎ出そうとしているのでしょう。  いちばんお気の毒なのはお嫂さまです。 「いいえ、なんでもないのよ。夏痩せよ」  お嫂さまはそうおっしゃいます。しかし、お嫂さまのあのひどい|窶《やつ》れかたが、夏痩せなどという単純なものでないことは、わたしにはちゃんとわかっています。  このあいだ、お祖母さまが、声をひそめて(ちかごろではおうちの人と話をするときは、いつでも声をひそめるのです。こんな癖がついてしまったのです)こんなことをおっしゃいました。 「ねえ、鶴代、大助と梨枝のことだがねえ」 「ええ……」  わたしも、あたりを|憚《はばか》るような声で返事をすると、お祖母さまの口許を視詰めました。お気の毒にお祖母さまも、ちかごろ俄かに年寄られました。お祖母さまはちょっとためらっているふうでしたが、やがて思いきったように、 「あの二人は、ちっとも夫婦らしくないじゃないの。寝床なんかも別々にしてさあ。あの年頃で子供もないのに、別々の寝床に寝るなんて、お祖母さまは腑に落ちないよ」  わたしは顔が赤くなりました。そしてずいぶんひどいお祖母さまだと思いました。だって、わたしのような子供をつかまえて、そんな露骨な話をなさるんですもの。でも考えてみると、これはいちばん深刻な問題かも知れません。そして、事が深刻なだけに、ほかの人には打ち明けかねて、わたしのような子供でも相手にして胸の屈託を打ち明けたくなられたのでしょう。そう思ったものだから、わたしは素直にお祖母さまのいうことを、きいてあげることに致しました。 「お祖母さま、夫婦が別々の寝床に寝ちゃいけないの。だってお兄さま、帰っていらしたときとてもつかれていらしたでしょう。だから一人でおやすみになったのが、そのまま習慣になったのじゃないかしら」 「ええ、それゃ……別々の寝床に寝たってかまやアしないよ。わたしにはねえ……」  と、お祖母さまは口ごもって、 「大助がかえって来てから、ふたりはまだ夫婦になっていないのじゃないかと思われるのだよ」 「あら」  わたしはまた赤くなりました。 「ひどいお祖母さま。だって、そんなこと、どうしてわかるの」 「それはわかりますよ。お祖母さまぐらいの年頃になればいろんなことがわかります。だけど、どっちが悪いのだろう。大助が梨枝を嫌うはずはないし、それに長いあいだ女っ気なしの不自由なくらしをして来たのだろうからね」 「お嫂さまだって、お兄さまを嫌うわけはないでしょう?」 「そう、だからおかしいのだよ。とにかく大助はすっかり人間が変わったようだね」  お祖母さまはそういって、溜め息をお|吐《つ》きになりましたが、最後の一句を聞いたとき、わたしは何か恐ろしい戦慄が、背筋をつらぬいて走るのを、どうすることも、出来ませんでした。        〇 (昭和二十一年八月十五日)  お兄さん、このまえの手紙によって、わたしが何を考えているか、おわかりになったことと思います。それについてのお兄さんの非難の、お手紙もたしかに拝見いたしました。むろん、わたしの考えはバカげたことだと思います、そんな恐ろしいことがある筈はなく、また、あってはならぬと思います。  しかし、兄さん。ああいう懼れを抱いているのは、わたし一人ではないのです。お嫂さまがやっぱり、同じような恐怖をいだいていらっしゃるのです。お嫂さまはそのことを、極力かくしていらっしゃいますけれど。  昨日のことでした。わたしはふとお嫂さまがぼんやりと座敷に立っているのを見受けました。まえにもいったように、お嫂さまはこのひと月ほどのあいだに、まるで痩せておしまいになって、そうして薄暗い座敷のなかにぼんやり立っているところを見ると、幽霊かなんぞのように見えるのでした。 「お嫂さま、何をしていらっしゃるの」  わたしはそうっとうしろによると、あたりを憚るような声でそういいましたが、それでも、お嫂さまにとっては、爆弾でも破裂したような物音にきこえたらしく、とびあがるような恰好でふりむきました。そして、わたしだとわかると、弱々しい微笑をうかべながら、 「まあ、いやな人、だしぬけにびっくりさせるんですもの」 「あら、ごめんなさい。あたし、そんなつもりじゃなかったけど。お嫂さま、こんなところで何をしていらしたの?」 「あたし?」  お嫂さまは長い首をかしげて、じっとわたしを見ていらしたが、たゆとうような微笑を頬にきざむと、 「あたしねえ、この屏風を見ていたのよ。ほら、この葛の葉を……」  わたしはぎょっとして、お嫂さまのうしろに眼をやりました。いつかお祖母さまが蔵のなかから取り出させた葛の葉屏風は、いまでも座敷においてあります。ほのぐらい座敷のなかで、屏風の葛の葉がまるでお嫂さまと影を重ねたように、あわれにはかなく見えました。 「まあ。この葛の葉を……お嫂さま、この葛の葉がどうかしたんですの」  わたしは、さぐるようにお嫂さまと葛の葉を見くらべました。 「鶴代ちゃん、この葛の葉、悪い|辻《つじ》|占《うら》だったと思わない? ねえ、この葛の葉には、瞳がないわね。そしてうちのお兄さんにも……」  お嫂さまの声はかすかにふるえておりました。そしてひとりごとをいうように、 「お兄さんは、どうして瞳をなくされたのでしょう。あのガラスの眼が入るまえには、どんな瞳があったのでしょう。もしや……」 「お嫂さま!」  わたしは思わず呼吸をはずませました。しかし、呼吸を弾ませたとはいうものの、声を押しころすのを忘れはしませんでした。 「それでは、お嫂さまもやっぱり……お嫂さま、何か思いあたる筋があるんですの。お兄さんの様子に、何かおかしなところがあるんですか」  お嫂さまはぎょっとしたように、わたしの顔を見直しました。お嫂さまの眼はずいぶん大きく見えました。わたしはお嫂さまの眼のなかへ吸いこまれるのじゃないかと思ったくらいです。お嫂さまはわたしの手をとって、 「鶴代ちゃん、あなたがなんのことをいっているのか、あたしにはわかりません。でも滅多なことをいうのは慎しみましょうね。自分が苦しいからって、ひとのことをとやかくいうのはよくないわ。でもねえ」  お嫂さまはまたほうっと、世にも切なげな溜め息をつくと、 「この屏風がいけないのよ。この屏風が、よけいな空想をあおってあたしを苦しめるのよ。この葛の葉は狐なのね。ほんとうの葛の葉姫じゃないのね。でも、信田の森の狐が葛の葉姫に化けて安倍の保名と契ったのは、悪意からではなかったし、それに保名は男だから妻と思ってほかの女と契っても、それほど面目にはかかわらないわね。でも……女はどうなるの、良人だと思った人が良人ではなく、あかの他人だったらどうなるの。そんなことがあったら、女はとても生きていられないわ」  兄さん、おわかりになって? これでわたしと同じような懼れをいだいているひとが、ほかにもあるということを……しかも、これは大助兄さんをいちばんよく知っている筈のお嫂さまなのです。いえ、いえ、お嫂さまやわたしばかりではなく、お祖母さまも、やっぱり同じ疑いをいだいていらっしゃるのではないでしょうか。いまにして思えば、大助兄さんが還って来た日、表に立っていたおりんさんの、焦げつくような視線も合点がいくように思われます。また大助兄さんが伍一さんの最期の模様をきかせてあげたとき、かえりに洩らしたおりんさんの、あの気味の悪い薄笑い。……ああおりんさんはわたしたちより前に、あの人、ガラスの眼を持ったあの人の正体を看破っていたのではありますまいか。即ち、おりんさんはあの人が、大助兄さんではなく、自分の弟の伍一さんであることを知っていたのではありますまいか。  兄さん、助けてください! こんな状態がながくつづいたら、わたしは死んでしまいます。いえいえ、わたしよりまえに、お嫂さまが気が狂うか、死んでしまいなさるでしょう。わたしははっきり知りたいのです。いまうちにいる人は、ほんとうに怪我で両眼をうしなったのか。それとも大助兄さんと伍一さんを区別出来る唯一の特徴を、わざとくり抜いたのではありますまいか。そして、モンドーとやらで戦死したのは、伍一さんではなく、大助兄さんだったのではありますまいか。  ああ、恐ろしい! こんなことを考えるだけでも、わたしはもう気が狂っているかも知れません。兄さん、何か智恵をかしてください。あの人がほんとうに大助兄さんであるか、——|贋《にせ》|物《もの》であるか。それがハッキリわかるまで、わたしたちは永遠に地獄から抜け出すことが出来ないでしょう。        〇 (昭和二十一年八月二十三日)  兄さん、有難うございました。兄さんはやっぱり智恵者ねえ。あたしたちどうして簡単なことに気がつかなかったのでしょう。  ええ、覚えていますわ。あれ、かたしろ|絵《え》|馬《ま》というのですわ。戦争へいくまえ、絵馬にべったり右の手型を押して御崎様へ奉納する。つまりその絵馬を自分のかたしろになるようにという信念なんですわ。大助兄さんも出征まえにかたしろ絵馬を奉納したこと、わたし、よく覚えていますよ。大助兄さんが白木の絵馬にべったり右の手型をおしてそれに|新《しん》|田《でん》のおじさまが武運長久というような文字をお書きになったのを、わたし、いまでも昨日のことのように憶えています。  ええ、あの絵馬はいまでも御崎様の絵馬堂にあるにちがいありません。絵馬の裏には大助兄さんの名前が入っているから、間違える筈はありません。秋月の伍一さんがかたしろ絵馬を奉納したかどうかは、わたしも存じません。でも、そのことはどちらでもよいのではありませんか。大助兄さんの絵馬さえあれば、間にあうのではありませんか。  ええ、人間の指紋がひとりひとりちがっていて、そしてその指紋は永久にかわらないということ、わたしも何かで読んだことがあります。だから、たとい伍一さんの絵馬はなくとも、大助兄さんの絵馬さえあれば、わたしたちのこの恐ろしい疑問に終止符を打つことが出来るのですわ。  今夜お杉にたのんで、御崎様の絵馬堂から、こっそり大助兄さんの絵馬を持って来てもらいます。いいえ、大丈夫。お杉には何かほかの口実をもうけて、決してほんとのことは申しません。わたしがいけるとよいのですけれど、こんな体だもんだから、御崎様のあの急な坂をのぼるなどとても。大丈夫、大丈夫、お嫂さまにもお祖母さまにも、決してしゃべりは致しません。ことがハッキリするまでは。……  大助兄さんの指紋は、折りを見てうまくとります。決してヘマはやりませんから御安心下さいませ。では……        〇 (昭和二十一年八月二十四日)  兄さん、助けて!  お杉は死にました。御崎様の|崖《がけ》から落ちて。お杉は昨夜、わたしのいいつけで、御崎様の絵馬堂へ、かたしろ絵馬をとりにいったのです。そしてそのまま、かえりませんでした。  今朝、田口の実つぁんが、崖の下にお杉の死骸を見つけて|報《し》らせてくれました。誰もお杉が絵馬堂へ、絵馬をとりにいったことを知りません。だから、なぜあんなところへ出かけたのか、不思議に思っている様子です。  絵馬はどうなったか、あたしにはわかりません。まだ絵馬堂にブラ下がっているのか、それともお杉がとってかえるところを、誰かに奪われて突き落とされたのか。……  兄さん、怖い、わたしは怖い。  お杉のお葬式は明後日です。それを口実に、兄さん、いちどかえって来てください。  鶴代は、もう気が狂いそう。     大惨劇 [#地から4字上げ]付、鶴代の疑惑いよいよ募ること        〇 (昭和二十一年八月二十九日)  兄さん、おつかれではありませんか。でも、思いのほかお元気のお顔色を見て、わたしもどんなに心強くかんじたか知れません。兄さん。ほんとにお大事にね。秋までにはすっかりよくなって、この家へかえれるようになってください。兄さんがいるといないとでは、この家の明るさがどんなにちがうか、今度のお葬式でしみじみと感じました。  鶴代もおいおい落ち着いています。でも、もう何もかんがえるなと兄さんはおっしゃったけど、そのことばかりは鶴代には無理です。あの事がどっちかへ解決するまでは、わたしはとても、ものを考えずにはいられません。兄さんがかえっていらしたら、いろいろ御相談しようと思っていたことも、人眼が多くて果たされず、ちかごろはいっそうもの思う子になってしまいました。  兄さんにはまた叱られるかも知れませんけれど、物いわねば腹ふくるるわざなりとかや、そしてわたしのものをいう相手は、兄さん、あなたよりほかにはないのです。どうぞ兄さん、お叱りにならないで、わたしのとりとめない物思いをきいてください。  お杉はほんとうにあやまって、崖からころげ落ちたのでしょうか。いえいえ、それではあまり恐ろしい偶然です。わたしにはやっぱり誰かに、突き落とされたとしか思えません。  では、誰がお杉を突き落としたのか。そして、なんのために。……わたしには第一の問いはわかりません。しかし第二の問いはわかるような気がします。お杉はあの絵馬のために殺されたのだ。と、いうことは、お杉を殺したひとにとっては、お杉がその絵馬を持ってかえっては都合がわるいことがあったのだ。では、なぜ都合が悪かったのか。それはもういうまでもありません。絵馬の手型と、うちにいるあのガラスの眼を持ったひとの手型と、くらべられたら困るのだ。と、いうことは、即ち、あのガラスの眼のひとは大助兄さんではないのだ。やっぱり秋月伍一さんなのだ。  兄さん、あなたはよくわたしのことを、女のくせに理窟っぽくて、理論の遊戯にふけりすぎると非難なさいましたね。だからわたしも出来るだけ、自分のそういう習癖をつつしんでいるのですけれど、この場合、どうしても理論癖を出さずにはいられません。しかし、それは決して遊戯ではなく真剣なのです。生きるか死ぬかの問題なのです。  さて、以上のように考えて来ると、お杉が絵馬を持ってかえったら、誰が一番困るかということも、わかって来ます。それはガラスの眼をもったあの人、大助兄さんの替え玉を演じている伍一さんよりほかにはありません。そしてあの人ならば、お杉が絵馬をとりにいくということも、なぜその絵馬が心要だかということも、知る機会があったのです。  いつかのお手紙にも書きましたわね。あの人はどこにいても、家のなかでどのような事が話されているか知っていると。そうなんですわ。あのひとはきっと、わたしがお杉に絵馬をとって来てくれるように頼んでいるところを、ぬすみぎきしたにちがいない。そしてすぐその意味をさとったにちがいない。しかし、ここで問題になるのは、あのひとが盲目だということです。あの人にお杉をつけていって殺そうという意志はあっても、それを実行することは、あの人にとっては不可能なのです。俄か盲目のあのひとは手引きなしでは一歩も外へ出られないんですもの。  ……だが。  ここまで考えて来たとき、ハタとわたしは思いあたったことがあります。そうです。お杉が死んだまえの日、即ちわたしがあのことをお杉に頼んだ日の夕方でした。わたしは庭の奥で垣根越しに、あの人が誰かと立ち話をしているのを見受けました。それは低い、あたりを憚るような声だったので、話の内容まではわかりませんでしたが、相手が秋月のおりんさんだと気がついたときには、なんともいえぬ異様な胸騒ぎをかんじたことを覚えています。  あのときなのだ。ガラスの眼をもったあの人が、おりんさんにお杉を殺すことを頼んだのは。  ……そういえば、おりんさんと別れて、こっちへ引き返して来たときあの人の顔は、なんともいいようのないほど|凄《すさ》まじかった。……  ああ、恐ろしい。  お杉を崖から突き落としたのは、おりんさんなのだ。おりんさんと伍一さんがぐるになって、この家を乗っとろうとしているのだ。おりんさんのお父さんが、うちのお父さんを怨んで車井戸へ身を投げたことは、小さい時分わたしも誰かにきいたことがある。おりんさんのお母さんも、一年後に同じ井戸へ投身自殺をしたという。  おりんさんと伍一さんは、姉弟で両親の遺志をついでこの家に復讐しようとしているのだ。それだのに、わたしたちには何も出来ない。兄さん、兄さん、しっかりしてください。わたしたちの頼りになるのは、慎吉兄さん、あなたひとりなのです。  それにしても、大事な絵馬はどこへいったのだろう。……        〇 (昭和二十一年八月三十日)  昨夜から今朝へかけて、恐ろしいことが、二つありました。  そのひとつは昨夜、真夜中ごろに泥棒が入ったことです。それに気がついたのはわたしでした。お祖母さまは日頃はいたって目ざとい人なのですが、ちかごろめっきりお年をめして、昼間でもどうかすると、うたたねをなさることがあります。だから、そのときもお祖母さまよりも、わたしのほうがさきに眼がさめたのです。  そのとき、わたしは苦しい夢を見ていました。それはお座敷にかざってある屏風から、葛の葉が抜け出して来たかと思うと、いつの間にやらそれが、大助兄さんのすがたになり、あの無気味なガラスの眼で、じっとわたしを睨んでいるのです。  ハッとしてわたしは眼がさめましたが、するとそのときどこかで雨戸をこじあけるような物音がきこえました。はじめのうちわたしは、|鼠《ねずみ》がどこかを|齧《かじ》っているのかと思いましたが、そのうちにゴトゴトと雨戸をあける音がしたので、思わずギョッと寝床のうえに起きなおりました。 「お祖母さま、お祖母さま」  隣の部屋へ声をかけましたが、お祖母さまの返事はありません。スースーと規則正しい寝息がきこえるばかりです。わたしは怖くなったものだから、|襖《ふすま》をひらいてソッとお祖母さまの部屋へすべりこみ、|蒲《ふ》|団《とん》のうえからお祖母さまをゆすぶりました。幸いお祖母さまはすぐ眼がさめてくださいました。 「お祖母さま。変な音がするのよ。|母《おも》|屋《や》の方で……」  わたしはお祖母さまが何かおっしゃろうとなさるまえに耳に口をあててそう囁きました。お祖母さまはすぐハッと寝床のうえに起き直ると、 「変な音って、どんな音……?」 「雨戸をこじあけるような音よ。たしかに、お座敷のほうよ」  お祖母さまはじっと聞き耳を立てていらっしゃいましたが別に怪しい音もきこえません。 「鶴代、鼠じゃなかったの」 「いいえ、鼠じゃありません。わたしもはじめはそう思ったんですけど、たしかに雨戸をあける音がしたのよ」  お祖母さまはちょっと考えてから、 「そう、それじゃいってみましょう」  お体のほうはちかごろめっきりお弱りになったようですけれど、気性は昔どおりしっかりしたお祖母さまでした。手早く帯をしめなおすと、そっと襖をおひらきになりました。わたしも怖かったけれど、ひとり取り残されるのはいっそう怖いので、お祖母さまのあとについていきました。  渡り廊下をわたって、蔵のお部屋から母屋のほうへ来ると、御不浄のそばの雨戸が一枚あいています。わたしは心臓をドキドキさせながら、しっかりお祖母さまの手をにぎりました。お祖母さまはえらい人です。ふつうの人ならこんなとき、すぐにも騒ぎ立てるのでしょうが、お祖母さまははんたいに、足音をしのばせて、お座敷の障子のそとへちかづいていき、障子にはめたガラス越しにそっと中をお|覗《のぞ》きになりました。わたしもお祖母さまの真似をして、座敷のなかを覗いてみました。  むろん、座敷のなかは電気が消してあります。しかし雨戸と障子がいちまいずつ開いているので、外の光がさしこんで、おぼろげながらも物の形が見えます。このお座敷に葛の葉屏風が立ててあることは、兄さん、あなたも御存じでしょう。その葛の葉屏風のまえに、誰か人が立っているのです。むろん、誰だかわかりません。しかしぼんやり浮き上がったうしろ姿からして、まだ若い、男の人のように思われました。不思議なことに、その人はよねんもなく屏風のおもてを視詰めているのです。まるで屏風の葛の葉に、魅入られたように、|茫《ぼう》|然《ぜん》として立ちつくしているのです。 「誰? そこにいるのは?」  突然、お祖母さまが声をおかけになりました。低いが鋭い、力のこもった声でした。屏風のまえに立っていた男はそれをきくと弾かれたように振り返り、それから、開いていた障子のすきから縁側へとび出し、雨戸から外へ逃げていきましたが、あまりあわてたので、お座敷の|餉台《ちゃぶだい》に向こう|脛《ずね》をぶっつけたと見えて、ものすごい音を立てたうえに、いかにも痛そうに|跛《びっこ》をひいているのがおかしな|恰《かっ》|好《こう》でございました。  この物音でつぎの間に寝ていた大助兄さんやお嫂さまも眼がさめたと見えて、パチッという音とともに、欄間の|隙《すき》|間《ま》から光がさしましたが、やがてお嫂さまが、あいの襖をひらいて出ていらっしゃいました。 「まあ、お祖母さまですの。いまの物音はなんでございました」 「泥棒ですよ」 「泥棒?」 「ええ、そこの雨戸をこじあけて入って来たのです。よい按配に鶴代が眼をさましてくれたので、何もとられずにすんだようだが、……鶴代、電気をつけてごらん」  電気をつけると、縁側から土足の|足《あし》|痕《あと》が屏風のまえまでつづいておりましたが、別になくなっているものはないようでした。 「まあ、気味の悪い。あたし、ちっとも気がつきませんで……」 「気をつけなければいけませんよ。あなたがたの寝息をうかがっていたようです」 「あら、いやだ」 「でも、もう大丈夫、ああして逃げ出したのだから、戻って来るようなことはありますまい。戸締まりを厳重にして早くおやすみなさい」  不思議なことには、こういう騒ぎのあったあいだ、大助兄さんは起きて来ようともしませんでした。それでいて眠っているのではありません。襖のすきからつぎの間をのぞいてみると、さやさやと揺れている白い|蚊《か》|帳《や》のなかに、大助兄さん起きなおって、じっとこちらの話に聞き耳を立てているのです。あの気味の悪いガラス眼を、蚊帳ごしにまじまじとこちらへ向けたまま。……寝床がふたつ並べて敷いてありました。  これが昨夜起こった第一の出来事ですが、第二の出来事というのは、それから半時間もたたぬうちに起こりました。  泥棒騒ぎがおさまったので、わたしたちは土蔵のお部屋へかえりましたが、昂奮したせいかすっかり眼が冴えて、どうしても眠れそうにありません。|輾《てん》|転《てん》反側しているうちに、わたしは、またもや異様な物音を耳にしました。今度もまた母屋のほうで、それは押し殺した苦痛のうめき声のようでした。わたしはハッと寝床のうえに起きなおりましたが、その気配にお祖母さまが隣の部屋から声をおかけになりました。 「鶴代、おまえにもきこえるの、あの声……」 「ええ、お祖母さま、あれ、なんでしょう。ひょっとしたら泥棒がひっかえして来たのじゃ……」 「いってみましょう」  わたしたちはまた母屋へしのんでいきました。雨戸にはなんの異状もありませんでしたが、|呻《うめ》き声はたしかに座敷の奥、大助兄さんの寝室からきこえて来るのです。そっと座敷の障子をあけると、寝室には電気がついているらしく、欄間のすきから雲型の光が天井にうつっています。呻き声はどうやらお嫂さまのようでした。 「大助、梨枝さん。何をしてるの。何があったの?」  さすがにお祖母さまもぎょっとしたらしく、口に袖をあてて、あたりを憚るような声でした。しかし、寝室からはなんの返事もなく、ただ、押し殺したようなお嫂さまの呻き声がきこえるばかり、いえいえ、それにまじって大助兄さんの、ハアハアというはげしい息遣いと、畜生ッとか、うぬッとかいうような低い、憎しみに充ちた声がきこえるのです。  お祖母さまはさすがに躊躇なさいましたが、あまり様子が変なので、捨てておけぬと思われたのでしょう。あいの襖に手をかけると、そっと細目にひらいてごらんになりました。わたしもお祖母さまの袖の下から、そっとなかを覗きましたが、そのとたん、みぞおちのあたりがジーンと固くなるような、もの恐ろしさを感じたのでした。  蚊帳のなかではお嫂さまが、上半身裸にされて、お兄さまの膝の下に、うつむけに組み伏せられているのです。お兄さまはお嫂さまの手を、いまにも折れはしないかと思われるほどはげしく逆に|捩《ね》じあげて、そして片手の掌で、お嫂さまの右の脇腹をしきりに撫でているのです。ああ、そのときのお兄さまの顔、それこそ地獄の鬼のように、何んともいえぬほどもの|凄《すさ》まじい顔でした。 「まあ、大助!」  お祖母さまは思わず大きな声をお立てになりました。 「おまえ、何をしているの!」  大助兄さんはその声に、はじめてわたしたちに気がついたのか、ガバとお嫂さまのうえからとびのくと、 「おれは眼が見えない。ああ、おれは眼が見えないのだ!」  絶叫するようにそう叫ぶと、両手で髪の毛をかきむしりました。お嫂さまは死んだようにぐったりしたまま、身動きもいたしません。解けた髪の毛が、からす蛇のように白いシーツのうえをのたくって、お嫂さまが|嗚《お》|咽《えつ》するたびにひっくひっくと動きます。お嫂さまはいつまでも嗚咽しつづけていらっしゃいました。  兄さん、これはまたどうしたことなのでしょう。お嫂さまは今朝|蒼《あお》い顔をして起きて来ましたが、お祖母さまがどんなにお|訊《たず》ねになっても、昨夜のことのわけを語ろうとはなさいません。大助兄さんは、寝室へとじこもったきり出て来ようとも致しません。  昨夜の泥棒とこのことと、何か関係があるのでしょうか。と、すればあの泥棒はいったい誰だったのでしょう。わたしにはわからない。なにもかもわからない。唯わかっていることは、何かしら恐ろしいことが、いまに起こるだろうということ。……  ああ、ああ、ああ、いったい何が起こるというのでしょう。        〇 (昭和二十一年九月二日)  兄さん、大変です、お嫂さまが殺されました。大助兄さんは行く方がわかりません。お祖母さまは驚きのあまり倒れてしまいました。  この手紙持参の鹿蔵の自転車に乗っけてもらって、すぐ帰って来て下さい。     新聞の語る事実 [#地から4字上げ]付、容疑者逆転又逆転のこと (昭和二十一年九月三日付新聞切り抜き) [#ここから3字下げ]  大暴風雨の殺人    被害者は素封家の妻 [#ここで字下げ終わり]  昨二日|払暁《ふつぎょう》、二百十日の大暴風雨のなかに、恐ろしい殺人事件が発見された。被害者は県下K郡K村の素封家本位田大助妻梨枝(二四)で、寝室においてズタズタに斬られて死んでいるのが、二日朝義妹本位田鶴代(一七)によって発見された。急報によって駆け着けた係官の発表によると、兇行は大体真夜中の十二時ごろ演じられたものと信じられるが、ここに不思議なのは、被害者梨枝の良人本位田大助氏(二八)の行く方がわからないことで、大助氏は本年七月南方より復員したばかりの戦盲者で、介添えなしでは一歩も外出が出来なかったという。|尚《なお》、同家祖母槙(七八)、大助、梨枝、鶴代のほかに下男鹿蔵の五人暮らしだが、この大惨劇を朝まで誰も気付かなかったのは、昨夜の大暴風雨のため、悲鳴がきこえなかったためであろうといわれている。        〇 (昭和二十一年九月四日付新聞切り抜き) [#ここから3字下げ]  良人も井戸の中に    屏風のうえにべっとり血の手型 [#ここで字下げ終わり]  既報K村の素封家本位田家の殺人事件において、失踪中の主人大助氏の行く方厳探中のところ、意外にも二日夕刻ごろにいたって、同家裏庭にある車井戸のなかより、死骸となって発見された。大助氏は心臓を|抉《えぐ》られた後、井戸の中に投げ込まれたらしいが、兇器はまだ発見されていない。尚犯人の遺留品とおぼしきものとしては、兇行のあった寝室の隣座敷にある同家秘蔵の屏風のうえにべったりと血染めの手型がついているのが発見され、これが犯人のものとすれば、事件解決は案外早かろうといわれている。当局では早くも犯人の目星がついたらしく大活動を開始した。        〇 (昭和二十一年九月五日付新聞切り抜き) [#ここから3字下げ]  犯人は家庭の中に?    複雑な本位田家の内部事情 [#ここで字下げ終わり]  K村の本位田家殺人事件については、その後、俄然、局面が一転した模様である。|先《ま》ず犯人唯一の遺留品として希望を持たれたかの屏風のうえの手型は、その後調査の結果、被害者本位田大助氏のものであることが判明した。また、当局必死の捜査の結果、同家裏庭の|草《くさ》|叢《むら》の中より、兇器として用いられたと覚しき貞宗の短刀が発見されたが、この貞宗は本位田家所有のもので、常に座敷の床の間に飾られてあったという。但し、その短刀がいつごろより紛失したか、誰も記憶している者はない。しかし、これらの点より見れば、犯人は本位田家内部にあるのではないかという臆測も考えられる。当局でも一応その点を考慮に入れたと見え、家人はきびしい追及をうけたが、いまのところこれという確証もあがらぬ模様である。ただ、被害者大助氏の弟慎吉氏(二五)はK村より六里はなれたH療養所に長く入院中で、事件の翌日、妹鶴代の手紙によって急ぎ帰宅したといわれるが、その点に疑問を持たれ、H療養所を調査したところ、二日夜のアリバイは完全に証明されたという。又二日朝下男鹿蔵が濡れ鼠になっていたこと、自転車が泥まみれであったことなどに疑問が持たれたが、これは事件発見直後鶴代の命令によって雨風を冒し、H療養所まで慎吉氏を迎えにいったためであることが判明した、唯祖母の槇|刀《と》|自《じ》は大助氏のまだ復員せず生死不明であったころ、梨枝と慎吉氏を夫婦にしようという|肚《はら》を持っていたらしく、こういうところに兇行の原因があるのではないかといわれている。        〇 (昭和二十一年九月六日付新聞切り抜き) [#ここから3字下げ]  被害者は果たして大助か?    本位田事件の奇怪な新事実 [#ここで字下げ終わり]  本位田の二重殺人事件について、又々奇怪な新事実がとび出した。この新事実を暴露したのは、同村に住む秋月りん(三五)という婦人で、彼女の語るところによると、こうである。  秋月りん女談。殺されたのは大助さんではありません。あれは私の弟の秋月伍一です。大助さんと伍一とが、生き写しであったことは村の人はみんな知っています。見て下さい。戦争中大助さんと伍一のならんで写した写真がありますがそっくりでしょう。唯ちがっているのは、伍一の瞳が二重になっているのに、大助さんはふつうの眼を持っていることです。だから伍一は大助さんが戦死すると、自ら眼玉をくりぬいて大助さんになりすましたのです。何故そんなことをしたかというと、本位田家に復讐するためで、あの子も本位田家の先代大三郎さんの落し|胤《だね》だのに、不当に扱われて来たからです。では、犯人は誰かというのですか。それはいうまでもありません。本位田一家が全部共謀でやったことです。慎吉さんのあの夜の行動をよく調べて下さい。きっと療養所を抜け出してこの村へかえって来たのにちがいありません。自転車を利用すれば往復五時間もあれば大丈夫です。あの人はこっそり療養所を抜け出し、兄を殺し井戸へ投げ込み、夜明けまえにこっそり療養所へかえっていったのです。梨枝さんを殺したのは、現場を見られたか、それとも行きがけの駄賃にしたのでしょう。云々。  しかし調査の結果、りん女のこの告発は、根拠のないものであることが判明した。既報のとおり慎吉氏のアリバイは完全に立証されている。慎吉氏は五時間はおろか、二時間も療養所をあけなかったことが、当夜の宿直看護婦二名によって証明されている。療養所では一時間ごとに宿直看護婦二名が患者の寝室を巡廻するのだが、慎吉氏はいつも寝室におり、当夜は不眠をうったえて睡眠剤などを請求している。  尚、りん女の告発によって問題となった被害者の両眼については、ここに一つの興味ある事実がある。被害者は両眼に義眼をはめていたが、発見された死骸からは右の義眼がひとつ失われていた。しかも本位田家の邸内は|隈《くま》なく捜索されたにも拘らず、いまだ義眼は発見されていない。義眼よ、いずこ。|或《ある》いはそんなところに事件解決の鍵があるのではなかろうか。        〇 (昭和二十一年九月七日付新聞切り抜き) [#ここから3字下げ]  犯人前科者か    本位田家事件又逆戻り [#ここで字下げ終わり]  K村の本位田家殺人事件については、俄然有力な新容疑者が浮きあがって来た。新容疑者とは同村に疎開中の小野宇一郎(六四)長男昭治(二五)で、同人は前科三犯、しかも本年六月六日、偽名を名乗って収容されていたO刑務所未決監房を破って脱走、かねて手配中の人物である。当局では親許に立ち廻るのではないかと、脱獄以来警戒中のところ、俄然、本位田事件のあった二日早朝、同人を現場付近で見たという証人が現われた。又本位田家では惨劇のあった四日まえ、即ち八月二十九日深更、泥棒に押し入られたという事実があるが、その泥棒も小野昭治であったろうといわれている。尚、小野一家には本位田家に対して深い怨恨があるらしく、当局では目下鋭意該人物を捜索中。        〇 (昭和二十一年九月十日付新聞切り抜き) [#ここから3字下げ]  本位田事件容疑者逮捕    逃れぬ証拠はポケットの義眼 [#ここで字下げ終わり]  県下K郡K村に起こった本位田家殺人事件の重大容疑者として手配中の小野昭治は、O市の知人宅に潜伏中のところを逮捕された。昭治は警察へ連行されると直ちに身体検査をされたが、意外にも上衣ポケットの破れ穴より一個の義眼が現われて当局を緊張させた。思うに被害者本位田大助氏の死骸を井戸へ運ぶ途中、義眼がはずれてポケットへ|滑《すべ》りこんだのを、いままで気づかなかったのであろうといわれ、この義眼にして大助氏のものと判明すれば、事件は急速度に解決へのみちを|辿《たど》るべく、本人の自供も案外ちかいのではないかと信じられている。        〇 (昭和二十一年九月十二日付新聞切り抜き) [#ここから3字下げ]  小野昭治犯行を自認    凄惨な本位田事件の真相 [#ここで字下げ終わり]  本位田家殺人事件の重大容疑者として逮捕された小野昭治(二五)は、十一日夜にいたって一切の犯行を自供した。ここに本人の自供をもととして、凄惨な本位田事件の輪廓を描いてみると、つぎの如くである。  小野昭治の生家小野家というのは、本位田家とともにK村の名家であったが、本位田の先代大三郎氏、先々代庄次郎氏の辣腕により、小野家の資産はすっかり奪われ、昭治の父宇一郎の代にいたって、郷里を捨て神戸へ出るのを余儀なくされた。爾来三十年、神戸において一通りの成功をおさめた宇一郎は戦災のため再び無一物となり、K村へ舞いもどったが郷里の人情は失敗者に対して冷たかった。ことに本位田家では三十年以前宇一郎より預かった家宝の屏風を横領したまま、言を左右にして返却しようとせず、小野一家は多くの子弟をかかえて糊口に窮する有様だった。O刑務所を破ってひそかに父の許へ舞いもどった昭治は、これらの事情をきくや、本位田家に対して含むところ深くここに一家|鏖《おう》|殺《さつ》を決意するに至ったのである。  つぎに昭治の計画と犯行の|顛《てん》|末《まつ》を述べるに次の如くである。八月二十九日深更、かれは第一回の本位田家襲撃を試みたが、この時はふいに家人にとがめられて|狼《ろう》|狽《ばい》のあまり一旦逃げ出した。但し、床脇にあった貞宗はそのとき持ち去ったものという。越えて九月一日夜、折りからの二百十日の大暴風を幸いに忍びこんだ昭治は、以前来たときに見定めておいた大助氏夫婦の寝室へ忍び入り、まず熟睡中の妻梨枝を滅多斬りにした。その物音に眼覚めた大助氏は、盲目ながらも血の匂いに驚いたのか、蚊帳よりとび出し、つぎの間の屏風のまえまで逃げのびたが、そこを追いすがった昭治に一突き、心臓を抉られたのである。血に狂った昭治は、更に他の家人のありかを探し求めたが、幸か不幸か大助の祖母槇、妹鶴代は離れの土蔵の中に就寝中のため、危うくこの難をまぬがれたのである。昭治はかれらを発見出来ぬと知るや、大助の死骸を抱いて車井戸に投じ、兇器を草叢のなかに投じて逃走したが、その際被害者の義眼がポケットの中へ滑りこんだことは夢にも知らなかったという。以上が凄惨なる本位田家殺人事件の真相である。     恐ろしき妹 [#地から4字上げ]付、鶴代真相を語ること、並びに慎吉付記のこと        〇 (昭和二十一年十月七日)  このあいだから思いみだれ、悩みまどうて来たこの気持ちを、今日はなんとかして一篇の手記にまとめあげたいと、病みほうけ、起きあがるかいもない体でこうして机に向かいました。こうして同じ屋根の下に住むようになった兄さんに、手紙を書くということはおかしなことです。しかし、これ以外に鶴代のいまのこの気持ちを、兄さんにおつたえするすべを知りません。しかも、いまのうちにそれを果たしておかなければ、もうすぐ遅過ぎることになるであろうことも、鶴代はよく知っております。大助兄さんの復員以来、|猜《さい》|疑《ぎ》と恐怖と緊張に、いためつけられて来たわたしの心臓はあの大惨事の際、一瞬にして鼓動を停止するかと思われました。それをいままでつなぎとめて来たのはひとつに自分の責任感からでした。お祖母さまがお倒れになった、せめて自分だけでもしっかりしていなければならない。そういう自覚がからくも、かぼそいわたしの生命の根をつなぎとめてくれたのです。しかし、それももう限界に達しています。つい二、三日前に思いがけなくわたしを見舞ったあの恐ろしい発見、それはもう一挙にしてわたしの自信を粉砕してしまいました。ああ、ああ、わたしはもうこれ以上生きてはいけまい!  わたしが何を発見したか。それはこうです。  あれはさきおとといのことでした。|昏《こん》|々《こん》として眠りつづけるお祖母さまの枕もとに坐って、わたしはとりとめもなくものかなしい思いを、心のなかにつづっていたのです。兄さんはどこかへお出かけになって留守でした。鹿蔵は野良へ出ていきました。わたしは一人で窓の外に見える葉鶏頭の赤さを視詰めていました。と、その時なのです。わたしは自分の坐っている畳の、なんとなく坐り心地の悪いのをかんじました。はじめのうちは気にもとめず、二、三度座をずらせたりしていたが、どうしても坐り心地が悪いので、何気なく畳を見ると、少しばかり畳のはしが持ち上がっているのです。わたしは妙に思いました。お祖母さまはきちょうめんなかたで、畳なども一枚の板のように、ピッタリ合っていなければ気にすまぬかたです。いったい、何が畳の下に、はさまっているのであろう。……わたしは何気なく畳のはしを持ち上げたのですが、すると、その下に奉書の紙で包んだものがおいてあります。わたしは、なんとなくはげしい胸騒ぎをかんじました。こんなところに何がかくしてあるのだろう。  お祖母さまを見るとすやすやとよく眠っていらっしゃいます。わたしはうしろめたさを感じましたが、やっぱり好奇心のほうが強かったのです。わたしはそっとその包みを畳の下から取り出しましたが、板のような固い手触りが、はっとあるものをわたしに連想させました。わたしは急いで奉書の紙をひらいてみました。  それはやっぱり絵馬でした。しかも大助兄さんが出征するとき、御崎様へおさめたかたしろ絵馬、お杉がそれを取りにいって、崖から落ちて死んだあの絵馬なのです。  ああ、そのときのわたしの驚き! わたしはいまにも心臓の鼓動がとまるような気がしました。お祖母さまはどうしてこの絵馬を持っていらっしゃるのだろう。いえいえ、ここはお祖母さまのお部屋ですし、奉書に包んだ手際はたしかにお祖母さまだし、してみれば、これをかくしたのはお祖母さまにちがいございません。と、すれば、お祖母さまはどうしてこの絵馬を手にお入れなすったのだろう。わたしはなにかしら、わっと大声に叫びたいような恐怖にうたれたことでした。  このことがあってから、わたしは夜も昼もそれを考えつづけました。兄さんも御存じのとおり、わたしは何か気になることがあると、それがどっちかへ片付くまではどうしても落ち着くことの出来ない性質です。わたしは考えて、考えて、考えつづけました。そしてその揚げ句、すっとつぎのような結論に到達しました。  お祖母さまがお杉を突き落としたとは、どうしてもかんがえられません。お祖母さまは二、三年まえから歩行も不自由でめったに外へお出になることはなく、まして御崎様のあの急な坂をのぼることなど思いもよりません。で、誰かほかの人に頼んで、その絵馬をとって来てもらったのだろうか。しかし、そうなると、お祖母さまはこの絵馬の持つ意味を御存じだったということになりますが、いかに利口なお祖母さまでも、そこまで気がおつきになるとは思えず、もし、また気がついていたとしても、お祖母さまがこんな重大なことをお頼みになるほど信用出来る人は誰もいないように思われます。唯一人の兄さん、あなたをのぞいては。……  そこまで考えて来たとき、わたしはハッと思いあたることがありました。そうなのだ、この絵馬を持って来たのは兄さん、あなたなのだ。ではいつそれを持って来たのか。そこまで考えて来たとき、思い出したのは、お杉の災難があったとき、あなたが療養所からかえって来たことです。お杉が崖から落ちたことは、兄さん、あなたを驚かせました。もしや……という気が兄さんにも起こったにちがいありません。そこでそっと御崎様へいってみたところが、絵馬は絵馬堂にちゃんとのこっていた、ということは、お杉が崖から落ちたのは、絵馬とはなんの関係もなく、まったくの災難だったということを意味していないでしょうか。  そうなのです。わたしはいまこそ自分の恐ろしい思い過しに気がついています。わたしは馬鹿な娘だったのだ。ありもしないところに恐怖の楼閣をきずきあげて、勝手にその影におののいていたのです。そのことは絵馬の手型と葛の葉屏風にのこされた血の手型をくらべてみることによって一挙に解決されました。屏風にのこされた手型は、たしかに井戸の中から引き揚げられた死骸の手と一致すると警察ではいっています。そしてその手型と絵馬の手型は、ぴったり一致したのです。即ち、ガラスの眼を持ったあの人はやっぱりわたしたちの兄さんだったのだ。大助兄さんだったのだ。伍一さんなんかじゃなかったのです!  ああ、わたしはなんという娘だったのでしょう。真実の兄さんを他人と疑い、コソコソとその人の様子をうかがい、蔭口をきき、そのことによって大助兄さんを、いっそう不幸な孤独におとしいれていたのです。  ああ、わたしはなんという愚かな、悪い娘だったのでしょう。それはさておき、絵馬堂から絵馬を持ってかえった兄さん、あなたはなぜそのことをわたしに話さなかったのか。それもだいたい、わたしにはわかるような気がします。絵馬堂に絵馬があったことによって、あなたはひょっとしたらガラスの眼をもったあの人が替え玉であるかも知れない。そう考えたあなたは、それを確かめる大役を、わたしのような感じ易い、ものに驚き易い娘に託すことに危険をかんじられたのだ。そこでそれをこっそりお祖母さまに渡された。お祖母さまはいつか機会があったら、大助兄さんの、手型とひきくらべてみるつもりで、そっとかくしておかれたのだ。しかし……しかし……その機会が来たときは、大助兄さんはすでに死んでいた!  絵馬のことは、だいたいこれで解決がつきました。そして今度は、あの恐ろしい殺人事件です。  小野の昭治さんは、自分がふたりを殺したのだと告白したという事です。しかしわたしは、はじめからそんなこと嘘であることを知っていました。それを感じのうえでも知っていましたし、また理窟のうえでも辻褄のあわぬところがあるのです。昭治さんは八月二十九日の晩忍びこんだとき、貞宗の短刀を奪いとったといっています。ところが、わたしは九月一日の夜、その短刀がお座敷の違い棚のうえにあったことを、はっきり憶えているのです。  昭治さんは嘘をついているのです。誰かをかばうために、みずから犯人の役を買って出たのです。では、誰をかばっているのか。犯人はいったい誰なのか。  わたしはもう一度、事件当時の新聞を繰りかえし、繰りかえし読みました。そしてひとつの結論を得たのです。あの当時警察では、あなたに対して鋭い疑惑の眼をむけていたのです。それでいながら、結局あなたを見のがしたのは、あなたに完全なアリバイがあったからです。あなたは絶対にあの晩、六里はなれたK村へやって来ることは出来なかった。したがってあなたは今度の殺人事件に無関係である。……そういうふうに見られたのです。  わたしはこれを考えてみました。あなたをこの殺人事件に結びつけることは、絶対に不可能だろうか。H療養所とK村と六里はなれていて、殺人を行なうことは絶対に出来ないだろうか。それは絶対に出来ないということはない。第一に犯人のほうからやって来る場合、第二に被害者のほうから出かけていった場合[#「第二に被害者のほうから出かけていった場合」に傍点]。この二つがあります。第一の場合はあなたのアリバイが完全だから絶対に不合理です。しかし第二の場合は……?  警察がこの場合をかんがえてみなかったのは、なんという大きな手落ちでしょう。それは被害者が盲目であって、介添えなしには一歩も外へ出られないという事実が先入観となったのでしょうが、そのことを逆にかんがえれば、介添えさえあれば外へ出られなくはないということにもなります。そして、誰かの……たとえば鹿蔵の自転車に乗っけて貰えば、K村からH療養所へ駆け着けることは決して不可能ではない。そして更に、H療養所付近であなたに会って、殺されて、死骸となって鹿蔵に運ばれ、K村の車井戸に投げこまれるということは、これまた不可能ではないのです。  兄さん、わたしが、このような恐ろしい結論に到達したのにはわけがあるのです。  そのわけは三つありました。  第一は、お嫂さまの死骸を発見して、驚いて鹿蔵を起こしにいったとき、鹿蔵の服がズブ濡れになって壁にかかっていたこと、そして自転車が泥まみれになっていたこと。このことは警察でも眼をつけたのですが、すぐそのあとで、つまり警官の駆けつけるまえに鹿蔵はまた、その自転車でH療養所まであなたを迎えにいったので、そのとき濡れたのであろうということになりました。わたしはわざと黙っていました。  第二は、お嫂さまの殺されたのは、一日の夜の十二時だったということ。ところが、わたしは二日の朝の五時ごろに車井戸のはげしく|軋《きし》る音をきいたのです。大助兄さんはあのとき井戸へ投げこまれたのにちがいない。しかし、それでは犯人はなんだって十二時から夜明けまで待たなければならなかったかという疑問。  第三は、お嫂さまの死骸は座敷へ捨てておきながら、なぜ兄さんの死骸だけ車井戸に投げこまなければならなかったかということ。井戸へ投げこむには投げ込むだけの理由がなければなりません。つまりそれは、お兄さんがH療養所までの往復でズブ濡れになり、泥まみれになっていたから、座敷へおいとくわけにはいかなかったからではないでしょうか。  兄さん、わたしはいまあの夜の情景が、まざまざと眼に見えるような気がいたします。大助兄さんはおりんさんから、お嫂さまとあなたのなかに、道ならぬ関係があるよう吹きこまれたのだ。そして|嫉《しっ》|妬《と》に狂った大助兄さんは、あの夜、お嫂さまをズタズタに斬り殺し、鹿蔵を脅迫してH療養所まで案内させ、そこであなたを殺そうとしたが、逆にあなたに殺されて、ふたたび鹿蔵の自転車に乗せられて明け方ごろ死骸となってここへかえって来ると、井戸のなかへ投げこまれたのだ。……  ここまで書いて、蔵の窓から空を仰ぐと、青く晴れた空には、羊の毛をちぎったような雲が浮いています。その雲を見ていると、わたしはなんだか体が宙に浮いて、フワフワとこのまま昇天してしまいそうな気分です。体中がガラスのように透明になって、一切の苦しみも悲しみも昇華したような気持ちです。  わたしはなぜ、小野の昭治さんが犯人の役を買って出たのか知りません。しかし、あの人はその昔、あなたとたいへん仲のよい友達でしたね。わたしは鹿蔵を問いつめて、事の実否をただそうとは夢にも思いません。わたしはただ思いつめ、思いつめて、このまま空気のように天上のはるかかなたへ消えていってしまいたいのです。  そして、そのときは、もうそれほど遠いことではないでしょう。さようなら。兄さん。わたしは悪い妹です。  慎吉追記(昭和二十一年十二月八日)  恐ろしい妹よ。  鶴代の最後の手記が、あの事件についてなにもかも、あますところなく書いている以上、私になんの書き加えることがあろう。ただ、あの事件にいたるまでの兄の苦悶と、それから、事件当時の模様について、|些《いささ》かここに|誌《しる》しておこう。  私は兄があのような恐ろしい疑惑に悩んでいるとは夢にも知らなかった。あの夜、私を殺しに来たとき、気が狂ったように罵った、兄の言葉をきくまでは、私は兄の心をしめていた、あの恐ろしい秘密を夢にも気づかなかったのである。  兄を苦しめたのは、まず|嫂《あによめ》に対する不信である。嫂の不貞に関する疑惑だった。しかもこの地獄の種をまいたのは秋月伍一なのだから、われわれはまんまと、秋月一家に復讐されたといってもよいだろう。  伍一が死ぬとき、たったひとり見とってやったのは兄だった。その兄に向かって伍一は、断末魔の息の下からこんなことをいったそうである。 「貴様の女房の梨枝は、昔おれと関係があったのだぞ。それが嘘だと思うなら、今度かえったら、梨枝の右脇腹、股のつけ根にあたるあたりを調べてみろ。そこに小さなヒョータン型の|痣《あざ》があるのだ。それを知っていることは、とりもなおさず、あの女がおれに体を許した証拠ではあるまいか」  兄は一年足らず嫂と結婚生活をつづけたが、つつしみぶかいかれは、嫂の体のすみずみまで知っているわけではなかった。だから伍一の告白は、かれを|愕《がく》|然《ぜん》とさせると同時に、泥沼のような疑惑のなかに投げ込んだのであった。しかも、その直後失明するにいたって、兄の疑惑はもうみずから確かめようのない、救いがたい地獄となった。  復員して来たとき、兄のからだをつつんでいたあの|凄《せい》|惨《さん》な鬼気は、実にこういう理由によるものであった。しかも、その後おりんから、妻と弟の不義を吹きこまれた兄は、ここにおいて奈落のどん底へおちこんだ。いちど妻の不貞に動揺していた兄は、おりんさんのこの根も葉もない中傷をすぐ|真《ま》にうける心理状態になっていたのだ。しかも、そこへ更に不幸なことが持ち上がった。  八月二十九日の夜兄夫婦の寝室付近へ忍びこんだものがあった。それは警察でもいっているとおり小野昭治君だったのだが、兄はそれを私だと誤解した。しかも祖母も妹もそれを知っていながら、私をかばっているのだと思いこんだのだ。ああ、悲しいのは盲人の猜疑であった。しかも兄はそれらの猜疑を決して口に出さなかったから、それがわれわれを悩ませ、恐れさせ、そのことがまた逆に、兄の猜疑を|煽《あお》ったのであった。  九月一日、あの大暴風雨の夜、おさえにおさえられた兄の猜疑と嫉妬は、あらしとともに爆発した。兄は嫂をズタズタに斬り殺すと、血にまみれた兇器をもって鹿蔵を脅迫し、H療養所まで駆け着けて来た。  誰でも知っているとおり、結核療養所というものはいたって開放的な建築に出来ている。ことに私の病棟はいちばん奥まったところにあるから、裏山からもすぐ廊下へ入ることが出来るのだ。鹿蔵はまえに何度も見舞いに来たことがあるので、私の病室をよく知っていた。  私はいまでもあの夜のことを忘れることは出来ない。真夜中の二時ごろ、私は鹿蔵に起こされて裏山へ連れ出されて、そこに兄の立っているのを見て愕然とした。兄はすぐその場から鹿蔵を去らせ、そこではじめて嫂の不貞、私の不信の罪を鳴らした。伍一のことは知らないが、私に関する限り、まったく身におぼえのないことだったので、私はむろん極力抗弁した。しかし、もうそういう言葉の耳に入る兄ではなかった。兄はいきなり短刀をふるって私に斬りつけた。  それから後のことは、あまり語りたくない。いや、語ろうにも私にもはっきり記憶がないのだ。私たちは嵐の中で揉みあった。私はただ助かりたい一心と、兄を正気に戻したいばかりに抵抗したのだ。私たちは組み合ったまま横に倒れた。それきり兄は動かなくなった。気がつくと兄の心臓にあの短刀が根元まで突き立っていた。不思議に血は一滴も出ていなかった。  あのとき、私がどうしてあの死骸をY村まで運ばせて、井戸の中へ投げ込ませようなどと考えついたのか、自分でもわからない。私はすぐに鹿蔵を呼んで来て死骸を見せた。鹿蔵はふるえあがって怖れたが、そのときかれは、こんなことをいった。 「若旦那、この人はどうせ遅かれ早かれ死ななきゃならなかったんだ。だって、奥さんを殺しているんですからね。旦那、わたしがこの死骸を自転車につんで帰りましょう。誰もこの人がここへ来たことを知るものはねえだから……」  鹿蔵のこの言葉がヒントとなって、私はああいう計画を立てたのだ。兄の死骸を井戸へ投じたのは、鶴代の看破したとおりの理由による。私は兄の死骸を嫂と並べておきたかったのだが、ズブ濡れになった死骸を座敷へおくわけには、いかなかった。しかし、自分の計画が、ああうまく成功するとは思わなかったし、また鹿蔵の口がああまで堅かろうとは、まったく予期しないところだった。私はただ自分の気持ちが整理されるまで、ひとまず事件からはなれていたかったのだ。  昭治君が私の罪をひきうけたのは、鶴代の察しているとおりの理由からであった。昭治君がK村で過した幼いときの四年間、私たちはもっとも仲のよい友達だった。だから復員して来た昭治君が小野のおじさんのところからお咲さんに追い出されると、かれはこの療養所へやって来た。その時私はいくらかの金を恵んだのである。爾来、昭治君はときどき、そっと私を訪ねて来るようになり、O市の刑務所を破って出て来たときも、一番に私のところへやって来た。私は別に法に反抗するつもりはなかったが、昭治君という人間を昔から気の毒な人と思っていた。ちかごろのかれの生活には同感出来なかったが、そこへ落ちていかざるを得なかった経路には同情した。だからかれを密告するどころか、逆にいろんな面でかれを援助していたのである。  九月一日、あの恐ろしい事件の夜も、昭治君はこっそり私のところへ来ていた。鹿蔵を送り出したあと、私はかれを叩き起こして、いちぶしじゅうの話をした。かれも驚いたらしかったが、すぐこんな事をいって胸を叩いた。 「慎ちゃん、大丈夫だ。いざとなったらおれが一切しょいこんでやる。なに、どうせこちとら|躓《つまず》いた人間なのだ。人殺しの一つや二つしょいこんだところで、同じことだよ」  昭治君はそういって、ものすごい顔をしてわらった。それから現場に何か証拠になるようなものが残っているといけないからと、一人で出ていったが、しばらくするとニヤニヤしながらかえって来て、 「だから、人は駄目だというのだ。ほら、こんな立派な証拠がのこっていたじゃないか」  そういって、掌にのせて出してみせたのがあの兄の義眼だった。私はそのとき、血の凍るような恐怖をかんじたことを憶えている。 「これはおれが貰っておくよ。ふん、これさえ持ってれゃ犯人となることは疑いなしさ」  昭治君はそれから間もなく療養所を出ていった。わざと本位田家の近所にすがたを見せておくために。……  さあ、これで私のいおうとすることは、すべていい尽したつもりである。いや、そうではない。もうひとつ肝腎なことをいっておかねばならなかった。九月二日、鶴代の迎えで家へかえって来たとき、私は一番に嫂の体を調べてみた。嫂の右の脇腹には、どんな痣もなかったのである。ああ、われわれは完全に秋月姉弟に復讐されたのだ。  気の毒な兄よ。  鶴代は十月十五日に死んだ。彼女のような弱過ぎる心臓と、鋭過ぎる頭脳を持った少女は、長く生きていないほうが幸福であろう。祖母も一週間まえになくなった。祖母には何も打ち明けなかったが、彼女はきっとある程度まで知っていたにちがいない。そして、いまや本位田家唯一の生き残りの男が、この手記を書いているのである。  私はこの手記を書きあげると、鶴代の手紙の一束とともに、金田一耕助氏に送りとどけるつもりだ。  金田一耕助。……私はこのひとの名を獄門島の事件で知っていた。そのひとが獄門島からのかえりがけ、この土地に立ちよって、事件の再調査に手を染めたときいたとき、私はどんなに驚きおそれたことであろう。  私は逃げるつもりはなかったのだ。私はただ祖母のことを憂えたのだ。兄夫婦をうしない、鶴代にさきだたれ、いまはただ私ひとりを頼りに生きている祖母の身を案じたのだ。  あるとき、とうとう金田一耕助氏が私のところへ訪ねてきた。私たちはふたことみこと話をしたが、それだけで私はもう金田一耕助氏が、真相を看破していることをさとった。私はすでに覚悟をきめていたので、無言のまま妹の最後の手紙を差し出した。  金田一耕助氏は不思議そうにその手紙に眼を走らせていたが、読みすすんでいくにしたがって、深いおどろきの色がその顔をおおった。そして、息つぐひまもなく読みおわると、しばらく茫然としてあらぬかたを眺めていたが、やがてその視線を私のほうにもどすと、 「で……?」  と、暗い眼をしてつぶやいた。 「と……」  と、|鸚《おう》|鵡《む》がえしにこたえたものの、私にはあとがつづかなかった。  金田一耕助氏はまじまじと私の顔を眺めていたが、急にひとなつっこい微笑をうかべると、 「ときに、お祖母さまの御容態は……?」  と、訊ねてくれた。 「はあ、もう長いことはありますまい。ことしいっぱい保つかどうか……」 「それは、それは……」  と、金田一耕助氏はぼんやり呟いて、それから濡れたような眼を私にむけた。 「この手紙は当分だれにもお見せにならないほうがいいでしょう。少なくともお祖母さまが御存命中は……いや、突然押しかけてきて失礼しました」  金田一耕助氏は来たときと同様飄々としてかえっていった。  金田一耕助氏は私になんの約束も強要しなかったし、私のほうからもなにも約束しなかった。しかし、信義は守らなければならぬ。祖母を見送ったいまとなっては、私ももう思いのこすことはなにもないのだ。私はこれらの手記を郵便局から発送したあとで、自分のいくべき途をえらぶつもりである。……     黒猫亭事件     はしがき [#ここから1字下げ]  拝啓、その後は|御《ご》|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》。いつかのお便りによると、すこしお加減が悪いというお話でしたが、その後もとどこおりなく「獄門島」が連載されているところを見ると、大したことでもなかったのであろうと拝察。「獄門島」は毎月面白く拝読しています。自分としてはいささか|擽《くすぐ》ったき箇所もあれど、小説とあらばやむを得まいと観念しております。今後の御健筆を(但し、なるべくお手柔かに)願います。  |扨《さて》。——いつかお邪魔にあがった節、あなたはこんな事をおっしゃいましたね。「本陣殺人事件」で、曲がりなりにも「密室の殺人」を書くことが出来た。今度はどうしても、「顔のない|屍《し》|体《たい》」を書きたいと。そして、何かそのような事件にぶつかったら、材料を提供して欲しいと。ところが、Yさん、私が東京へかえって来て、最初にぶつかった事件を、なんだと思います。実に、あなたのおっしゃる、「顔のない屍体」の事件だったのですよ。しかもこれはあなたのいわゆる「顔のない屍体」の公式と、だいぶはずれたところがある。  Yさん。私はいまさらのように、事実は小説よりも奇なりという、あのカビの生えた|諺《ことわざ》を思い出さずにはいられません。「本陣殺人事件」のはじめに、こういう事件を計画した犯人に、感謝してもいいというようなことを、あなたは書いていらっしゃる。よろしい。では今度はこの恐ろしい「顔のない屍体」の事件を計画した、|奸《かん》|悪《あく》無類の犯人に対して、ひとつよく感謝してやって下さい。この事件には、「本陣殺人事件」や「獄門島」の三重殺人事件のような、小道具の|妖《よう》|美《び》さはないかも知れない。その点で、あなたのお気に召さないかも知れません。しかし、犯人の計画のドス黒さ、追いつめられた手負い|猪《じし》のような、自暴自棄の兇暴さ、そういう意味では、とてもまえの二つの事件の比ではない。——と、そう私は思っているのですが、ここで多言をついやすのは控えましょう。別便にて、事件に関する書類一切をお送りいたしました。万事はあなたの、御判断によることにいたします。書類にはいちいち、ノムブルをふっておきましたから、その順にお読み下さい。あなたがこの材料を、どういうふうに消化されるか、種々雑多なこの書類を、どういうふうにアレンジされるか、ひとつお手並み拝見といきたいものです。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]敬具 [#地から1字上げ]金田一耕助拝  以上のような手紙を、疎開地の岡山県の農村で、私が金田一耕助から受け取ったのは、昭和二十二年の春のことであった。  この手紙を読んだときの私の興奮——。実際、私は興奮というよりも、|戦《せん》|慄《りつ》をかんじたのである。金田一耕助が、これほど大きな太鼓判を、おしているところからみても、よほど異常な事件であろうことが想像されたし、しかもそれは、私の|渇《かつ》|望《ぼう》してやまなかった、「顔のない屍体」の事件だというのだ!  別送したという書類は、手紙より三日おくれてついた。そして私はいま、その書類を基礎として、ドス黒い犯罪と、それが暴露していく、推理の記録をつづろうとしているのだが、そのまえに一応、金田一耕助と自分の関係を明らかにしておきたい。  昭和二十一年、|即《すなわ》ち去年の秋のおわりごろのことである。疎開先の農村で、私は思いがけない人物の訪問を受けた。  その時分、私はまた体をわるくして、寝たり起きたりの生活をしていた。その日も万年床に寝そべって、終日うつらうつらしていた。家の者は山の畑へ|藷《いも》|掘《ほ》りに出かけて、その時、家にいるのは私ひとりであった。すると、そこへ、ひょこひょこと入って来た男があった。  農家ふうに建っている家のこととて、私の家には玄関などという、気の利いたものはない。その代わりひろい土間があって、腰の高い障子がいちまいはまっている。この障子はとても重くて、あけたてするのに不便だから、日中はあけっぱなしにしてある。土間つづきに四畳半があり、その奥が六畳の座敷になっていた。私はいつもこの座敷に寝ているのだが、胸部に長い|痼《こ》|疾《しつ》があって、開放生活に慣れてしまった私は、いついかなる場合でも、家中あけっぴろげてある。だから土間へ入って来たひとは、ひとめで奥に寝ている私の姿を見通せるわけである。  それはちょうど|黄《たそ》|昏《がれ》|時《どき》のことであった。私はまた微熱が出たらしく、うつらうつらとしていたのだが、誰か土間へ入って来た気配に、どしりと寝返りをうち、それからあわてて、寝床のうえに起き直った。  土間に立っているのは、三十五、六の小柄の人物であった。大島の着物に|対《つい》の羽織を着て、|袴《はかま》をはいていた。無造作に、帽子をあみだにかぶって、左手に二重廻しをかかえ、右手に|籐《とう》のステッキをついていた。別にどこといって取り柄のない、どっちかというと、貧相な|風《ふう》|貌《ぼう》の青年であった。着物も羽織も、かなりくたびれているようであった。  私たちは数秒間、まじまじとたがいに顔を見合っていたが、やがて私は寝床のうえから、どなたでしょうかと|訊《たず》ねた。すると相手はにやりと笑った。それから、ステッキと二重廻しをそこへおくと、帽子をとっておもむろに額の汗をぬぐいながら、おまえがここの主人であるかというようなことを訊ねた。その態度があまり落ち着きはらっているので、私はいくらか気味悪くなり、いかにも、自分がここの主人だが、そういうおまえは誰だと、とがめるように重ねて訊ねた。すると相手はまたにやりと笑い、それからすこしどもるようなくちぶりで、 「ぼ、ぼく——」  と、名乗りをあげたのだが、それが即ち、金田一耕助であった。  そのとき私がどんなに驚いたか、そしてまた、どんなに|狼《ろう》|狽《ばい》したかというようなことは、あまりくだくだしくなるから控えるが、しかし、金田一耕助という名が私にとって、どういう意味を持っているか、それについては一言説明を加えておかねばなるまい。  その時分私は、かつてこの村の旧本陣一家に起こった殺人事件を、村の人々から聞きつたえるまま、小説に書きつづっているところであった。しかもその小説は当時まだ雑誌に連載中であった。ところが、その小説——と、いうよりも、その事件の主人公というのが即ち金田一耕助であった。私はその人に会ったこともなければ見たこともなく、むろん諒解を得て書いていたわけではなかった。村の人々の語るところを土台として、それにこうもあろうかという、自分の想像を付け加えて書いていたのに過ぎなかった。その人が突然名乗りをあげて訪ねて来たのだから、私が驚き、かつ狼狽したのも無理はあるまい。私はうしろめたさに|腋《わき》の下に冷や汗の流れるのをおぼえた。座敷へとおして初対面の|挨《あい》|拶《さつ》をするときも、かれ以上に|口《くち》|籠《ごも》ったりした。  金田一耕助は私が口籠ったりどもったりするのを、いかにも面白そうににこにこ笑って見ていたが、やがて、私を訪ねて来たことについて、つぎのように説明を加えた。  自分はいま、瀬戸内海の一孤島、「獄門島」という島からのかえりだが、その島へ渡るまえにパトロンの久保銀造のところへ立ち寄った。ところがそこで、自分のことを小説に書いている人がある、ということをきいて大いに驚いた。自分もその小説を読んだ。そこで島へ|発《た》つまえに、雑誌社へ手紙を出して、作者の居所をたずねておいたのだが、島からかえってみると雑誌社から返事が来ていたので、そこできょうこうして、 「|因《いん》|縁《ねん》をつけに来たんですよ」  と、そういって面白そうに笑った。その笑い声をきいて私はやっと落ち着いた。因縁をつけに来た。——と、そういうくちぶりに、すこしも悪意がかんじられないのみならず、一種の親しみをおぼえたからである。私は急にずうずうしくなり、あの小説についてどう思うかと、甘えるように切り出してみた。するとかれはにこにこ笑いながら、いや、たいへん結構である。自分がたいそう、えらい人間みたいに書かれているので光栄に思っている、ただ、慾をいえば、 「もうすこし、ぼくという人間を、好男子に書いて貰いたかったですな」  はっはっは——と、笑って、かれは頭のうえの雀の巣をめちゃめちゃに掻きまわした。これで要するに、私たちはすっかり打ちとけたのであった。  その時、金田一耕助は三晩、私のうちに泊まっていったが、そのあいだに話してくれたのが、最近かれの経験して来た、「獄門島」の事件であった。かれはそれを小説に書くことも許してくれた。つまりかれは公然と、私を自分の伝記作者として認めてくれたわけである。  さて、かれが三日|逗留《とうりゅう》しているあいだに、私たちは探偵小説についてもいろいろ語りあったが、その時のことなのである。私が「顔のない屍体」のことを切り出したのは。——私はつぎのようなことを、かれにいったのを憶えている。  いまからざっと二十年ばかりまえに、自分はある雑誌で、探偵小説のトリックの分類というようなことを試みたことがある。いまその雑誌が手もとにないので、はっきりしたことはいえないが、「一人二役」型だの、「密室の殺人」型だの、「顔のない屍体」型だのと、探偵小説でもっともしばしば扱われるトリックについて、述べたものであったように思う。それから二十年、探偵小説も大いに進歩したが、いまだに、いまあげた三つのトリック——トリックというより、テーマといったほうが正しいのかも知れないが——が、探偵小説の王座をしめているのは興味のあることだ。  しかし、この三つの型を|仔《し》|細《さい》に調べてみると、そこに大きな相違があることに気がつく。と、いうのは、「密室の殺人」や「顔のない屍体」は、それが読者にあたえられる課題であって、読者は開巻いくばくもなくして、ははア、これは「密室の殺人」だなとか、「顔のない屍体」だなとか気がつく。しかし、「一人二役」の場合はそうではない。これは最後まで伏せておくべきトリックであって、この小説は一人二役型らしいなどと、読者に感付かれたが最後、その勝負は作者の負けである。(もっとも、あらゆる探偵小説は、犯人が善人みたいな顔をして出て来るのだから、一種の一人二役だが、それはここにいう「一人二役」型とは別である)  そういう意味で、「一人二役」型と「密室の殺人」型や「顔のない屍体」型はたいへんちがっているのだが、さてまた、「密室の殺人」型と「顔のない屍体」型とでは、これまた大いに趣がちがっている。と、いうのは「密室の殺人」型の場合には、あたえられる課題は「密室の殺人」と、きまっていても、その解きかたは千差万別である。いや、「密室の殺人」という同じテーマに、いかにちがった解決をあたえるかというところに、作者も読者も興味を持つのである。  ところが「顔のない屍体」型の場合はそうではない。もし、探偵小説で顔のない屍体、即ち、顔がめちゃめちゃに斬りきざまれているとか、首がちょんぎられてなくなっているとか、焼け跡から発見された屍体の、相好のみわけもつかなくなっているとか、さてはまた、屍体そのものが行く方不明になっているとか、そんな事件にぶつかったら、ははあ、これは被害者と加害者とがいれかわっているのだなと、すぐそう考えても、十中八九まず間違いはない。即ち、「顔のない屍体」の場合では、いつも、被害者であると信じられていたAは、その実被害者ではなくて犯人であり、犯人と思われているB——そのBは当然、行く方をくらましているということになっている——これが、屍体の御当人、即ち被害者である。と、いうのが、少数の例外はあるとしても、いままでこのテーマを取り扱った探偵小説の、たいていの場合の解決法である。——と、そんな事を得意になってしゃべったのち、 「ねえ、これ、妙じゃありませんか」  と、私はいった。 「探偵小説の面白さの、重要な条件のひとつとして、結末の意外さということが強調されているんですよ。ところが、『顔のない屍体』の場合に限って、誰の小説でも犯人と被害者のいれかわりなんです。つまり『顔のない屍体』の場合にかぎって、事件の第一歩から、読者は犯人を知っているんですよ。これは作者にとってたいへん不利なことですよ。ところが、その不利を意識しながらも、たいていの作家が、きっと一度はこのテーマと取っ組んでみたいという誘惑をかんじるらしいんです。つまり、このテーマにはそれだけ魅力があるんですね」 「すると、何ですか」  と、金田一耕助は面白そうに訊ねた。 「探偵小説で『顔のない屍体』が出て来ると、きっと犯人と被害者がいれかわっているんですか」 「まあ、そうです。たまには例外もありますが、やはり犯人被害者いれかわりという公式のほうが、面白いようですね」 「ふうむ」  と、金田一耕助はうなって、しばらく考えこんでいたが、 「しかし、例外よりも公式のほうが面白いというのは、絶対の真理ではありませんね。そのことはただ、いままで書かれた小説の場合、そうであったというだけで、今後、『顔のない屍体』を扱いながら、犯人被害者いれかわりでなく、なおかつ、それ以上の面白味を持った探偵小説が、うまれないとも限りませんね」 「そ、それなんですよ」  と、私は思わず膝を乗り出した。 「私もそれを考えているんですよ。ねえ、金田一さん、いままであなたの扱った事件のうちで、そういうふうな、事実は小説よりも奇なりというような事件はありませんか。私も探偵作家のはしくれであるからには、いつかこのテーマを取りあつかって、犯人と被害者いれかわりという、公式的な結末以上の結末をもって、探偵小説の鬼どもを、あっといわせてやりたくてたまらないんですよ」  私が興奮して、口から唾をとばしながらそんな事をいうと、金田一耕助はにこにこしながら、 「さあ、——いままで扱った事件のうちにはなかったようですね。しかし、まあ、失望なさる事はない。世の中には、ずいぶんいろんなことがある。また、ずいぶん、いろんなことをかんがえる人間がいる。だから、いつ、なんどき、あなたの御註文にはまるような事件に、ぶつからないとも限らない。そんなのがあったら、さっそく御報告することを、いまからお約束しておきましょう」  金田一耕助はその約束を守ってくれたのであった。  さて、小包みがついたとき、私がどんなに興奮したか、そしてまた、書類を読んでいくにしたがって、私がどのように戦慄したか、それらのことは、ここでは一切述べないことにする。そうでなくても、長くなった前置きに、さぞや読者諸賢が、しびれを切らしていられることだろうと思うからである。  しかし、もう一言だけいわせて貰いたいのだが、その書類というのは、金田一耕助の手紙にもあるとおり、実に種々雑多な記録の集まりであった。私はそれらの書類を、いったいどういうふうに処理すべきか、たいへん迷ったことである。いっそ、外国の小説によくあるように、そのまま、順次ならべていこうかとも思ったのだが、それでは読む人にとって、まぎらわしいような気がしたので、やはり小説ふうに書いていくことにした。金田一耕助もいっているとおり、はたしてうまく消化出来るかどうか、それは読むひとの判断にまつよりほかはない。      一  この事件の起こったG町というのは、省線電車の環状線を、外側へとおくはずれたところにあって、|渋《しぶ》|谷《や》駅でおりてから、もう一度、私鉄にのらなければならないような、へんぴなところにある町である。付近いったい起伏の多いところで、いたるところに急な坂があり、故老の話によると、九十九坂あるそうである。九十九坂はちと|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》としても、とにかく坂の多いところで、そういう地形のせいか、東京の近郊としては発展がおくれて、いまから十五、六年まえまでは人家もまれに、まだ多分に武蔵野の面影をのこしていた。  ところが、日華事変のはじまる前後から、急に様子がかわって来た。近所に大きな軍需工場と、それを取りまく下請け工場が出来てから、G町のあたりもにわかに活気を呈しはじめた。つぎからつぎへと人家がたって、またたくまに九十九坂を埋めてしまった。G駅付近は、道路がアスファルトで舗装されて、G町銀座と称するところの商店街が出来あがった。怪しげな飲み屋やカフェーがいたるところに出現した。こうして、そのかみの殺風景な武蔵野のあとへ、より以上殺風景で落ち着きのない、ごたごたとした町が出来あがったのである。  戦争中この町が、どう|変《へん》|貌《ぼう》したか私は知らない。しかし、金田一耕助の送ってくれた、新聞記事などから想像するに、戦災をうけたことはうけたが、|潰《かい》|滅《めつ》したわけではなく、少なくとも、駅を中心とするG町銀座の一劃はのこっているらしい。そして、戦災をまぬがれたどの町もそうであるように、このへんも戦後むやみに人がふえて、戦争前以上に秩序のない、不健全で出たらめな、いかにも敗戦後の日本らしい、繁栄ぶりを見せているらしい。  私も知っているが、G町銀座というのは、駅の正面からまっすぐに、西へ三丁ほどつづく下り坂で、坂になっているところに趣があった。いわゆる九十九坂のひとつで、昔からG坂とよばれている。ところが、この表通りから一歩横町、裏通りへ足をふみいれると、これがたいへんなのであった。  そこは俗に、G町の|桃色《ピ ン ク》迷路とか、地獄横町とかいわれ、|隘《せま》くて、暗くて、迷路のように不規則なみちの両側には、夜になると、いたるところに赤い電燈や、|菫色《すみれいろ》の電燈がついた。そして、どの家にも、どぎつい化粧をした女が二、三人いて、夜おそくまで、騒々しい電気蓄音器をかけたり、みだらな声をはりあげて|唄《うた》をうたったり、そしてかわるがわる、男といっしょに、すうっと二階へあがっていったりするのであった。  ところで、面白いのは、そういう色情地獄の迷路のなかに、まだ多分に、武蔵野の|名《な》|残《ご》りがのこっていることで、赤い|灯《ひ》のつく酒場の隣に、昔ながらの|草《くさ》|葺《ぶ》きの農家があったり、菫色の灯のつくチャブ屋のうらに、古風な寺や墓地があったりして、それがいっそうこのあたりの風景に、複雑怪奇な色彩をそえているのだが、そういう情景は、戦後のいまも、たいしてちがっていないらしい。これからお話ししようとする事件は、そういう町の一隅で起こった出来事なのである。  それは昭和二十二年三月二十日、午前零時ごろのことであった。G坂にある派出所詰めの長谷川巡査が、コツコツとこの桃色迷路を巡廻していた。  いったい戦後は、こういう盛り場などの取り締まりが、かなり投げやりにされているが、そこはよくしたもので、交通の不便や、都会の夜の物騒さから、しぜん看板時間などは、戦争まえより早くなっている。昔ならば午前零時といえば、まだ|宵《よい》の口みたいなものだったが、ちかごろでは、もうどの店でも灯を消して寝しずまっている。  その晩、長谷川巡査は北の裏通り、俗に裏坂とよばれている坂を、だらだらと下っていた。この裏坂は不規則にうねうねうねっているうえに、|界《かい》|隈《わい》でもとくに武蔵野の名残りが、強くのこっているところで、あちらに寺があったり、こちらに墓地があったり、更にそこから北へかけては、かなりひろい範囲にわたって焼けているので、まことに|淋《さび》しいところであった。長谷川巡査はそういう暗い、淋しい裏坂を、コツコツとくだって来たが、途中でおやと足をとめて、坂の下をのぞきこんだ。そこから坂は急にけわしくなって、約十間ばかり、突き落としたように道が落下しているが、それがふたたびゆるやかになるところに、南北の道が|交《こう》|叉《さ》していて、その道を左へいけば、G町銀座の表通りへ出られるのである。長谷川巡査がのぞきこんだのは、その四つ角の左側にある家の裏庭であった。そこにちらちらと灯がまたたいているのみならず、耳をすますと、ざくっ、ざくっ、と土を掘るような音がきこえて来るので、長谷川巡査が、はっと胸をとどろかしたのも無理ではなかった。  このへんの地理に明るい長谷川巡査は、そこがどういう家かよく知っていた。「黒猫」といって、夜になると、菫色の灯のつく酒場のひとつなのだが、長谷川巡査はその「黒猫」について、つぎのようなことを思い出した。最近までその店を経営していた人は、一週間ほどまえに店を他人に譲りわたして、どこかへ引っ越してしまった。そして、あとを引き受けた新しい主人は、目下家を改装中だが、まだこちらへ引き移って来ていないので、夜になるとその家は、空き家同然になってしまうのである。  そのことを思い出した長谷川巡査は、心にふかく怪しみながら、足音をしのばせて坂を下ると、坂の途中にある「黒猫」の裏木戸へしのびよった。そして身をかがめて(と、いうのは、その木戸は坂道より一段ひくいところにあったので)木戸のすきまからなかをのぞきこんだが、胸騒ぎはいよいよはげしくなった。  その庭はあまりひろくなく、十坪あるかなしであろう。「黒猫」のうしろには、|蓮《れん》|華《げ》|院《いん》といって、そのへんでも古い日蓮宗のお寺があるのだが、この寺は敷地は「黒猫」よりも一段高くなっている。だから「黒猫」の庭は、うしろを蓮華院のたかい|崖《がけ》でさえぎられ、しかも、その崖は向こうへいくほど、「黒猫」のほうへはみ出しているので、庭は不規則な直角三角形をしている。灯の色がちらちらするのは、その三角形のいちばん奥のすみであった。  長谷川巡査は眼がなれて来るにしたがって、その灯というのが、崖の木にぶら下がっている|提灯《ちょうちん》であること、それから向こうむきになって、何やら一生懸命に、土を掘っている人物のあることをみとめた。そのひとは、光を向こうからうけているので、よくわからなかったが、どうやら、和服の尻はしょりをしているようであった。シャベルを土に突っこんでは、片脚をあげてぐっと踏む。そして土をかきのけるのである。何んのためにそんなところに、穴を掘っているのかわからないが、わきめもふらず、おりおり汗をふくのさえもどかしそうであった。  ざくっ、ざくっ、と土を掘る音。えたいの知れぬ無気味さが、ほのぐらいあたりの|闇《やみ》を|這《は》っている。 「あっ!」  突然、土を掘っていた男が、ひくい叫び声をあげた。それからシャベルを投げ出すと、犬のように四つん這いになって、両手でパッパッと土を掘りはじめた。はじきとばす土の音にまじって、はっはという、はげしい息遣いがきこえて来るところからみても、その男自身、いかに興奮しているかがうかがわれるのであった。  きゃっ!  ふいに、その男が悲鳴をあげて、はじきとばされたように穴のそばからとびのいた。とびのいたまま、まだ及び腰で、穴のなかを見つめている。その後ろすがたが、夜目にもしるくふるえているのを見ると、長谷川巡査は急にはげしく戸を叩きはじめた。 「開けろ、開けろ」  だが、長谷川巡査はそんなことを怒鳴るひまに、塀を乗りこえたほうが、ちかみちであることに気がついた。長谷川巡査は二、三歩坂を駆けのぼると、はずみをつけて塀にとびつき、そこからなかを見ると、例の男が背中を丸くして、こっちを見ていたが、逃げ出しそうな気配は見えなかった。塀からとびおりて、 「どうしたんだ。何をしているのだ」  そばへ駆け寄っていくと、相手は急におびえたようにあとじさりしながら、穴の向こうへまわった。それではじめて提灯の灯と、長谷川巡査の携えた懐中電燈の灯が、まともに顔を照らしたので、長谷川巡査はやっと相手が誰であるかわかった。それは崖のうえにある蓮華院のわかい僧で、名前はたしか日兆というのであった。 「ああ、君か。——いったい、こんなところで何をしているのだ」  長谷川巡査の詰問に、日兆は何かこたえようとするらしかったが、顎ががくがくけいれんするばかりで、言葉はろくにききとれなかった。 「ど、どう……」  もう一度、おなじことを訊ねようとして、長谷川巡査は、足下の穴へ眼をやったが、とたんに、 「うわっ!」  われにもなく悲鳴をあげて、はじかれたようにうしろへとびのいた。それから自分の眼をうたがうように、懐中電燈を下へむけて、穴のなかを見直した。穴のなかには、半分土でおおわれた女の屍体がよこたわっていた。多分日兆が掘り出して、そこまでひきずり出したのだろう。腰から下はまだ土のなかに埋まっていたが、それにも|拘《かかわ》らず長谷川巡査が、とっさにそれを女と判断したのは、その屍体が裸であったこと、したがって掘り出された上半身は、まだ土と泥とにまみれているとはいうものの、仰向けに寝かされているその屍体の、乳房のほんの僅かにしろ、男とちがうふくらみだけはおおうべくもなかった。長谷川巡査は懐中電燈の光の輪を、顔のほうへ這わせていったが、そのとたん、 「…………!」  声にならぬ悲鳴をあげて、懐中電燈の|柄《え》も砕けんばかりに握りしめた。  ひと呼吸、ふた呼吸おいてから、反射的に日兆のほうをふりかえると、かれの握りしめている|濡《ぬ》れ|手《て》|拭《ぬぐ》いに眼をやって、それからまた改めて屍体の顔に眼を落とし、さらに強く懐中電燈の柄を握りしめた。庭の隅にある水溜まりで手拭いをしめして、日兆が顔の泥だけ拭いとったにちがいない。日兆もこの屍体の主が誰であるか、一刻もはやく知りたかったにちがいないが、果たしてかれにはこの顔が、誰であるか識別できたであろうか。  いいや、それはもう顔とはいえなかった。強いていえば、顔のあった廃墟とでもいうべきであろうか。もう完全に腐らんして、ちぢれあがった上下の唇のしたから、白い骨がのぞいている。もう眼も鼻もなくなっていた。かつてそこに眼があり鼻があったあたりには、うつろの穴がひらいていて、その周辺にいくらか残った肉片らしきものが、灰色に硬化してちぢれていた。頭部にはまだいくらか皮膚がのこっているとみえ、わずかの髪の毛が水に濡れて、ねっとりと廃墟のうえにこびりついていたが、それは男か女か、判断がつきかねるほど短かった。  これだけでも、世にも無気味な眺めだったが、さらにそれをいっそう無気味なものにしているのは、その廃墟のうえをいちめんにおおうている、無数の白い小さい虫である。その虫どもの小休みのない|蠕《ぜん》|動《どう》のために、懐中電燈の光のなかで、顔全体がかげろうのように、揺れ動いているかのごとく見える。……  長谷川巡査はいまにも|嘔《おう》|吐《と》を催しそうになり、急いで懐中電燈の光の輪を、そのいやらしいものから日兆のほうへむけた。 「ど、どうしたんだ。この屍体はいったい誰だ。君はまた、どうしてこんなところを掘っていたんだ」  と、たたみかけるように訊ねた。それに対して日兆は、なにかいおうとして唇を動かしたが、相変わらず顎ががくがくけいれんするばかりで、言葉はハッキリききとれなかった。鉢のひらいた醜いかおが、おしへしゃげたように|歪《ゆが》んで、青黒い額に太い血管が二本、みみずのようにふくれあがっているのが気味悪かった。それにその時の日兆の眼だ。血走ってギラギラ光る眼は、まるで気が狂っているようであった。長谷川巡査は、穴から掘り出された屍体も屍体だけれど、日兆青年のそのかおに、より以上ものすごいものをかんじて、思わずぞうっと眼をそらした。      二  これがまえにもいったとおり、昭和二十二年三月二十日、午前零時ごろのことで、それからいよいよ捜査活動という段取りになるわけだが、何しろ事件の発見された時刻が時刻だから、警察の人々が現場にそろったのは、もう夜のひきあけごろの事であった。その中に村井という老練の刑事があったが、(以下しばらく私は、この人を中心として話をすすめていきたいと思うのだが)かれが、現場へついて、第一番にやったことは、付近の地形や地理を調べることであったらしい。金田一耕助の送ってくれた書類のなかに、そのとき村井刑事のとった見取り図と、それに関する説明がきが入っているが、それによると「黒猫」の付近は、だいたいつぎのようになっているらしい。  まえにもいった蓮華院という寺は、昔はかなり大きなものだったらしく、その境内はいまでも表通りから裏坂までひろがっている。即ち、蓮華院の山門は、|賑《にぎ》やかなG町銀座のほうにあって、「黒猫」のある裏坂のほうは寺の背後にあたっており、そこには、武蔵野のおもかげをとどめる雑木林にとりまかれて、かなり荒れはてた墓地があった。さて、まえにもいったとおり、そのへんいったい西にむかって傾斜しているのだが、蓮華院の西っ側、即ち「黒猫」の背後にあたるところで、急に大きな段落をなしている。しかもその崖は、「黒猫」のまえの通り、即ち、G町銀座の表通りと、裏坂をつなぐ南北のみちまではみ出しているので、「黒猫」は家の二方面、つまり東と南をこの崖でとりかこまれていることになる。ということは、「黒猫」には軒をならべる隣家がなくて、しかも裏坂をへだてる西北の一劃は、いちめんの焼野原になっているのだから、一軒ポツンと孤立して立っているのも同然で、こういう地形から見ても、いかさま、陰惨な犯罪にはお|誂《あつら》えむきの場所とおもわれた。  さて、村井刑事はこれだけのことを見てとった後、「黒猫」の裏庭へはいっていった。検屍はもうすんで、屍体は解剖のために運び出されたあとだったが、司法主任の指図で、わかい刑事たちがまだ丹念に、庭のあちらこちらを掘ってみているところであった。村井刑事は司法主任のほうへ近づいていった。 「検屍の結果はどうでした。死後どのくらいたっているのですか」 「だいたい三週間ぐらいだろうというんだがね。むろん、解剖の結果をみないと、正確なところはいえないが……」 「三週間というと、きょうは二十日ですから、先月のおわりか、今月のはじめということになりますね」 「まず、そんなところだろうね」 「すると、それ以来、屍体はここに、埋められていたということになりますか。それで、よく、誰にも気付かれなかったもんですね。近所で聞くと、まえの経営者がひっこしていったのは、一週間ほどまえのことだというんでしょう。それまでは、経営者夫婦のほかに、女が三人いたという、その連中が、全部共犯者とは思えないのに、どうして気付かなかったもんですかね。屍体を埋める穴といやア、ちっとやそっとの事じゃない。相当広範囲にわたって、掘りかえした跡がのこる筈ですからね」 「ところがね、犯人はうまいことを考えたんだよ、ほら、見たまえ。この落ち葉だ、犯人はこれで、穴を掘った跡をかくしておいたんだよ」  なるほど——と、うなずいて村井刑事は頭上を見上げた。そこには蓮華院の雑木林が、うっそうとしげっていて、「黒猫」のせまい庭をおおうていた。 「ところで、死因は? むろん他殺でしょうね」 「もちろん他殺だよ。後頭部に、ものすごい一撃をくらっているんだ。見たまえ、あれが兇器だ。さっき屍体といっしょに掘り出されたんだがね」  司法主任は足下の|蓆《むしろ》のうえを指さした。さっきまで、屍体を寝かしてあったその蓆のうえには、土にまみれた|薪《まき》|割《わ》りが、一|挺《ちょう》ほうり出してあった。それは郊外住まいの家庭なら、どこにでもありそうな小さな薪割りで、いかさま、手頃の兇器とおもわれた。村井刑事はその薪割りの、刃や柄についている黒いしみをみると、思わず顔をしかめたが、ふと、そばを見ると、 「ところでこの髪の毛は——おや、これはかもじですね。これはどうしたんですか」 「やっぱり、おなじ穴から出て来たんだよ。被害者は添え毛をしていたんだね。ちかごろじゃ、女はみんな断髪だから、髪を結うとなると、そんなかもじが必要なんだね」 「すると、被害者は、かもじをつけた女ということになりますね。ほかに何か。……|身《み》|許《もと》のわかるようなしろものは。……」 「なんにもない。完全に素っ裸なんだからね、わかっているのは二十五から三十までの女——と、ただそれだけだ。しかし、なに、先月の終わりから今月のはじめへかけて、この近辺で行く方のわからなくなった女、それを調べていけば、だいたい見当がつくだろう」  司法主任はしごくあっさりそういったが、それがいかに困難な仕事であったか、後になってわかったのである。 「ときに、日兆という坊主ですがね、あいつはどうして、ここに屍体のあることを知っていたんですか」 「さあ、それだよ。あの男とても興奮していて、まだ取り調べる状態になっていないんだが、昨夜、長谷川巡査にしゃべったところによると、だいたいこうらしい。二、三日まえ、あの男が崖のうえを通りかかると、この庭で、何やらがさがさという音がする。何気なく覗いてみると、犬が落ち葉をかきさばいているんだが、すると、ふいににょっきり、人間の脚らしいものが落ち葉の下から覗いたというんだ。しかし、そのときはおりて来て、たしかめてみる勇気はとてもなかった。ところがそれ以来というもの、そのことが気になって、気になってたまらない。忘れようとすればするほど思い出す。しまいには、夢にまで見るしまつなので、昨夜とうとう、意を決してたしかめに来た。——と、こういうんだ。見たまえ、そこの崖ンところに、人の滑りおりた跡があるだろ。そこから、シャベルをかついでやって来たんだね。妙な奴だよ。そんなに気になるのなら、交番へでもとどけて出ればよいものを、その勇気もなかったという。もっとも、果たしてそれがほんとうに人間の脚かどうか、確信もなかったんだろうがね。それにしても変だよ。後であってみたまえ。すこし精神に異常を来たしているんじゃないかと思う。それに……ええ、なに、何かあったのかい」  さっきから、崖下を掘っていた刑事のひとりが、妙な声をあげたので、司法主任は急いでそのほうへとんでいった。村井刑事ものこのこと後からついていった。 「猫ですよ。ほら、御覧なさい、こんなところに黒猫の屍体が埋めてあるんです」 「黒猫——?」  司法主任と村井刑事は、驚いたように、刑事の掘った穴のなかをのぞきこんだ。なるほど落ち葉まじりの土の下から、まっくろなからす猫の屍体が半分のぞいている。 「猫が死んだので埋めたのですね。このまま埋めておきましょうか」 「いや、ついでのことに掘り出してみたまえ」  司法主任の言葉に、わかい刑事が掘りすすめているところへ、 「猫ですって?」  と、声をかけながら、横の木戸から、はいって来たのは長谷川巡査であった。穴のなかを覗いてみて、 「ああ、クロですね」 「クロ? 君はこの猫を、知っているのかね」 「ええ、ここの看板猫ですよ。名前が『黒猫』だから、それにちなんで黒猫を飼っていたんです。いつ、死んだのかな。——あっ」  穴を取りまいていた人々は、いっせいにわっと叫んで顔色をかえた。周囲の土を取りのけたわかい刑事が、シャベルのさきで、猫の屍体をすくいあげたとたん、だらっと首がぐらついて、いまにも胴からもげそうになったからである。なんとその猫は、ものの見事に|咽《の》|喉《ど》をかききられて、首の皮一枚で、胴とつながっているのだった。 「こいつはひどい」  さすがのなれた村井刑事も、顔をしかめて、思わず眼をこすった。 「ふうむ」  と、司法主任も太いうなりごえをあげると、 「とにかく、その屍体は大事にしておいてくれたまえ。今度の事件になにか関係があるのかもしれん」  そこから、長谷川巡査のほうをふりかえると、 「君はこの猫が、いつごろいなくなったか知らないかね」  と、訊ねた。 「さあ。——気がつきませんでした。しかし、ああ、そうだ。つい、五、六日まえまでいましたよ。まえの経営者がひっこしていって、ここが空き家同様になってからも、黒猫がうろうろしているのを見たことがあります」 「五、六日まえ?」  司法主任は眼をみはって、 「馬鹿なことをいっちゃいかん。この猫を見たまえ。はっきりしたことはいえんが、死んでから、十日や二十日はたっているぜ」 「しかし、私はたしかにちかごろこの猫を見ましたがねえ。おかしいなア。なるほど、これ、ずいぶん腐っておりますねえ」  長谷川巡査は帽子をとって頭をかきながら、困ったように小首をかしげた。司法主任と村井刑事は思わず顔を見合わせた。何かしら恐ろしいもの、|変《へん》|梃《てこ》なかんじが、ふうっと二人の胸をかすめてとおった。一瞬、誰も口を利くものはなかったが、猫の屍体を掘り出したわかい刑事が、ふいにシャベルを投げ出して、ぴょこんと、うしろへとびのいたのはその時だった。 「ど、どうしたんだ。何かあったのか」 「む、む、むこうに黒猫が……」 「えっ?」  まったく、人間の感情なんて妙なものである。ふだんならば黒猫であろうが白猫であろうが、たかが猫一匹に驚くような人物は、ひとりもそこにはいなかった筈だが、このときばかりは文字どおり、みんなぎょくんと跳びあがったのである。なるほど、わかい刑事のいうとおりであった。蓮華院の崖のうえから、まっくろなからす猫が、しんちゅう[#「しんちゅう」に傍点]色の眼を光らせて、じっとこちらをうかがっている。つやつやとした見事な黒毛が、枯れ草のなかから、異様な光沢をはなっていた。 「クロ、クロ……」  村井刑事がこころみに呼んでみると、枯れ草のなかから黒猫が、 「ニャーオ」  と、人懐っこい声をあげた。 「来い、来い、クロよ、クロよ」  村井刑事が猫撫で声で呼んでやると、 「ニャーオ」  と、甘えるような声をあげながら、黒猫はのっしのっしと崖をおりて来た。そして、そこに立っているひとびとを、とがめるような眼で見上げていたが、そのまま、勝手口からなかへ入っていった。 「なあんだ。猫は二匹いたんじゃないか。長谷川君、君がちかごろ見たというのは、いまのやつだろう」 「そうかも知れません。でも、よく似ているものだから……」 「ふん、どっちも黒猫だから見分けがつかない。それに大きさも同じくらいだし、……つまり、まえの猫が死んだので、どこからか、|後《あと》|釜《がま》を持って来ておいたんだね」 「そうかも知れません。私も猫の戸籍まで調べるわけではありませんので、つい気がつきませんでした」  長谷川巡査は柄にもなく警句を吐いた。司法主任は苦笑いしながら、 「そうそう、戸籍といえば、戸籍簿持って来たろうね」 「ええ、持って来ました。ついでに、町会の事務所へも寄って、調べられるだけのことは調べて来ました」 「ああ、そう、じゃ、なかへ入って聞こう。村井君、君は家の中をよく調べてくれたまえ。犯行はこの家ン中で、行なわれたにちがいないと思うが、と、すれば、きっとどこかに、痕跡がのこっている筈だからね」  司法主任は長谷川巡査をつれて、勝手口からなかへ入っていった。  こういう商売をする家の、どこでもがそうであるように、「黒猫」も、とおり庭になっていて、勝手口から入っていくと、すぐ左に六畳の部屋があった。そこが経営者夫婦の居間になっていたらしく、階下で畳がしけるのはそこだけで、他は全部土間になっており、表の酒場とこの居間とのあいだに調理場があった。司法主任と長谷川巡査は、この調理場を抜けて、表の土間へ出ていった。  まえにもいったとおりこの店は、目下新しい経営者の手で改装中なのだが、朝が早いので、まだ大工も職人も来ていなかった。土間には削りかけの板があちこちに立てかけてあり、|鉋屑《かんなくず》がいちめんに散乱していた。司法主任は土間のすみにあるテーブルに、椅子をひきよせて腰をおろすと、 「君もそこへ腰をかけたまえ」  と、相手の腰をおろすのを待って、 「よし、それじゃ話をきこう」  と、促すように長谷川巡査の顔を見た。      三 「この家には一週間ほどまえ、正確にいえば今月の十四日まで、三人の男女が住んでいました。主人夫婦と女が一人、ほかに女がもう二人いたのですが、これは通いでした」  と、長谷川巡査が戸籍簿や、町会事務所の帳簿のうつしなどを、参照しながら語るところによると、だいたいつぎのとおりであった。  主人夫婦は糸島大伍にお繁といって、戸籍簿によると、大伍は四十二、妻のお繁は二十九歳であった。かれらがこの店を引き受けて、商売するようになったのは、昭和二十一年七月、即ち去年の夏のことで、町会事務所にある転入届けを見ると、そのまえには大伍は中野、お繁は横浜と別々に住んでいたらしい。そして、更にそのまえには、ふたりとも中国にいたらしいというのである。 「ほほう、すると二人は引き揚げ者なのかね」 「どうもそうらしいんです。このことは、お君——お君というのは住み込みの娘ですが——そのお君の話なんです」  糸島大伍というのは、こういう商売をしている男に似合わず、おだやかな顔付きをした人物だった。やや太り|肉《じし》の、あから顔の男で、いつもにこにこしていて、格別鋭いところもなく、どちらかというと、ゆったりとしたものごしだが、それでも結構ひとりで、バーテンからコック、仕入れから買い出しまでやってのけた。  さて、妻のお繁、即ち「黒猫」のマダムだが、この女は戸籍簿にも町会の名簿にも、二十九歳と出ているが、実際はもう少し老けてみえた。ひとつには、それは彼女の|髪容《かみかたち》のせいだったかも知れない。 「ながらく外地にいたものだから、かえってこんな姿に心がひかれるのよ」  そういって彼女はいつも、|銀杏《いちょう》|返《がえ》しかなんかに結って、渋い好みの着物を着ていた。|細面《ほそおもて》の、|痩《や》せぎすの、姿のよい女で、顔立ちも万事細作りながら、かっきりとした眼鼻立ちをしていたが、いささかととのい過ぎて、かえって淋しく、それにいくらか安手に見える難があった。しかし何んといっても、この界隈で、彼女に太刀討ち出来るほどの女はいなかったので、「黒猫」の客はたいてい、彼女がお目当てだった。  さて、このほかに「黒猫」にいたのは、いまいったお君という女と、ほかに二人、加代子、珠江という通いの女があった。お君というのはまだ十七、色気も欲気もまだまだで、|白《おし》|粉《ろい》の塗りかたさえ満足に知らぬという山出し娘、店へ出ることは出たが、マダムもさすがに客はとらせなかった。そういう女としてよりも、むしろ女中がわりに使っていたらしい。  加代子は自称二十三、珠江はおなじく、二十二ということになっていたが、どっちもほんとうの年齢は保証の限りではない。二人とも、負けず劣らずどぎつい化粧をして、負けず劣らず国辱みたいな洋装をしていたが、珠江のほうが、食糧不足はどこの国の話かと、いわぬばかりの肉付きをしているのに反して、加代子のほうはきりぎりすのように痩せて、姿のよいのを誇りとしていた。 「——と、以上五人が、一週間ほどまえまで、この『黒猫』にいたわけです」 「なるほど。それで、五人の行く方はわかるだろうね」 「ええ、それはすぐわかると思います。糸島夫婦とお君とは、転出証明をとっていってるのですし、加代子と珠江はここの改装が出来たら、またやって来ることになっているそうですよ」 「ふうむ、すると、その四人のなかに、あの屍骸に該当する奴はないね」  長谷川巡査は思わず眼をみはって、司法主任の顔を見直した。彼はいままで、夢にもそんなことは、考えていなかったらしい。 「どうも失礼いたしました。これは私の言葉が足りなかったのです。糸島夫婦がひっこしてからも、私はお君や、加代子や、珠江にあったことがありますよ。加代子と珠江は、店がしまった日だから十四日のことです。道でバッタリ会ったので、おまえたち、商売を止すというじゃないかと訊ねると、ええ、でも、お店の改築が出来たら、また働くことになっているの。今度の主人が、ぜひ来てくれというのよ、と、いうようなことをいっていました。それからお君にはその前日、町会事務所であいました。お君は転出証明をとりに来たんですが、そのとき、お払い箱になったから、目黒の|叔《お》|母《ば》のところへでも行こうといっていました」 「それで、マダムのお繁は……?」 「マダム……? マダムは、しかし……ねえ、警部さん、あの屍骸が殺されたのは、先月の終わりか、今月のはじめってことになっているんでしょう。それから店を仕舞う十四日まで、マダムの姿が見えなかったら、なんとか話がありそうなもんだが……ああ、そうそう、マダムにもその後、会ったことがありますよ。そうです。十四日の晩でした。御存じのとおり私のいる交番は、この横町を出たところにあるでしょう。私が交番の表に立っていると、亭主の糸島大伍とマダムがならんで、急ぎあしにまえをとおっていきましたよ。そのとき私は、いよいよ家を引きはらって、出ていくんだなと思ったから、十四日の晩にちがいありません」 「なるほど、それじゃあの屍骸は、『黒猫』のものじゃないということになるな。ところで、糸島夫婦はどこへ越していったんだね」 「それが、かなり遠方なんで……神戸なんですよ」 「神戸……? ふうむ」  司法主任はそこでしばらく、黙ってかんがえこんでいたが、急に体をまえに乗り出すと、 「さて、最後にもうひとつ、長谷川君、これが一番肝腎な質問だが、糸島夫婦はどういう口実で、店を譲ることにしたんだね。近所では、それをどういうふうに見ているんだね」 「さあ、そのことですがね。それについちゃ、みんな不思議に思っていたんです。そりゃこういう商売も、仕込みが万事ヤミですから、見かけほど楽じゃないにちがいないが、『黒猫』はたしかに当たっているという評判でした。だから、急に店を譲るという話をきいたときには、近所のものばかりではなく、加代子も珠江も驚いたらしいんです。ところが、お君は——お君だけがおなじうちに住んでいただけあって、事情をうすうす知っていたらしいんですが、いつか町会の事務所であったとき、こんな話をしていましたよ」  糸島夫婦が中国からの、引き揚げ者であることはまえにもいった。お君もかれらがどこにいたのか、よく知らなかったが、なんでも華北の相当奥だったらしい。ところがそこへ終戦が来て、日本人は全部送還されることになり、夫婦は奥地から|天《てん》|津《しん》へ出た。その途中ではぐれたのか、それとも、乗船するときはなればなれになったのか、ともかく、夫婦が日本へかえって来たのはいっしょではなかった。お繁のほうが、半年ほど早かったのである。  さて、ひとりぼっちの、無一物の、しかも外地に長くいたために、内地に識り合いを持たぬ女の落ちいくさき、それはたいてい相場がきまっている、お繁は横浜のキャバレーへもぐりこんだ。ところが何しろ、ちょっと眼につく器量だし、腕も相当よいらしく、すぐ男をつかまえた。男というのは浜の土建業者で、新円をうなるほど持っている人物であった。お繁はその男の二号か三号におさまって、やっと|塒《ねぐら》があたたまった。ところが、そこへ引き揚げて来たのが亭主の糸島大伍である。そこに、どういういきさつがあったのか、そこまではお君も知らないが、お繁は旦那と別れることになって、そのとき取った手切れ金で「黒猫」の株を買ったのであった。 「ところが、そうして手切れ金までとって別れながら、実際は、お繁と旦那の仲は、きれいになっていないらしいんです。最近まで、ちょくちょく逢っていたということです、亭主もそれを知っていて、よく、夫婦のあいだに|悶着《もんちゃく》が起こったそうですが、なにしろ、亭主にしてみれば、ここンところ女房に頭があがりませんや。女房の腕で、無一文の引き揚げ者が、とにかく食っていけるんですからね。それに、この亭主のほうにも、ほかに女があったというんです」 「ほほう。で、その女というのは?」 「それがね、やっぱり中国からの引き揚げ者なんです。さっきも申し上げましたが、亭主の大伍は女房より、ひとあしおくれて引き揚げて来ましたが、そのとき、船でいっしょになった女なんだそうです。それで内地にかえってから、糸島がお繁を探し出すまで、しばらく同棲していたらしい。それのみならず、糸島がお繁と元の|鞘《さや》におさまってからも、ときどき、逢っていたらしいというんです」 「それも、やっぱりお君の話かね」 「ええ、そうです」 「お君は、しかし、どうしてそんな、詳しい話を知っているんだね」 「それはマダムからきいたんですね。マダムは彼女をスパイに使っていたらしく、一度お君は、マダムの命令で亭主のあとを尾行して、糸島がその女と逢っているところを、突き止めたことがあるそうです」 「すると、マダムもその女の存在を知っていたわけだね。ところで、お君が亭主を尾行したという話、それ、もうすこし詳しくわからないかね」 「ええ、その話を、お君も得意になってしゃべっていましたから、私もよく憶えていますが、だいたい、こんないきさつのようでした」  ちかごろでは、酒も料理も不自由だから、「黒猫」でもよく休むことがあったが、そんな時には、マダムはきまって一人で外出した。いうまでもなく、旦那とどこかで逢うためだった。それを知っているから、あとに残った亭主の糸島は、いつもとても不機嫌だった。日頃はめったにあらい言葉を使わぬ男だのに、そんな時にはしたたか酒を|呷《あお》って、お君に当たり散らしたりした。マダムがかえって来ると、いつもひと悶着起こるのだった。ところが、そのうちに、糸島の様子が急に変わって来た。女房が出かけると、自分もそわそわと出かけるようになった。お君はそれを妙に思ったのである。どうもちかごろのマスターの様子はおかしい。——と、そこでこっそり、マダムにそのことを耳打ちすると、お繁ははっと思い当たるところがあったらしく、今度自分が出かけたあとで、マスターが外出したら、こっそりあとをつけておくれ。—— 「と、そういうわけで、お君は糸島の尾行をしたんですね」 「そして、相手の女というのを見たんだね、いったい、どういう女なんだね。そいつは」 「なんでも、二十四、五の、とても印象の派手な女だそうです。断髪の、口紅の濃い、ひとめ見て、ダンサーかレヴィユーの踊り子と、いったかんじの女だったそうです。糸島はその女と新宿駅であって、|井《い》の|頭《がしら》へいって、変な家へ入った。——と、そこまで見届けて、マダムに報告すると、さあ、マダムが口惜しがってね。その女ならまえに日華ダンスホールにいた、鮎子という女にちがいない。糸島といっしょに、中国からかえって来た女だが、ちきしょう、それじゃまだ、手が切れていないんだね。——というようなわけで、その晩はなんでも亭主とのあいだに、大悶着が起きたそうです。いや、あの晩ばかりじゃない。それ以来、常に雲行き険悪で、夫婦のあいだにいざこざが絶えなかったといいます。しかし、そのうちに、マダムのほうでしだいに反省して来たんですね。ちかごろじゃ、こんな生活、一日も早く清算したい。貧乏してもいいから、夫婦まともに暮らしていきたいなんてことを、口癖のようにいっていたそうです。そして、それには東京にいては、いままでのひっかかりがあるから夫婦とも駄目だ。いっそどっか遠いところへ行ってしまいたい。——と、そんなことをいってた矢先ですから、マスターが突然、店の閉鎖を申しわたしても、お君はそれほど、驚きはしなかったというんです」  司法主任はしばらく無言で、いまの話をあたまの中で組み立てていた。こんな話、かくべつ新しいことではない。この社会にはザラにある話であった。しかし、それにもかかわらず、司法主任は何かそこにえたいの知れぬ、うすら寒いものをかんじずにはいられなかった。表面にういているその事実の底に、何かしら、一種異様なドス黒さが、よどんでいるように思われてならないのだった。 「その女——糸島の情婦の鮎子というのは、日華ダンスホールにいたことのある女なんだね。それから、マダムの旦那というのは?」 「浜の土建業、風間組の親分で、風間俊六という男だそうです」  司法主任はその名を手帳にひかえると、 「いや、それでだいたい、この家の様子はわかったが、ときに、日兆という男だがね。あの男はいったいどうなんだね。すこし気が変なんじゃないかね」 「いや、あれは、気が変というわけじゃないんですが、変人で名高い男なんですよ。しかし、あれでなかなか、老師おもいでしてねえ。いったい、蓮華院というのは、この界隈でのものもちなんです。この家なんかもそうですが、ここいらはみんな蓮華院の地所なんですよ。それで、以前には、相当たくさん坊主がいたんですが、それがみんな兵隊にとられちまって、戦死をしたり、まだ復員していなかったりで、いまではあのひろい寺に、老師の日昭と、あの日兆のふたりきりなんです。日兆もまだ若いし、あの男はたしか二十六です——当然、兵隊にとられるべきところ、小さいとき小児麻痺をやって、片脚がすこしふじゆうなところからのがれたんです。ところが、老師の日昭というのが、戦争まえから中風の気味で、いまではほとんど寝たっきりです。だから、檀家のおつとめは申すに及ばず、すすぎ|洗《せん》|濯《たく》から|煮《に》|焚《た》きの世話、さらに地代の集金と、なにからなにまで、あの日兆がやっているんですが、無口な男でしてね、どこへいってもよけいな口はおろか、必要な口さえめったに利かぬという男です。しかし、まあ、あれだから間違いがないので、何しろ界隈がこういうところですから、地代の集金さきというのも、たいてい白粉くさい女のいる家です。そういう女のなかには、からかい半分、ちょっかいを出すやつもあるんですが、全然歯が立たない。だから日兆さんの変クツといえば、このへんでは通りものになっているんです。いささか常軌を逸したところはありますが、まあ、あの男はあれだけのものだと思います」  その時、大工や職人たちがやって来たらしく、表からドアをゆすぶる音がきこえたので、司法主任はそれをしおに立ち上がると、職人たちには裏へまわるように命じておいて、自分も通り庭をとおって裏へ出ようとすると、 「あ、警部さん、ちょっと……」  と、六畳から、顔を出したのは村井刑事だった。 「ああ、村井君、何か見付かったかね」  司法主任が靴をぬいであがっていくと、村井刑事はだまって、壁際にしいてある|薄《うす》|縁《べり》をまくって見せた。司法主任はそれを見ると、思わずぎょっと唾をのんだ。薄縁でかくした畳のうえには、血を拭きとったらしい跡が、べっとりとついていた。 「それじゃ、犯行はこの部屋で行なわれたんだね」  村井刑事はうなずいて、それから裏庭にむいた縁側の、すぐうらがわにある、押し入れのまえの畳を指さした。 「ごらんなさい。その畳に|箪《たん》|笥《す》の跡がついているでしょう。ところで、押し入れのまえに箪笥をおく筈はないから、その畳と、こっちの畳はちかごろになって入れかえたわけですね。つまり、この血のついた畳は、押し入れのまえにあったんです。ところで……これを御覧なさい」  押し入れの|襖《ふすま》の、ちょうど引き手の下に当たるところに、新聞がいちまい|貼《は》ってあった。 「いま、苦労して、やっとこれだけはがしたんですがね」  村井刑事はそっと、新聞のしたをつまんで押し上げた。と、そこにはひとかたまりの血の|沫《しぶき》が、まるでつかんで投げつけたように、どっぷりとはねかかっているのだった。 「これは私の想像ですが、この部屋で被害者と加害者の格闘があった。そして、被害者は庭のほうへ逃げようとした。そこをうしろからあの薪割りで、ぐゎんと一撃やられたんでしょう。ところで、この新聞をごらんなさい。二月二十七日の新聞ですよ。この襖にこんな血をくっつけたまンま、いつまでも放っとくわけがありませんから、事件の起こったのは、少なくとも二月二十七日よりまえではない。と、同時に、おそらく、いちばん手近にあった新聞を用いたことでしょうから、二月二十七日より、それほど後でもないと思われます。その日の新聞か、前日の新聞、まあそんなところでしょうから、殺人のあったのは、二月二十七日か二十八日、おそくとも三月二日三日ごろまでの間だと思われます」 「ふむ、それでだいたい、屍骸の腐敗状態と一致するわけだが、しかし、村井君、そうすると糸島夫婦は、それから約二週間、じぶんたちの殺した女の、血のなかでくらしていたわけだね」  そこにこの夫婦の、なんとも名状することの出来ぬ鬼畜性がかんじられて、司法主任はいまさらのように、ゾーッと鳥肌の立つのをおぼえた。      四  司法主任はそれから、大工や職人を調べてみたが、この人たちはなんにも知らなかった。糸島夫婦が「黒猫」を引き払ったのは十四日の晩のことだが、その翌日からかれらはここへ通いはじめた。だからきょうでもう六日になるが、そのあいだ別に変わったこともなかったし、怪しいと思われるような節もなかった。また、殺された女についても、すこしも心当たりはない。——と、いうのがかれらの申し立てであった。そして、そのことは、だいたい信用してもよさそうであった。  ところで、かれらが取り調べをうけているところへ、折りよくやって来たのが、この店の新しい経営者で、池内省蔵という男だが、かれもまた、何ひとつ、参考になりそうな事実をあげることは出来なかった。  池内というのは渋谷で、おなじ商売をしている男だが、この店を買い取るようになったのは、新聞で、「売り家」の広告をみたからである。この広告は、三月七日のY新聞の案内欄に出ており、それから交渉がはじまって、三月十二日にまとまったのであるというのが、かれの申し立てであった。この新聞はもちろんすぐにたしかめられたが、池内のいうところに間違いはなかった。 「すると、君はそれまで一度も、糸島という男にあったことはなかったのかね」 「ありません。新聞を見て、交渉をすすめるようになってから、はじめて会った男です」 「その交渉にあたったのは亭主かね。マダムのほうかね」 「亭主のほうでした。私はついにマダムにはあわずじまいでした」  この交渉がはじまってから、池内は店の評判について、近所できいてまわったが、そのとき、マダムがたいへん美人であるということをきいたので、一度会ってみたいと思ったが、あいにく彼女は病気で寝ているということで、ついに会う機会がなかった。交渉が成立するまえ、一度マスターの案内で、家中見せてもらったが、そのときも、マダムは六畳にひきこもったきり、とうとう顔を見せなかった。と、いう話をきいて、司法主任はひそかに心にうなずいた。さすがにマダムは恐怖と不安のために、平静ではいられなかったのだろう。——と、そう考えたのだが、いずくんぞ知らん、この事実のうらにこそ、世にもおそろしい秘密がひめられていようとは、さすがに思いおよばなかったのである。  それはさておき、池内の口から、加代子や珠江の住所がわかったので、その日の午後、二人は警察へよび出された。と、同時に、目黒の叔母のところへ身をよせているお君も、参考人としてよび出された。そこで、三人の申し立てるところを綜合すると、だいたいつぎのとおりであった。  かれらがマスターの糸島大伍から、店を譲り渡すことを申し渡されたのは、十三日のことであった。もっともそのまえから、池内がちょくちょく出入りをするので、だいたいのところは想像していたから、それほど驚きもしなかった。大伍はそれからすぐに、表通りの委託販売店のおやじを呼んで来ると、目ぼしい品は、ことごとく売りはらってしまった。売りはらわれた品は、その日とその翌日のうちに、委託販売店から人夫が来て持っていった。加代子、珠江、お君の三人は、十四日の正午過ぎ、マスターに最後の挨拶をして別れた。それきり会ったこともなければ、消息もきかぬ。と、いうのが三人の話であった。 「それでおまえたちは、マダムに挨拶をしなかったのかね」  司法主任が何気なく訊ねると、女たちは急に顔を見合わせた。そして、しばらくもじもじしていたが、やがてきりぎりすの加代子がこんなことをいった。 「それについて、私たち、いまになって妙に思っているんですが、マダムは今月のはじめごろから病気だといって、奥の六畳にひきこもったきり、一度も顔を見せませんでした。ええ、その時分も、すこしへんだとは思いましたが、でも、それほど深く、気にとめていたわけではございません。しかし、いまになってかんがえてみると、あたしたち三人とも、今月になって一度もマダムの顔を見ていないんです。おひまが出たときも、マダムに挨拶をしようというと、マスターが、あれは病気だからいいとおっしゃるので……」  司法主任はそれをきくと、ふいと怪しい胸騒ぎをかんじた。その胸騒ぎの理由が、なにによるのかはっきりつかめなかったが、なにかしら、えたいの知れぬドス黒い不安が、いかすみのように、噴き出して来るかんじだった。 「しかし、マダムはいることはたしかにいたんだね」 「ええ、それはいました。あたしたちに顔を見せませんでしたけれど、御不浄へいく後ろ姿などがときどき見えました。六畳のまえをとおると、向こう向きに寝ていて、本など読んでいるのがよく見えました」 「いったい、マダムの病気というのはどういうことだね。それほどの病気で、医者を呼ぼうともしなかったのかね」 「いいえ、病気たって、そんな病気じゃなかったんです。マスターの話によると、悪いドーランにかぶれて、まるでお化けのような顔になった。だから、誰にも顔を見られたくないんだと、そういうお話でした。マダムはよくドーランにかぶれるので、去年も一度そんなことがあったのですが、今度はよほどひどかったのだと思います」  司法主任はまた怪しい胸騒ぎをかんじた。 「それで、マダムが顔を見せなくなったのは、いつごろからの事なんだね。はっきりした日はわからないかね」  それについては、お君がこんなふうにこたえた。先月の二十八日、つまり二月のいちばんおしまいの日は臨時休業だった。自分はその日、朝からひまをもらって、目黒の叔母の家へ遊びにいって、一晩とまってかえった。するとマスターが、マダムは病気で寝ているから、奥の六畳へちかよらないようにといった。それ以来、マダムの顔を見たことがない。……  お君の話は、村井刑事の推定とぴったりとあっている。殺人のあったのは二月二十八日なのだ。臨時休業だから、加代子も珠江もむろん休みである、そして、お君も留守になったそのあとで、あの恐ろしい事件が起こったのだ。  そこで司法主任は|鋒《ほこ》|先《さき》をかえて、こんどは猫のことを切り出した。裏の崖下から、黒猫の屍骸が掘り出されたことを話してきかせると、三人はびっくりしたように顔を見合わせたが、やがて加代子がこんなことをいった。 「そういえば、思いあたることがあります。あの猫は去年からいるので、よく馴れていたんです。それが、今月のはじめごろ、二、三日とてもおびえて、どうかすると床下へもぐりこんでしまうんです。それでマスターが三日ほど、首に紐をつけて、お店の柱にしばりつけていたことがあります。そのとき私が、どうしてこうなんだろうと申しますと、なに、サカリがついているからだよと、マスターが申しました」 「ええ、そういえば私もおもい出しましたわ」  と、食糧不足そこのけの珠江もそのあとについて、 「なんだかその時分、クロが急に小さくなったような気がしたので、マスターにそのことをいったんです。するとマスターは笑いながら、サカリがついて、飯を食わないから痩せたんだよ。恋には身も心もやつれるものさと、そんなことをいっていました。でも、いまからかんがえると、マスター、嘘をついていたのね。あの猫は、せんにいたクロじゃなかったのね」 「そして、マスター、猫がかわっていることを、私たちにかくしていたのね」  お君の言葉に、一瞬しいんとした沈黙が落ちて来た。何かしら、恐ろしいものが、女たちの心をふるわせた。唇まで冷たくなるかんじであった。  さて、司法主任はそこでいよいよ、一番重大な問題へ触れることになったわけだが、かれはそれをこういうふうに切り出したのであった。 「ところで、おまえたちも、今度の事件のことは知っているだろう。そこでおまえたちの意見をききたいのだが、あの屍骸をいったい誰だと思う。私たちの考えでは、人殺しがあったのは、多分二月二十八日のことだろうと思うんだが、その事も考えに入れて、なにか心当たりはないかね」  それをきくと三人の女は、いまさらのように、ものに|怯《おび》えた眼を見交わして、しばらく黙りこんでいたが、やがてお君がおずおずと口をひらいた。 「あの……ひょっとすると、それ……鮎子という人ではないでしょうか。鮎子さんというのは……」 「ああ、その事なら私も知っている。マスターの情人だね。しかし、おまえどうしてあれを鮎子だと思うんだね」 「だって、マダム、そのひとのことをとても憎んでいましたし、それに……」 「それに……? 何かほかに理由があるのかね」 「ええ、あの、あたし、いま思い出したのですけれど……そうですわ。たしかに一日のことですわ。お休みのつぎの日でしたから。……あたし朝早く、叔母のところからかえって来ると、お店の掃除をしたんです。すると、隅のテーブルの下に……ほら、テーブルの下に棚があって、物をおくようになってるでしょう。あの棚のなかから、女持ちの派手なパラソルが出て来たんです、マダムのでもなく、加代ちゃんや、珠江さんのでもありませんから、誰が忘れていったんだろうとひらいてみたんですが、すぐはっと思いました。あたし、そのパラソルに見憶えがあったんです。それ、たしかに鮎子という人のパラソルにちがいありませんでした。あたし一度だけ、その人がマスターとつれだって、歩いているのを見たことがあるんですけれど、たしかにそのとき、鮎子という人が持っていたパラソルでした」  司法主任は急にからだを乗り出すと、 「ふうむ、すると鮎子という女が、みんなの留守にやって来たんだね。そして、おまえはそのパラソルをどうしたんだね」 「あたし……鮎子さんのだと気がつくと、急にこわくなって、もとのところへしまっておきました。だって、うっかりそんなことマスターにいうと、あたしがせんに、尾行したことがわかりますし、マダムの耳に入ったら、また大騒動ですから、知らんかおをしていようと思ったのです。そしたら……」 「そしたら……?」 「ええ、それから間もなく用事があって、外へいって、かえって来たら、パラソル、いつの間にか、なくなっていました」 「すると、おまえの考えはこうなんだね。二十八日の日に鮎子という女がやって来た。そしてマダムに殺された。……」 「あっ、そういえば私も思い出した事があるわ」  そのとき急に横合いから、口をはさんだのは珠江だった。ひどく興奮したくちぶりで、 「ええ、そう、やっぱり一日のことよ。お休みの翌日だったから。私、なんの用事だったか忘れたけど、裏の庭へ出たんです。すると、ひとところ、土を掘った跡があるんです。私、それで何気なく、誰があんなとこ掘ったのかしらとマスターに訊ねると、なに、野菜でもつくろうかと思って掘ってみたんだが、あまり日当たりが悪いから止めにした……と、マスターがそういったんです」  珠江はいまにも泣き出しそうな顔で、 「するとあの時、私の踏んでいた土の下に、屍骸がうまっていたんですわね」  と、いまさら、ぞっとしたように自分の足下をみつめた。 「すると、そこを掘ったのは自分だと、マスター、はっきり認めたんだね」  珠江は蒼白いかおをしたままこっくりと|頷《うなず》いた。それからこんなふうに、自分の意見をつけくわえた。 「鮎子という人を殺したのは、マダムかも知れないけれど、屍骸を埋めたのはマスターですわ、きっと。……鮎子という人、マスターの恋人だったかも知れないけれど、マスターにとって、ほんとに大事なひとは、やっぱりマダムだったんです。だから、マダムをかばうために、屍骸を埋めてしまったんですわ」  さて、問題の鮎子だが、その女については、加代子も珠江もよく知らなかった。むろん、お君から話はきいていたし、また、マダムがよくこの女のことで、やきもちを焼いているのをきいたことがあるが、会ったことは一度もなかった。お君だけがいちど——それは一月の終わりだったが——その女を見ているのだが、彼女とても鮎子という名を知っているだけで、そのほかの事は何も知らなかった。唯、マダムのもらした言葉によって、マスターといっしょに、中国から引き揚げて来た女であり、日華ダンスホールで、ダンサーをしていたということだけがわかっていた。 「ええ、あのひと、いまでもどこかで、ダンサーかなんかしてるのよ、きっと。……そういうふうでしたもの。とても派手な洋装をして……器量ですか、さあ、……マスターがいるので、あまりそばへ寄れませんでしたけど、パッと眼につく顔立ちで……そうそう、あれ、入れぼくろかしら、ほんとのほくろかしら、唇の右下のところに、かなり大きなほくろがありました」  最後に司法主任は、マダムとマスターの日頃の仲を訊ねてみたが、それに対する三人の答えはこうであった。  マスターという人はいつもにこにこした、物柔かな人物だったが、どこか底気味悪いところがあった。マダムもしじゅう何かおそれているようであった。マダムがその後も、別れた旦那に逢いつづけていたのは、マスターの命令で、旦那から金をしぼっていたらしいが、マダムはむしろ、その旦那に|惚《ほ》れていたらしく、だから、自分の命令で出してやりながら、マスターはいつも、マダムが出ていったあとは不機嫌だった。ところが近ごろ、鮎子という女と|撚《よ》りがもどったらしく、マダムが出かけると、きっとソワソワとしてあとから出かけた。そこで今度は、マダムのほうが不機嫌で、よくマスターに当たり散らしていた。とにかく、何んとなく気味の悪い夫婦であった。  司法主任がこういう聴き取りをしているあいだ、部屋の隅に坐って、終始無言で、聞き耳を立てていたのは村井刑事だった。そのあいだ、かれは一度も口を利こうとはしなかった。聴き取りがおわって、女たちがかえってからも、かれは無言で、仏様のように、つくねんとかんがえこんでいた。司法主任もしばらく無言で、いまとったメモを読み返していたが、やがて、村井刑事のほうを振りかえると、 「要するに、問題は鮎子という女だね。その女が被害者であるか、ないかはしばらくおくとしても、——十中八九、それに間違いないと思うが——とにかく、その女のことを徹底的に、調べてみる必要があるね」  村井刑事は無言のままうなずいた。 「その事はそう大して、むつかしい事じゃあるまいと思う。日華ダンスホールにいたことがあるというんだから、そこから探っていけばわかるだろう」  村井刑事はまた無言のままうなずいた。それからおもむろにこういった。 「それから風間という人物ですね。これもいちど、よく調べてみる必要がありますね」 「そう、なんといっても、お繁にとっちゃ|金《かね》|蔓《づる》らしいからね。しかし、土建業の親分といえば、|一《ひと》|筋《すじ》|縄《なわ》じゃいかんぜ。そのつもりで当たってみてくれたまえ。こっちはともかく、糸島夫妻について手配をしてみる。どうせ、神戸なんて、嘘っぱちにきまっているんだ。しかし、弱ったな。写真でもあるといいんだが……」  外地から引き揚げてきて、まだ間もない夫婦だから、写真というものがいちまいもなかった。そして、この事がこの事件に、大きな意味を持っていたことが、後になってわかったのである。  村井刑事はしばらく、無言でもじもじしていたが、やがて思い切ったように口を開いて、 「ところで、警部さん、私にはひとつ、不思議でならないことがあるんですがねえ。マダムのお繁ですが、あの女はなぜそのように、用心深く顔をかくしていたんでしょう。病気というのはわかります。あんな恐ろしい人殺しをしたんだから、良心の|呵責《かしゃく》と恐怖のために、寝込んでしまったということはありましょう。しかし、二週間といえば相当長い期間ですよ。そのあいだ三人の女に、一度も顔を見せなかったというのは、いったいどういうわけでしょう。なぜ、そんなに用心深く……」 「ふむ、それは私も変に思っているんだが、ひょっとすると、鮎子を殺すとき、自分も怪我をしたんじゃないか。顔をひっかかれるかなんか……」  村井刑事はうなずいた。 「そうかも知れません、それも一つの解釈です。しかし……」 「しかし……?」  村井刑事はそのあとを語らなかった。急に言葉をかえて、 「それから、もう一つ不思議なのは、あの黒猫です。あの猫はなぜ殺されたのでしょう」 「それはなんだ。きっと、人殺しのとばっちりを受けて怪我をしたんだ。で、あとで女たちに怪しまれちゃいけないというので、殺してしまったんだよ。その証拠に、あの部屋にのこっていた血痕のなかには、人間の血にまじって、猫の血もあったそうだ」  刑事は何かいおうとしたが、今度も気をかえたように、 「いや、どちらにしても、鮎子という女のことを、もうすこし詳しく知るということが先決問題です。とにかく行って来ましょう」  村井刑事は帽子をとって立ちあがった。そして部屋を出ていった。      五  これから三月二十六日、即ち、あの恐ろしい事実が明るみへ出て、事件がすっかり、ひっくりかえってしまうまでの期間は、一種の|渾《こん》|沌《とん》時代であり、村井刑事にとっては、奥歯にもののはさまったような、妙に割り切れない気持ちの摸索時代であった。しかし渾沌時代に刑事が|蒐集《しゅうしゅう》した情報のなかに、いろいろ重大な意味があったのだから、ここではしばらく、それらの情報について触れていこう。  日華ダンスホールでは、鮎子のことを記憶していた。しかし、鮎子という女が、ここで働いていたのは、極く短期間だったし、それにそのあいだも、しょっちゅう休んでいたという事で、彼女について、詳しいことを知っている者はひとりもなかった。それでも彼女の|苗字《みょうじ》はわかった。桑野鮎子——それが、ダンスホールにおける彼女の名前だったが、むろんそれが、本名であるかどうか、知っているものは一人もなかった。  マネジャーの話によると、彼女がここで働いていたのは、去年の五月から六月までの、一月ほどのあいだであるということだった。紹介者があって来たのではなく、ダンサー募集の新聞広告を見て、やって来たのだが、テストをしてみると、ステップも鮮かだったので、一も二もなく採用した。衣裳なども自弁で、ホールのほうへ迷惑をかけることは、ほとんどなかったので、身許調査というような、七面倒なこともやらなかった。しかし、中国から最近、ひきあげて来たのだということは、いつ、誰がきいたのか、ホールの者はみんな知っていた。 「そうですね。身長は五尺二寸ぐらいでしょうか、顔は……さあ、むつかしいですね。まあ、美人のほうでしたね。あまり口数は利かないほうでしたが、それでいて、ひとを|惹《ひ》きつける魅力を持っていた。ええ、そう、どちらかというと明るい性質で、顔立ちなども派手なほうでした。ほくろ……? そうそう、しかしあれは入れぼくろでしたよ。それがまた、なかなかよく似合っていましたが。……なにしろ、ひと月ぐらいしかいなかったし、そのあいだもちょくちょく休むので、これくらいのことしか印象に残っていないんですが……」  しかし、マネジャーの探してくれたダンサーの一人に、もうすこし詳しく知っている女がいた。 「鮎子さん? ええ、憶えています。あの方、恋人がありましたわ。マネジャーは御存じないかも知れませんが、よく裏口まで迎えに来ていましたわ。それが相当お年のいったひとなので、あたしよく憶えているんです。ええ、そう、四十前後の、小太りに太った方で、あからがおの、いつもにこにこと笑っている人でした。なんでも中国からのかえりの船で、とても世話になったとか……そんな話をいつか、鮎子さんから聞いたことがあります。いいえ、ここをお止しになってから、どちらにいらっしゃるのかちっとも存じません」  ところが、いまひとりのダンサーは、もうすこしちがったことを知っていた。 「ああ、鮎子さん、あの方ならあたし最近会いましたわ。最近たって、もうふた月になるかしら。お正月ごろのことでしたわね。日劇のまえでバッタリ出会ったのです。その時あの方、男のひとと一緒だったので……ええ、そう、せんによくここの裏口へ来てた人ですわ。で、あたしたち、あまり口を利かなかったのですけれど、なんでも浅草のほうにいるって話でした。ところであの方、ほんとうは桑野って苗字じゃありませんのよ。鮎子というのも変名らしかったわ。だって、中国から持ってかえったもの、これひとつよと、いつかお見せになったスーツ・ケースに、C・Oって頭文字がはいっていましたもの」  これを要するに、日華ダンスホールで得た収穫といえば、鮎子と糸島とが、しばしば逢っていたらしいこと、鮎子の本名が、C・Oという頭文字を持っているらしいこと、それくらいのものであった。しかし、村井刑事はそれで十分満足だった。殊に本名について手懸かりが出来たのは、たいへん好都合であると思った。村井刑事はそれから横浜へ向かった。 「土木建築業、風間組事務所」——そういう看板のあがった、仮り建築の事務所の中で、はじめて向かいあった風間俊六という男は、刑事の予想とは、およそかけはなれた人物であった。土建業の親分——と、いう先入観から、かれはもっと年をとった、脂ぎった人物を想像していた。ところが、会ってみるとその人は、四十に四、五年、間のありそうな年頃で、頭を丸刈りにした、まだ多分に、書生っぽさの残っている人物だったので、刑事もちょっと案外だった。  しかし、話してみるとさすがにちがったところがあった。老成した口の利きかたには、一種の重みがあって、ちょっとした身のとりなしにも、ヒヤリとするような鋭さがあり、しかし一方、それを露骨に見せないだけの、身についた練れも出来ていた。  それはさておき、刑事がまず驚かされたのは、この男がすでに、G町の事件を知っていたことである。それについて、かれはしごく無造作にこういってのけた。 「なアに、お君という娘が電話で報らせてくれたんですよ。だからいまに、警察のかたが見えるだろうと思って、待っていた所です」 「ああ、それで……いや、すでに御存じとしたら|却《かえ》って話しよい。ところで、どうですか、御感想は?」 「感想? そうですね。お君の電話をきいたときには、たしかに驚いたことは驚いた。しかし、それもいっときのことで、落ち着いてかんがえてみると、敢えて驚くに足らんという気がしています」 「と、いうのは、何かこのような事件が、起こるだろうというような予感でも……」 「いや、そういう意味じゃありません。あっしのいうのは、こういう時代でしょう? それにあいつらの……いや、『黒猫』の商売が商売でしょう? こういう血なまぐさい事件が起こっても、敢えて異とするに足らんという意味です」 「『黒猫』へは行ったことがありますか」 「ありません。G町というのがどのへんなのか、それさえよく知らないンです。まさか亭主といっしょにいるところへ、のこのこ、出かけられもしないじゃありませんか」  風間はあけっぴろげの声をあげて笑った。肉付きのたくましい厚みのある男で、いかにも肺活量の強そうな、深いひびきのある声だった。 「ひとつ、お繁という女との関係を話してくれませんか」 「話しましょう。どうせわれわれは聖人君子じゃない。気取ってみたって仕方がありませんからね。しかし、別に変わったところもありませんよ」  風間がはじめてお繁にあったのは、横浜のさるキャバレーで、それは一昨年の暮れのことだった。お繁は当時、中国から引き揚げて来たばかりで、ほとんど身ひとつというような状態だった。そのキャバレーには、ほかにも女が大勢いたが、とくにお繁のすがたが風間をとらえたのは、 「あいつがいつも着物を着ていたからなんです。ええ、銀杏返しや|鬘下地《かつらしたじ》なんかに結ってね、|黒《くろ》|繻《じゅ》|子《す》の帯やなんか締めている。そんなところで、そんなふうをしているのが面白くて、こいつ話せると思ったんです。しかし、そうかといって、この女をどうしようなんて考えはあっしにゃなかった。これはほんとのことです。自分の口からいうのも変だが、あっしゃ女にかけてはわりに淡白なほうです。もちろん嫌いじゃありませんがね。それよりも、あっしにゃ|金《かね》|儲《もう》けのほうがよっぽど面白い」  それにも拘らず、結局、風間がその女の面倒をみるようになったのは、 「つまり、まんまとあいつに、してやられたようなもんですよ」  風間はそういって、また、ひびきのある声で笑った。  ちょうどその頃、風間の建てた家があいていたので、お繁をそこへかこってやった。そして、ときどき通っていくことにしていた。風間はとくにその女が好きでも嫌いでもなく、いわば惰性で、そんな関係をつづけているみたいなもんだった。 「だから、お繁の亭主という奴が、だしぬけに名乗って来たときにも、あっしゃ大して驚きもしませんでしたね。それがあの、糸島大伍という男で、去年の六月のことでした。あなたはあの男をどういうふうに、思っておいでか知りませんが、見かけはしじゅうにこにこと、おだやかな顔付きをした男だが、あいつ、あれで相当なもんですよ。あっしに向かって|凄《すご》|味《み》な文句をならべやアがったからね」  風間はそういって、自分自身、凄味のある微笑をうかべると、 「しかし、糸島のやつ、なにもそんなに|強《こわ》|面《もて》で来る必要はなかったんだ。正直にいって、あっしゃあの女を持てあましていたんです。と、いうのが、あンまり大きな声じゃいえませんが、長く外地を流れて来ると、あんなふうになるもんですかね、お繁という女が、つまり、その、なんですな、変な好みを持っていやアがるんですよ、男と女の関係にですね」  風間はにやりと笑って、それから、それを|弾《はじ》きとばすように、勢いよく笑うと、 「いや、変な話になって恐れ入ります。あっしゃ、しかし、これでまともな人間なんです。万事好みも平凡なもんだ。だからはじめのうちこそ珍らしかったが、しまいにゃしつこいのでいやになった。なるべく足を抜くことにしていた。そういうやさきでしたから、亭主と名乗る奴が現われたのは、渡りに舟みたいなもんで、あっさり、のしをつけて返してやりましたよ」  刑事はそういう風間の顔をまじまじと視詰めながら、 「しかし、それにも拘らず、あんたはその後も、あの女に逢っていたんですね」 「いや、それをいわれると一言もありません。きれいな口を利いていても、結局、男ってやつはいやしいもんだ。いえね、あっしだって、いったんのしをつけて返した女だ。まさか、こっちから、ちょっかいを出すようなことはなかったが、女の方からヤイヤイいわれると……なんていうと笑われるかも知れませんが、なに、向こうさまのお目当ては、あっしという人間にあるんじゃない。あっしの抱いてる、新円にあるんだから世話はありませんや」 「しかし、まんざら、そればかりじゃなかったんでしょう。やっぱりあんたに、惚れてることは惚れてたんでしょう」  村井刑事はそれを極く、しぜんにいうことが出来た。話しているあいだに、この男の粗野で、押しの太い人柄に、強い魅力をかんじずにはいられなかった。こういう人格はどうかすると、あるタイプの女を夢中にさせるものである。相手はしかし、刑事の言葉をどういう意味にとったのか、ただぶすっと、渋い笑いをうかべたきりだった。  刑事はそこで話題を転じて、鮎子という女のことを訊ねてみた。すると、風間はふいと眉をくもらせて、 「ええ、そのことについて、いま思い出していたところなんです。いいえ、わたしゃその女に会ったことはない。しかし、名前はお繁からおりおりきいていた。お繁は亭主に惚れちゃいなかった。いや、むしろ憎んでいた。しかし、そんな亭主でもほかに女が出来たとなると、やっぱり、女の自尊心が承知しないんですね。よく、わたしに愚痴をこぼしていました。あっしはしかし、そんな事には一向興味がなかったから、いつもいいかげんにあしらっていたんです。ところが、いちばん最後にあったとき、そう、二月のなかごろでしたかね、お繁が妙に興奮してましてね、自分はいつなんどき死ぬかも知れん、死んだらお線香の一本もあげてくれなどと、いやにしめっぽいことをいうかと思うと、急にまたいきり立って、いいや、自分ひとりじゃ死なない、死ぬときにゃア、あの女もいっしょに連れていく、|唯《ただ》じゃおくもんかなどと、とにかく手がつけられないんです。いまから思うと、あの時分からあいつは、今度のことを決心していたんですね」 「すると、あんたも鮎子を殺したのはお繁だと思うんですか」 「そうでしょう。まさか糸島が自分の情婦を殺す筈がない。わたしはお繁が人殺しをしたとしても、ちっとも不思議はないと思う。あいつは女じゃない。お繁という奴は牝ですよ」  風間はそういって、凄味のある微笑をうかべた。  村井刑事はそこでまた話題を転じて、糸島という男が、いつ頃引き揚げて来たか訊ねてみた。すると風間は意外に正確に、時日から船の名前まで知っていて、 「あの男の引き揚げて来たのは去年の四月で、船はY丸、博多へ入港したんです、お繁がかえって来たのは、一昨年の十月だから、半年おくれたわけですね。わたしがなぜ、そんなに正確に知っているかというと、わたしの識り合いで、糸島とおなじ船で引き揚げて来た男があるんです」  村井刑事はそれをきくと、思わず胸を躍らせた。そこでその識り合いというのを紹介して貰えぬか、というと、風間はちょっと、驚いたように刑事の顔を見なおしたが、 「ああ、そうそう、鮎子という女も、その船に乗っていたんでしたね。ええ、ようがすとも」  風間は名刺の裏に紹介の文句を、さらさら書くと刑事に渡して、 「刑事さん、今度の人殺しについちゃ、わたしは全然関係ありません。しかし、自分でも気のつかないところで、何かひっかかりがあるような場合がないとも限らない。そんなことがあったらいつでも来て下さい。自分の行為については十分責任を負います」  刑事は名刺をもらって事務所を出た。  糸島とおなじ船で、引き揚げて来た人物が見つかったというのは、刑事の捜査にとって非常に好都合であった。かれは風間の名刺を持って、翌日その人を訪ねていった。しかし、その人は糸島のことも鮎子のことも、あまりよく憶えていなかったので、刑事はその人から紹介状をもらって、更に別の引き揚げ者を探していった。こうしてそれから数日間、つぎからつぎへと、Y丸で引き揚げて来た人物を訪ねてまわったが、その結果、刑事の知り得た事実は、だいたいつぎのとおりであった。  糸島といっしょに引き揚げて来た女は、小野千代子という女であった。その女は満州から単身華北へ入り、Y丸が出るすこしまえに、天津へ|辿《たど》りついたので、誰も彼女の素性を知っている者はなかった。船に乗りこむまえから糸島はしじゅうその女といっしょで、何かと面倒を見てやっていた。かれがあまり親切なので、知らない者は、はじめから一緒だと思っていたくらいであった。内地へ上陸するときももちろん一緒で、どうやらつれ立って東上したらしい。——と、そこまではわかっていたが、さて、それから後の二人の消息を、知っている者はひとりもなかった。刑事もこれには失望したが、更にかれを失望させたのは、その人たちがいまかりに、小野千代子にあったとしても、果たして彼女を、認めることが出来るかどうかという疑問であった。と、いうのは、千代子は髪を切って男装していたのみならず、顔なども|泥《どろ》や|煤《すす》をぬって、わざと|穢《きたな》くしていたから、誰も彼女のほんとの器量を識っているものはなかった。ただ、年齢は二十五、六であろうということであった。 「しかし、そのことは大して必要でもないじゃないか。かりにその女の顔を、憶えているものがあるとしても、屍骸はあのとおり、相好の見分けもつかぬ程くさっているのだから、証人になってもらうわけにもいくまいよ」 「ええ、それはそうですけれどねえ」  署長の言葉に、刑事は煮え切らぬ返事をしたが、 「時に、糸島とお繁の消息について、その後どこからも情報はありませんか」 「それがないから弱っているんだ。G町の交番の前を通っていったあと、全然あしどりがわかっていない。畜生、よっぽどうまくかくれていやアがるんだね。まさか風間という男が、変な義侠心を出して、かくまっているんじゃないだろうね」 「まさか……あの男にそんなことを、しなければならぬ義理はありませんからね」  こうして行き悩みのまま数日過ぎた。そして、そこへあの恐ろしい暴露の二十六日が来たのである。暴露のきっかけは、こういうふうにやって来た。      六  大工の為さん、江藤為吉というのは、「黒猫」の改造に働いている男だが、その男が二十六日の朝警察へやって来て、こんな事を申し立てたのである。 「実は、昨夜はじめてこの事を聞いたので、何んだか変な気がしたもんだから、こうしてお話にあがったんです。へえ、昨夜聞いたってなア、こういうことです。あの屍骸を掘り出したのは、蓮華院の日兆さんだった、てえことはまえから聞いておりました。ところが、日兆さんがそこを掘ってみようて気になった、そのきっかけというのがおかしいンです。日兆さんはそれより二、三日まえに、犬がそこをほじくっているのを見た。そのとき人間の脚みたいなものが、にょっきりのぞいているのが見えたから、それであの晩、思いきってあそこを掘ってみる気になった。……と、昨夜あっしははじめて、その話を聞いたんですが、これゃアほんとの事ですか」  署長をはじめ、そこに居合わせた司法主任や村井刑事は、何んとなく意味ありげな為さんの話しぶりに、思わずピーンと緊張した。そして、そのとおりだ。いや、少なくとも日兆はそう申し立てていると答えると、為公は妙なかおをして、 「しかし、そりゃア……日兆さん、何か勘ちがいしてるんじゃないか。そんな筈はねえんです。と、いうなあ、屍骸の掘り出されるまえの日、つまり十九日の夕方ですが、あっしゃあの庭で|焚《たき》|火《び》をしたんだが、あのとき、あのへんの落ち葉を熊手で掻きよせた。ところで、あっしゃあのことがあってから、長谷川さん、——お巡りさんの長谷川さんですが、あの人に屍骸がどのへんに、どういうふうに埋まっていたかということを、よく聞いて知ってるンです。長谷川さんは仕事場で話してくれた。だから、脚が出てたとすればどのへんかってえ見当もつきます。ところが、あっしが十九日の晩に、落ち葉を掻いたのは、ちょうどそのへんに当たってるンですが、そのときにゃア、絶対に脚なんかのぞいていなかった。……」  署長も、司法主任も、村井刑事も、それをきくと、思わずいきをのんだ。 「君、……それゃア、……間違いはないかね」  司法主任はせきこんでいた。 「署長さん、あそこの落ち葉はずいぶん深いんですぜ。その落ち葉から脚が出ている。崖の上から見えるくらい、のぞいているとしたら、それゃア、よっぽど、土からとび出していなきゃなりません。あっしの眼がたとい見落としたとしても、落ち葉を掻く熊手に、手ごたえぐらいあるだろうじゃありませんか。あっしはきっぱりいいますが、十九日の夕方には、あそこにゃア絶対に、脚も手ものぞいちゃいませんでしたよ」  為公がかえったあとで、すぐに日兆が、呼び出されたことはいうまでもない。 「で……君はこれをどう説明するんだね。為公はこの事について、よほど確信があるようだった。君はまさか、犬がごていねいにも穴を埋めて、そのうえから落ち葉をかけていったなんて、いやアしないだろうね」  署長にいきなりきめつけられて、日兆はギラギラする眼で、一同の顔を見くらべた。鉢がひらいて、頬がこけて、顔色が悪くて、まえから|畸《き》|型《けい》|的《てき》なかんじのする青年だったが、この数日、いっそう頬がとがって、顔が灰色になっていた。ギラギラと熱気をおびた眼には、どっか動物的な兇暴さがあり、精神のひずみを思わせるに十分だった。 「その人のいうことはほんとうです」  突然、日兆ががらがらと濁った声できっぱりいった。そしてけだものみたいにペロリと唇を舌でなめると、 「脚なんかどこにも出ていなかったんです。私は嘘を|吐《つ》いたんです」  一同が顔を見合わせていると、かれはまるで|堰《せき》を切って落としたようにべらべらとしゃべり出した。そしてその話というのが、事件をすっかりひっくりかえしたのである。  先月二十八日の夕方のことである。——  と、日兆はしゃべりはじめた。  かれが焚き物をとりに、裏の雑木林へやって来ると、崖下の「黒猫」の庭で土を掘るような音がきこえた。日兆が何気なくのぞいてみると、それは「黒猫」の亭主糸島大伍であった。そんなところに穴を掘ってなににするのかと、日兆が訊ねると、猫が死んだから埋めるのだと糸島がこたえた。  ところが、それから二、三日して、また、裏の雑木林へ焚き物をとりにいくと、「黒猫」の庭で猫の|啼《な》くこえがきこえた。日兆はこのあいだのことを思い出して、思わずゾーッとしたが、崖のうえからのぞいてみると、死んだ筈の黒猫が、「黒猫」の縁の下から眼を光らせて、しきりに啼いているのだった。  日兆はまたゾーッとしたが、まさか、それを猫の幽霊だと、きめてかかるほど迷信深くもなかった。  ナーンだ、猫は生きているじゃないか。マスターは嘘を吐いたのだ。しかし、なぜあんな嘘をついたんだろう。そして、また、あの穴には何を埋めたんだろう。……  そう思ってこの間、マスターが穴を掘っていたところへ、眼をやったとたん、日兆はまたどきっとした。そのころは、まだ落ち葉でかくしてなかったのでよくわかったが、掘りくりかえした土の跡は、とてもひろくて、何を埋めたのか知らないが、よほど、大きな穴を掘ったにちがいないと思われた。日兆は何んとなく胸騒ぎがするかんじで、しばらくじっと崖のうえから、掘りかえされた土の跡を視詰めていたが、そのときふいと、焼けつくような視線をどこかにかんじた。日兆はあわててあたりを見廻したが、すると「黒猫」の奥座敷の障子のすきからまじまじと、こっちを視ている眼とばったり出会った。その眼はすぐに障子のかげへかくれたが、日兆はいよいよはげしい胸騒ぎをかんじた。眼だけしか見えなかったので、それが誰だかよくわからなかったが、たしかに女の眼であった。女とすると「黒猫」には、マダムのほかに加代子、珠江、お君の三人がいるきりだが、いまの眼はそのうちの、誰でもないような気がしてならなかった。  その翌日、日兆は前月の地代のつりを、まだ「黒猫」へ持っていってなかったことを思い出したので、それを持っていったついでに、それとなく、奥の座敷のことを訊ねてみた。奥にいるの誰って、マダムにきまっているじゃないの、と、三人の女がこたえた。マダムのほかに誰かいるだろうと重ねて訊ねると、誰がいるもんですか、マダムは顔におできができて、あたしたちにさえ会わないようにしてるんですもの。だけど変ねえ、日兆さんは。どうしてそんなことを訊ねるの。あら、わかっているじゃないの、日兆さんはマダムが好きなのよ。ほの字にれの字なのよ。やあい、|赧《あか》くなっちゃった。……  女たちにひやかされて、日兆はほうほうの|態《てい》で寺へ逃げてかえったが、どうしてもあの穴と、奥座敷のことが気になるので、またそっと雑木林へしのんでいった。そして崖下をのぞいてみると、土を掘った跡はきれいに落ち葉でかくしてあった。……  日兆の不安はいよいよ色濃くなった。好奇心はますますはげしく、火のようにもえあがった。その不安を解消するためには、「黒猫」の奥座敷にいる女が、果たしてマダムであるかどうか、見とどけるよりほかにみちがなかった。好奇心がそばからそれを煽動した。日兆は崖上の|草《くさ》|叢《むら》から、あの部屋を見張っていることに決心した。崖うえの草叢のなかに寝そべっていると、すぐ眼の下にあの座敷が見える。座敷にはちかごろいつも、ぴったり障子がしまっているうえに、ガラスにはごていねいに紙まで貼って、なかが見えないようにしてあった。しかし……と、その時日兆はかんがえた。あの女が誰にしろ、人間である以上は、日に数回の生理的要求をこばむわけにはいかないだろう。そして便所は障子の外の縁側の端にある。日兆は根気よく、鼠をねらう猫の辛抱強さで、そのときの来るのを待っていた。…… 「で、君は結局、その女を見たのかい。見なかったのかい」  ネチネチとした日兆の話しぶりに、やりきれなくなった署長がきり込むと、日兆はギラギラする眼を光らせながら、 「み、——見ました。見たのです」 「見た? で、どうだったのだ。マダムだったのかい、マダムじゃなかったのかい」 「マダムではなかったのです。わたしの全然知らない女、見たこともない女でした」  日兆の言葉に村井刑事は、よろこびにふるえあがったが、署長と司法主任はすっかり度をうしなってしまった。 「しかし、それは……その女は看護婦かなんかで、部屋のなかにはマダムが別に……」 「いいえ、そんなことはありません」  日兆はキッパリと、むしろ毒々しいまでに力をこめて、 「その座敷の中にいたのは、たしかにその女ひとりきりでした。それにその女は、マダムの着物を着ていたのです。つまり、そいつはマダムに化けて、みんなをゴマ化していたんです」  それからまた、日兆はネチネチと|喋舌《し ゃ べ》り出した。  その後間もなくマスターが「黒猫」を他人に譲って、どこかへ立ち退くという事をきいたかれは、いても立ってもいられなくなった。最後の日、おはらい箱になった女たちを道に擁したかれは、その後、マダムの顔を見たかとたしかめてみた。誰も見ていなかった。ところが、ちょうどその時分のことである。どこかの空き家の縁の下から、屍骸がゴロゴロ掘り出されたという記事が、新聞に出て大騒ぎをしていた。  日兆はもうたまらなくなった。どうしても、この恐ろしい疑問を、一度たしかめてみなければ、夜も眠れなかった。 「そこで、ああして掘りにいったのです」  日兆はその日いちにち警察にとめおかれ、警部や刑事にとりまかれて、質問の雨のまえにさらされた。かれは例の、けだもののような眼をギラギラさせながら、はじめのうちはよどみなく、おなじことを繰りかえしていたが、日暮れ頃、突然泡をふいてひっくりかえった。かれには持病の発作があったのである。 「で、これはいったい、どういうことになるんだい」  署長も朝からの興奮に疲労したのか、ボンヤリしていた。気抜けしたような声でこういった。 「つまり、殺されたのは鮎子ではなく、マダムだったということになるのかい。そして鮎子が二週間、マダムの身替わりをつとめていたというのかい」  司法主任はなんにもいわなかった。しきりに顎を撫でていた。そこで村井刑事が横のほうから、しずかにこう口をはさんだ。 「署長さん、実は私ははじめから、そういうことを考えていたので。……顔におできが出来たからって、おなじうちにいる人間が、二週間もの長いあいだ、一度も顔を見たことがないというのは、いささか不自然過ぎる。そこに何か、恐ろしい作為があるんじゃないかと。……」 「しかし、鮎子はなぜ、マダムに化ける必要があったんだ。それは危険千万なことじゃないか」 「そうです。もちろん危険です。しかし、署長さん、マダムが奥にいるということになっていたからこそ、マスターが店を売りとばしても、誰も怪しみゃアしなかったんです。マダムがふいに姿をかくして、マスターが、店を売りにかかったとしてごらんなさい。世間では……少なくとも三人の女はどう思いますか。高跳びには金がいる。だから、その金をつかむまでは、どうしても、マダムが生きていることに、しておかなければならなかったのです」 「ふうむ」  署長は顎を撫でている。司法主任はがりがり頭をかいていた。刑事は更に言葉をついで、 「黒猫の殺された理由も、これでこそ説明がつくと思います。あの黒猫は、マダムが可愛がっていたにちがいない。そいつがマダム殺しの現場を見ているのだから、亭主にしても気味が悪かったんです。そこで殺していっしょに埋めた。しかし、黒猫がいなくなっては、店の女たちに怪しまれると思ったものだから、代わりの奴を貰って来てゴマ化しておいたんです。あの黒猫は二匹とも、おなじ腹から出た兄弟なんですが、まえの飼い主のところへ、二十八日の晩、糸島が黒猫をもらいに来たということもわかっています。だから、殺されたのは鮎子じゃない。鮎子と糸島の二人して、お繁を殺したにちがいないのです」  ふうむ——と、署長はうなっていたが、急に思い出したように、 「あっ、そうだ、しかし、長谷川巡査は十四日の晩、糸島とマダムのふたりが、交番のまえをとおるのを見たといってるぜ」  しかし、長谷川巡査も実際は、マダムの顔をはっきり見たのでないことが間もなくわかった。その女はショールを鼻の頭にあて、糸島のからだにかくれるようにして、うつむきがちに通り過ぎたのであった。その場の様子から、長谷川巡査がいちずにそれを、マダムだと思いこんだのは、あながち無理とはいえなかった。こうなると、もう、日兆の言葉を疑う余地はなくなった。殺されたのは鮎子ではなくマダムである。鮎子はかえって犯人だった。  こうして事件は、根本からひっくりかえった。糸島大伍ならびに妻繁子の代わりに、あらためて、糸島大伍ならびに情婦鮎子の捜査手配が、全国の警察へ指令された。  この新事実はその日の夕刊新聞に、デカデカと書き立てられたが、この記事を見て、非常に驚き、かつ、興味をかんじた人間がふたりある。風間俊六はこの新聞を仮り事務所で見て、|茫《ぼう》|然《ぜん》と眼をこすった。それからかれは|檻《おり》のなかのライオンみたいに、部屋のなかをいきつもどりつしていたが、やがて、唇をきっとへの字なりに結んだまま事務所をとび出した。  それから間もなくかれがやって来たのは、大森の山の手にある、松月というかなり豪勢な割烹旅館だった。戦後、ふつうの住宅はなかなか建たないけれど、こういう種類の家はどんどん建つ。松月というこの家は、風間がお得意さきを|饗応《きょうおう》するために自分で建てたもので、二号だか、三号だかにやらせているのである。 「あら、旦那……まあ、旦那でしたの」  きれいに打ち水をした玄関の|沓《くつ》|脱《ぬ》ぎで、風間が靴の|紐《ひも》をといていると、あわてて奥からとび出したのは、|伊《い》|勢《せ》|音《おん》|頭《ど》の万野みたいな女中頭であった。 「ああ、おちかさん、——あれはいるだろうね」 「ええ、おかみさん、いまお風呂」 「ううん、おせつじゃないんだ。ほら、例のさ」 「ああ、旦那の新いろ。……いやな旦那ねえ。来ると早々、おかみさんのことはそっちのけですぐそれだもん。おかみさん、だからいってますよ。あの人が女ならただじゃおかないって。ほっほっほ、|妬《や》けるのね。ええ、ええ、いらっしゃいますとも、どこへも逃がすことじゃないから御心配なく」  風間はにが笑いをしながら、 「また、寝てるんだろう」 「ところが大違い。さっき夕刊を見ると、何んだか急に大騒ぎになって、このあいだからの新聞を、かたっぱしから持ってこいって、たいへんな権幕なんですよ」 「新聞……?」  風間ははっとしたように眼を光らせたが、そのまま|大《おお》|股《また》に奥へ入っていった。かれの声をききつけて、大急ぎで風呂からとび出したらしい女が、なにか声をかけるのを振り向きもせず、廊下づたいに奥のはなれへやって来ると、 「耕ちゃん、いるか」  と、がらりと障子をひらいたが、すると、しゃれた四畳半のまんなかで、新聞に埋まって坐っているのは、なんと、金田一耕助ではないか。  金田一耕助は風間の顔を見ると、 「き、き、き、君、か、か、か、風間……」  と、たいへんな|吃《ども》りようで、 「こ、こ、この事件は、か、か、か、顔のない屍体の事件だね。ひ、ひ、被害者と、か、か、加害者がいれかわっている。お、お、岡山のYさんに、し、し、報らせてやると喜ぶぜ」  わけのわからぬ事をいいながら、五本の指でもじゃもじゃ頭をかきまわし、それから阿房みたいにゲタゲタ笑ったのである。      七  三月二十九日。——  即ち、事件がすっかりひっくりかえってから、三日目の夕刻のことである。この事件の、捜査本部になっている警察へ、妙な男がやって来た。その時署内の一室では、幹部級のひとたちが集まって、捜査会議みたいなことをやっていたのだが、そこへ給仕が署長にむけて、一枚の名刺を持って入って来た。署長が手にとってみると、それは警視庁にいる先輩の名刺で、そのうえに、 「金田一耕助君を御紹介申し上げ候。この度の黒猫亭事件につき、同君の協力を得られれば自他共に幸甚、|何《なに》|卒《とぞ》よろしくお願い申し上げ候」  と、万年筆の走りがきで|認《したた》めてあった。  署長は眉をひそめて、 「この人、来ているのかい」 「はい、受け付けで待っていらっしゃいます」 「そう、じゃ、ともかくこっちへ通してもらおう」  署長はもう一度名刺に眼を落としたが、それを司法主任のほうに押しやると、 「君、こういう男を知っているかい」  司法主任も名刺の文句を読むと、不思議そうに、首を左右にふっただけで、それを村井刑事に見せた。村井刑事も知らなかった。 「なにか今度の事件について、証言しようというんじゃありませんか」 「うん、そんな事かも知れん」  それにしても紹介者が紹介者だから、署長もちょっと緊張した。それにその男に協力して、捜査にあたれというような意味の言葉があるので、いったいどういう人物だろうと、村井刑事も好奇心をもって待っていたが、やがて、そこへ入って来た人物を見ると、かれは思わず大きく眼を|瞠《みは》った。 「あっ、君は……」  金田一耕助は例によって、よれよれの着物に|袴《はかま》という姿で、ひょうひょうと部屋へ入って来ると、誰にともなくペコリと頭をさげたが、村井刑事を見つけると、 「やあ、昨日は。……あっはっは」  と、いたずらっぽい眼をして笑った。 「君、このひとを知っているのかい」  署長は|怪《け》|訝《げん》そうに村井刑事をふりかえった。 「ええ、ちょっと……」  刑事はふうっと熱いいきを鼻から吐くと、うさんくさい眼で金田一耕助の顔をにらんだ。  刑事が金田一耕助を知っているというのはこうである。  事件がひっくりかえってから、捜査やり直しの必要をかんじた刑事は、もう一度関係者を訪ねてまわったが、すると、いくさきざきで出会うのがこの男であった。はじめのうちは別に気にもとめなかったが、度重なると刑事も怪しみ出した。そこで、最後にお君のところで出会ったとき、いったいおまえは、何を求めているのだと訊ねてみた。すると、相手はにこにこしながら、 「ぼくですか。ぼくは幽霊を探しているんです」  そういい捨てると、あっけにとられた刑事を残して、ひょうひょうとして出ていった。あとで刑事がお君に訊ねてみると、 「さあ、あたしもよく知りませんの。でも、自分じゃ、風間さん、御存じでしょう。マダムのパトロンだった人、あの風間さんの識り合いだっていってましたわ」  刑事はそれをきくとはっと胸をとどろかした。風間といえばこの事件での大立て者である。悪くいくと、重大な容疑者になりかねない人物だった。刑事はにわかに疑いを濃くすると、とにかくあとをつけてみることにして、あわててお君の家をとび出した。  相手はそんなことと知ってか知らずか、目黒から渋谷へ出ると、私鉄でG町までやって来て、例の裏坂へ入っていった。刑事はいよいよ怪しんだが、しかし、相手はゆうゆうたるものである。帽子をあみだにかぶり籐のステッキをふりながら、なれた散歩をしているようなあしどりだ。口笛ぐらい吹いているのかも知れない。ところが、蓮華院の裏まで来たときである。なんとなく、足どりがかわったように思えたから、刑事がおやと思っていると、ふいに姿が見えなくなった。|築《つい》|地《じ》のなかへ吸いこまれたのである。  刑事は驚いた。あわててそばへ駈けつけてみると、ナーンだ、そこだけ築地がくずれていて、人の出入りの出来るくらいの、穴があいているのである。これで相手の消えた理由はわかったが、理由はわかっても疑いは帳消しにならぬ。帳消しどころかますます濃くなるばかりだ。刑事もなかへ忍びこんだ。  まえにも言ったとおり、そこには武蔵野の面影をとどめる雑木林がうっそうとしげっている。春先のことで黄色くすがれた下草が、しょうじょうとして続いていた。刑事はあたりを見廻したが、相手のすがたはどこにも見えなかった。耳をすましたが足音もきこえなかった。刑事はいささか不安になったが、ここまで来て、見失ったまま引き返すのは|業《ごう》|腹《はら》だった。刑事は枯れ草をわけながら、しだいに森の奥へすすんでいった。すると、ふいに向こうのほうに、さっきの男のすがたが見えた。太い|欅《けやき》に身をよせて、じっと向こうを見詰めているのである。なんだかひどく緊張した横顔だ。  いったい、何を見ているのだろうと、刑事も首をのばしたが、そこからではよく見えなかった。刑事は一歩踏み出した。それでも駄目なので、二歩、三歩、四歩と踏み出しているうちに、突然刑事はからだの中心を失った。くらくらと雑木林が、眼のまえで大きくゆれたかと思うと、どさっと音を立てて、かれは穴のなかへ投げ出された。  あとでわかったことだが、それは戦争中に掘った防空壕だった。幸い落ち葉が底にたまっていたので、どこにもけがはなかったけれど、いっときは茫然として、何が何やらわけがわからなかった。|尻《しり》|餠《もち》ついたまま、きょときょとあたりを見廻していると、ひょっこり、うえからのぞいたのがさっきの男だった。 「あっはっは、刑事さん、そこを掘ってごらんなさい。狐の嫁入りが見えますぜ」  そういいすててゆうゆうと立ち去っていったのが、即ちいま眼のまえにいる男なのである。刑事はあつい溜め息をついた。 「金田一さんという方ですね」  署長はうさんくさそうに、二人の顔を見くらべていたが、それでも如才ない調子でそういった。 「はあ」 「どうぞお掛けください。この人とは御懇意ですか」  と、つまぐっていた名刺を見せた。 「はあ、ちょっと——」 「で、御用というのは?」 「そのことについては、昨日もここにいらっしゃる、刑事さんに申し上げておいたんですがね。つまり、幽霊を出してお眼にかけようというんです」 「幽霊——?」  署長と司法主任は眼を見交わした。司法主任は何かいおうとしたが、署長が眼顔でさえぎると、 「幽霊とはなんですか」 「幽霊——いろいろありますな。ちかごろじゃ。何しろ百鬼夜行の世の中だから。しかし、ぼくがいま出してお眼にかけようという幽霊は、黒猫亭事件の犯人のことですがね」  署長と司法主任はまた眼を見交わした。それから署長はすこしからだを乗り出して、 「するとあなたは糸島大伍や、桑野鮎子のいどころを御存じですか」 「ええ、知っています」  金田一耕助は平然とうそぶいたが、それをきいたとたんに、そこにいあわせた人々は、いまかれの吐いた短い一句が、まるで爆弾ででもあったように、椅子の中でとびあがった。  署長はしばらく、茫然とした眼で、穴のあくほど相手の顔を視詰めていた。この男、馬鹿か気ちがいか、それとも非常にえらい人間なのか。 「いったいそれはどこです。どこにかれらはかくれているんです」 「ええ、いまそこへ御案内しようと思うんですがね。しかし、そのまえにひとつだけ、お願いがあるんですが」 「それは、どういうことですか」 「蓮華院の日兆君を、もう一度ここへ呼んでいただきたいのですがね。あの人に、ちょっとききたいことがあるんです。それさえわかれば万事O・K、すぐに糸島と鮎子のところへ御案内いたします」  署長はしばらく、どうしたものかというふうに、金田一耕助の顔を見ていたが、ふと、指先でつまぐっている名刺に眼を落とすと、決心がついたように司法主任をふりかえった。 「君、G町の交番へ電話をかけて、長谷川君に日兆を、つれて来るようにいってくれたまえ」 「あっ、それじゃついでに、日兆君がいたら、こちらへ来るまえに、電話で報らせてくれるように、言い添えて下さい」  金田一耕助がそばから付け加えた。司法主任は電話をかけおわると、金田一耕助のほうをふりかえって、 「金田一さん、あなたはさっき幽霊——と、いうような事をおっしゃったが、ひょっとすると、鮎子は死んでるとでも、思っていらっしゃるんじゃありませんか」  金田一耕助は眼をまるくして、 「鮎子が——? どうしてですか。どうして、どうして、あの女が死んでるもんですか、ぼくがいま幽霊といったのは、あいつ、いったん死んだことになっている。それだのに生きているから、幽霊といったんですよ」  司法主任は黙りこんでしまった。日兆のああいう証言があったあとでも、かれはまだ、殺されているのは鮎子であり、犯人はマダムであろうという説を、捨てかねているのだった。さっきからまじまじと、疑わしげな眼で、金田一耕助の顔を見ていた村井刑事が、そのとき、わざといま思い出したように横から口を入れた。 「そうそう、いま思い出しましたが、金田一さん、あなたは風間俊六氏のお識り合いだそうですね」  金田一耕助はそれをきくと、にやっとわらって、 「あっはっは、刑事さん、あなたどうしてそれを知ってるんですか。ああ、わかった。お君ちゃんにきいたんですね」 「誰にきいてもいいが、どういうお識り合いですか、あの人と」 「中学時代の同窓ですよ」  それから金田一耕助は、油紙に火がついたように、ベラベラしゃべり出した。 「私たちの中学、東北の方ですがね。学校を出るとわれわれ二人、あの男と私ですな。一緒に東京へ出て来たんです。そして、しばらく|神《かん》|田《だ》の下宿でゴロゴロしていたが、そのうちに私はアメリカへいった。あいつは日本にのこって、何になったかというと、不良になった。硬派ですな、押し借りゆすりという奴です。その後、ぼくがアメリカからかえって来ると、不良のほうは足をあらって、何んとか組へもぐりこんで、そこでかなりいいかおになっていた。その時分旧交をあたためて、ちょくちょく往復していたんですが、そのうちに私が兵隊にとられたので、また縁が切れてしまった。そう、六、七年もあいませんでしたかねえ。ところが、私は去年復員して来たんですが、復員するとすぐ、|一寸《ちょっと》した用事があって、瀬戸内海のほうへいっていた。ところが、そのかえりの汽車のなかのことなんです。なにしろ、えらい人で、……そこへまた、ヤミ屋の一団がドヤドヤと乗り込んで来たから、さあ、大変、何しろあの連中と来たら、こわいもの知らずだから始末に悪い。実に横暴をきわめまして、われわれ善良なる旅客の迷惑すること限りなしです。しかし、誰もなにもいうものはない。みんな、戦々|兢々《きょうきょう》たる有様です。——むろん、ぼくもそのひとりでしたよ。で、ヤミ屋諸公、いよいよ図に乗って、暴状いまや、黙すべからざるところにたちいたって、決然として立ち上がった男がある。そいつが、ヤミ屋の|頭株《あたまかぶ》らしいのをつかまえて、何かいいがかりをつけたからスワ大変、いまにも大乱闘、大活劇が起こるかと手に汗握り、肝をひやして、喜んでみていると、あにはからんやです。そいつがね、ヤミ屋の親分に何やらクシャクシャといったと思ったら、俄然、形勢一変でさあ。いままで殺気立っていたヤミ屋の一団が、青菜に塩というていたらくで、いっぺんに静シュクにあいなった。いや、静シュクにあいなったのみならず、その男に向かって平身低頭、キッキュージョとしてレイジョーを極めた。いや、ぼくは学問があるから、とかく、むつかしい言葉を使っていかんのですが、あまり漢語を使うと、漢字制限のおりから、ぼくの記録係りが困りますから、このくらいにしておいて、とにかく、おかげでわれわれはほっと、失望と同時に蘇生の思いをした。満堂の感謝キュー然としてかの英雄に集まった。御婦人のなかには、いささかボーッと来たのもあったらしい。ぼくもホトホト感服したことです。警官諸公でさえ手に負えぬ暴君を、たった一言でおさめるとは、何んたるえらい男であるか。昔の黄門さんみたいな人物である。——と、そう思ってつくづく見直すと、ナーンだ、それがあの男、風間俊六じゃありませんか。ぼく、すっかり嬉しくなっちまいましてね。満堂の紳士シュクジョにわが威光示すはこの時なりと、あいつの肩をポンと叩いて、おい、風間じゃないか、おっほんとおさまった。しかるに何んぞや、あいつ、ぼくの顔をつらつら見直して、ナーンだ、耕ちゃんかと来たから、ぼく、照れましたね。と、いうわけで、これが金田一耕助風間俊六再会の一幕で、ぼくがどこへもいくところがないというと、そんなら、おれのところへ来いというので、目下かれのところに|寄《き》|寓《ぐう》していると、こういうわけです」  署長も司法主任も村井刑事も、呆れかえってまじまじと、金田一耕助のかおを視詰めていた。すっかり毒気を抜かれたかおつきだった。これはまた、大変な人物を紹介して来たものであると歎息した。やがて、署長はおかしさを噛み殺して、 「ああ、なるほど、それじゃ目下、風間氏のところに、同居していらっしゃるわけですね」 「さよう、居候というわけですな。居候のことを権八というそうですが、この権八はごらんのとおりで、綺麗ごとにはまいりません。第一、長兵衛との出会いからして悪いや、本来ならば権八のほうが、スッタスッタとむらがる雲助どもをなぎ倒す。その腕前に惚れこんで、長兵衛がつれてかえるという段取りであるべきところ、時勢がかわると雲助退治は一切長兵衛にまかせておいて、権八は戦々兢々として、ふるえているのだからだらしがない。そのかわり、小紫の如き女性は現われてくれませんから、まあ、罪のないほうです。ところが、それに反して長兵衛どのと来たら、実に無尽蔵に小紫をたくわえている。ぼくの厄介になってる家も、二号だとか言ってますが、二号だか、三号だか、四号だか、五号だかわかったものじゃない。それでいて御当人、おれは女に淡白で……なんていってるんだから、驚くべきシロモノといえばいえますな。あれで女に淡白だとしたら、ひとりも小紫を持たぬぼく如きは、まるでナシみたいなもんです」  署長はとうとうふき出した。おかしさに、しばらくわらいがとまらなかった。司法主任もにやにやしていたが、ただひとり、村井刑事だけはにがりきって、いよいよ疑いのいろが濃くなった。いったい、こいつ何者だろうという顔色なのである。金田一耕助はにこにこしながら、 「おかしいですか。あっはっは、少しおかしいですね」  と、つるりと顔を撫でると、 「とにかく、そういうわけで、あの男の二号だか、三号だかの女性のもとに寄食しているわけですが、そこへ風間がとび込んで来た。あの男にしては珍しく興奮しているから、何事ならんと思っていると、あいつもこの事件の関係者なんだそうで……そのことは、新聞にちっとも出ていなかったから、ぼくも知らなかったんですが、さて、その節あの男の|曰《いわ》くにはですな。この事件にはどうもすこし解けぬ|節《ふし》がある。おまえひとつ出馬してみてくれんか……と、かれがそんなことを切り出したのは、その昔、ぼくが探偵業を、開業していたことがあるからなんですが……」 「ええ、何んですって? 何業ですって?」 「探偵業——つまり、私立探偵みたいなもんですな」  ふいに署長があっと叫んだ。あわてて、名刺を読み返していたが、 「あなたはいま、瀬戸内海へいってたとおっしゃいましたね。瀬戸内海というのは、獄門島という島じゃありませんか」 「ええ、そう、あの事件、御存じですか」 「知ってますとも。東京の新聞にも出ましたからねえ。何しろ大変な事件で……そうですか。あなたがあの金田一さんで、あの耕助さんで……」  署長はかんにたえたように、金田一耕助の顔を見直した。司法主任と村井刑事も、|吃《びっ》|驚《くり》したように眼を丸くした。おそらく村井刑事の疑惑も、いっぺんに氷解したにちがいない。 「そうですよ、ぼくがその、金田一でその耕助さんです。あっはっは」  と、金田一耕助はわらった。 「なるほど、それでこの人と懇意なんですね」  と、手にしていた名刺に眼を落とすと、署長はにわかにデスクのうえに乗り出して、 「失敬しました。どうもあなたのご様子があまり変わっているので……いや、なに、それでこの事件に、乗り出されたというわけですか」 「そうですよ。一宿一飯の義理ということがありますからな。ぼくはやくざの仁義というやつが大嫌いだが、この事件には、はじめから興味を持っていた。何しろ、これは顔のない屍体の事件ですからね。顔のない屍体、御存じですか。おなじトリックでもこのトリックは、一人二役のトリックとトリックがちがう。顔のない屍体は読者にあたえられる課題であるが、一人二役はさにあらず、これは最後まで、伏せておくべきトリックであって、これを読者に看破されたがさいご、勝負は作者の負けである。そこへいくと、密室の殺人はまた違う。密室の殺人は、これまた、読者にあたえられる課題であるが、課題は一つでも、解決は千変万化である。そもそも……」  調子にのって金田一耕助は、またべらべらとしゃべっていたが、急に気がついたようにきょとんとして、 「ええと、ぼくは何をいおうとしていたのかな。そうそう、そういうわけで乗り出すことになったのである、ということをいわんとしていたんですね。あっはっは、で、つまり、その、なんですな。昨日にいたってやっと|謎《なぞ》が解けたと、こういうわけなんです」  署長はまた茫然として、まじまじと、金田一耕助の顔を視詰めていたが、謎ときくと眉をひそめて、 「この事件に謎がありますか」 「ありますとも、大ありです。しかも、それが実にものすごい謎でして。……しかし、こういったからって、ぼくはなにも、あなたがたにさきんじて、その謎を解いたことについて、自慢をしようというのじゃない。実はね、ぼくはあなたがたが御存じのない、しかも、非常に重大なデータをつかんでいた。だから、あなたがたよりさきに、謎を解いたって自慢にならない。そのことについて。……」  と、村井刑事をふりかえり、 「風間があなたに、あやまっておいてくれと言ってましたよ。この間あなたがお見えになったとき、打ちあけておけばよかったものを、つい確信が持てなかったものだから、控えていたというんです」 「どういうことですか。それは……」  と、村井刑事は急にからだを乗り出した。 「それはこうです。糸島、つまり『黒猫』のマスターですな。あいつがはじめて風間のところへやって来たとき、脅喝的言辞をならべて|威《い》|嚇《かく》しようと試みた。……」 「そのことなら、私もききました」 「そうでしょう。ところがその時ならべた文句です。糸島も興奮していたらしく、つい口を滑らしたんですね。お繁という女はああ見えても、実にすごい女である。あいつが日本を飛び出したのも、東京でせんの亭主を毒殺したからである。……と、そんな事をいったそうです」  あっ——と、一同は目を瞠った。署長はいきを弾ませて、 「すると、お繁というのは前科者ですか」 「そうです。しかし彼女は刑にはとわれなかったらしい。そのまえにうまく中国へ高跳びしたんですね。風間はこのことを、刑事さんに打ち明けるべきだったが、果たして事実なりや否や、確信が持てなかったので、ひかえていたというのです。つまり、この事実を知っていただけ、ぼくはあなたがたより有利だったわけで、風間からその話をきくと、まずお繁の前身から、調査してみようとかかったわけです」 「で、わかりましたか。あの女の前身が……」 「わかりました。いや、いまのところ確かな証人もなく、はっきり断言するわけには参りませんが、だいたい間違いないと思っています。ぼくが調査のよりどころとしたのは、もうひとつ、お繁が何気なく、風間にもらした言葉があるんです。お繁はあるときこんなことをいったそうです。自分が満洲へわたったら、とたんに日華事変が起こって、大いに難渋した。と、そんなことを洩らした事があるそうです。で、彼女がもし内地で悪事を働いて高跳びしたとしたら、それは昭和十二年の、上半期のことでなければならない。そこでぼくは新聞社へいって、当時の新聞を|漁《あさ》りましたが、そこで発見したのがこれなんです」  と、金田一耕助がふところの、ノートのあいだから取り出したのは、一葉の写真であった。署長が手にとってみると、それは十七、八の、髪をお下げにして、地味な銘仙の着物を着た娘の写真であった。器量も可愛いといえば可愛いが、とくに取り立てていうほどのこともなく、どっちかというと、平凡な娘の写真であった。 「これは……?」 「新聞社の整理部から借りて来たんですよ。ここにその写真についてのメモがありますが、読んでみますから聞いていて下さい。松田花子、十八歳。(昭和十二年現在)深川の大工松田米造長女、小学校卒業後、銀座の茶寮銀月に女給として勤務中、洋画家三宅順平(二十三歳)に想われ結婚。三宅家は相当の資産家なるも、家に母やす子|刀《と》|自《じ》あり、教養の相違より嫁とあわず、家庭に風波絶えず。昭和十二年六月三日、花子は母やす子刀自を毒殺せんとして、あやまって良人順平を殺し出奔、爾来消息不明、おそらく人知れず自殺せしならんといわる。この写真は昭和十一年三月、銀月勤務中の花子にして、当時十七歳なり」  金田一耕助が読み進んでいくにしたがって、署長の興奮はしだいに大きくなって来た。金田一耕助が読み終わると、大きく|呼《い》|吸《き》を弾ませて、 「その事件なら私も憶えている。当時私は|神楽《か ぐ ら》|坂《ざか》署にいたんだが、三宅の家は|牛《うし》|込《ごめ》矢来にあった。それじゃ金田一さん、お繁の前身は、松田花子だというんですか」 「そうです。昭和十二年上半期から、さらにさかのぼって、十一年の新聞まで念のために調べてみたが、糸島の洩らした言葉に相当するような事件、即ち良人を殺してその後、行方不明になっている女というのは、松田花子よりほかにありませんでした。それに年齢もお繁に相当しています。で、ぼくはこの写真を、風間をはじめとして、お君という娘や、加代子や珠江にも見てもらったのです」 「で、ちがいないというのですか、お繁に……?」 「四人ともハッキリ断言は出来ませんでした。十年たつと女はずいぶん変わります。ことにお繁は意識して、扮装その他において昔と変わるように、努力していたことでしょうから、四人ともすぐにそうだとは言いかねましたが、そういえばそのような気がする。マダムの若い頃の写真のような気がする。……と、そういうんです」  しばらく一同はしいんと黙りこんでいた。何かしらドス黒い鬼気が、満ち潮のようにみなぎりわたる感じであった。署長は握りしめた掌が、ベットリと汗ばんでいるのに気がつくと、ハンケチを出して拭いながら、 「それで……」  と、何かいいかけたが、そのとたん、卓上のベルが鳴り出した。署長はすぐに受話器をとりあげたが、 「ああ、そう、じゃ、待っているから……」  と、電話をきって金田一耕助のほうへ向き直った。 「長谷川巡査からだが、これからすぐ、日兆をつれてやって来るそうです」  ところが、一同が驚いたことには、それをきくと金田一耕助が、ヒョコンと跳び上がったことである。写真をしまい、帽子をとると、 「そ、そ、それじゃさっそく出かけましょう」  と、どもって呼吸を弾ませたから、署長も司法主任もあっけにとられて、金田一耕助の顔を見直した。村井刑事は、さっと緊張して立ち上がった。刑事だけがとっさに、金田一耕助の意図を読みとったらしいのである。 「そ、そ、そうです。出かけるんです。糸島と鮎子のところへ出かけるんです。日兆君に話をきくのはあとでも出来る。署長さん、日兆君がやって来たら、ここへとめておくように、留守番の人にいっておいて下さい。絶対にここから出さないように。……さ、さ、さあ、出かけましょう」  署長と司法主任も緊張したかおいろでさっと立ち上がった。何かしら異様な大詰めへ、この男が自分たちを案内しようとしているらしいことが、暗黙のうちにはっきりと感じられた。村井刑事はすでにドアのところまで歩いていた。      八  ちょうどその頃、「黒猫」の裏庭では、大工の為さんと二人の職人が、|鉋屑《かんなくず》や木切れを燃やして焚火をしていた。ああいう事件が起こったので、「黒猫」の改装は一時中止のやむなきにいたったが、その後、警察のお許しが出たので、またこの工事をやりはじめたのである。だから、ここに為さんや職人のいることに、すこしも不思議はないわけだが、どういうものか三人とも、妙にだまりこんでいた。それのみならず、しじゅう外の足音に耳をすまし、腕時計に眼をやったりするところを見ると、誰かを待っているらしかった。更に不思議なのは、庭の隅に、かれらの持って来たらしい、シャベルやつるはしがおいてあることである。「黒猫」の改装工事に、シャベルやつるはしが必要とは、はなはだ合点のいかぬことであった。 「来た。——」  と、突然、為さんが小声でいった。 「あの足音がそうらしい」  三人はさっと緊張して、焚火のそばを離れた。 「黒猫」の裏木戸から入って来た署長や司法主任は、そこに大工や職人のすがたを見ると、驚いたように眉をひそめた。村井刑事もさぐるように金田一耕助の顔を見直した。金田一耕助はにこにこしながら、 「この人たちに、これからひと働きしてもらおうというんですよ。この人たちなら、シャベルやつるはしを、誰にも怪しまれないでここへ持ち込むことができる。お巡りさんじゃ眼につきますからね。お待ち遠さま、さあ、いきましょうか」  金田一耕助はいちばん先頭に立って、うしろの崖をのぼりはじめた。それにつづいて、為さんとふたりの職人が、それぞれシャベルだの、つるはしをかついでのぼり出した。それから村井刑事、最後に署長と司法主任がつづいた。誰も口をきくものはなかった。これからどこへ行くのか、そして何をしようとするのか、それらのことについて説明を求めようとする者もいなかった。しかし、為さんや職人たちのかついでいる道具からして、何かしら恐ろしい事実が予想され、みんな胸をワクワクさせながら、重っくるしくおし黙っていた。  崖をのぼると雑木林だ。金田一耕助はあとをふりかえると、 「気をつけて下さいよ。ところどころに、防空壕が掘ってありますから。……昨日も刑事さんが……」  だが、村井刑事のむつかしい顔を見ると、あっはっはと低くわらって、それきりあとは言葉をにごした。  雑木林をぬけると墓地があった。墓地には大小さまざまの墓石が、ところせまきまでに林立していたが、ちかごろの世相では、墓参りをするものも少ないらしく、それに無縁仏になったのも、今度の戦争で急にふえたにちがいないから、墓地全体がひとつの廃墟のように荒れはてていた。金田一耕助が一同を案内したのは、その墓地のいちばん奥の、墓地とも雑木林とも、区別のつかぬはずれであった。そこに台石もなにもない磨滅した墓石がひとつ、横っ倒しに倒れており、周囲は雑木林のふり落とす、|堆《うず》|高《たか》い落ち葉でおおわれていた。 「為さん、その落ち葉を掻きのけてみて下さい」  大工の為さんが、シャベルで落ち葉を掻きのけると、たしかにちかごろ、掘り返したにちがいないと思われる、黄色い土があらわれた。署長も司法主任も思わずいきをのんだ。 「掘りかえした土の跡を、落ち葉でかくしてあるところは、『黒猫』の裏庭とおなじ技巧ですね。では、その墓石をとりのけて、そこを掘ってみてくれませんか」  墓石は小さなもので、それほど重くもなかったので、すぐとりのけられた。石の下には落ち葉がたくさん下敷きになっていた。 「ごらんなさい。犯人もかなりあわてたんですね。落ち葉をしいてから墓石をおいたんで、こういうヘマをやったんです。おかげでぼくは、あまりほっつきまわる必要もなく、すぐこの墓に眼をつけることが出来たんです」  落ち葉をきれいにのけてしまうと、刑事も手伝って掘りはじめた。たしかに最近掘りかえしたと見えて、土が柔かく素手でも掘ることが出来た。 「なるべく静かに。——手あらなことをしないように。——かんじんのしろものに傷をつけちゃたいへんだ。つるはしは止めにしましょう」  為さんと職人のひとりがシャベルで掘った。もうひとりの職人は、つるはしをおいて素手で掘り出した。刑事も、じっとしていられなくなって、おなじく素手で掘りはじめた。あとの三人はじっと掘られゆく穴を視詰めている。署長も司法主任も熱いいきを吐きながら、おりおり帽子をとって額を拭った。金田一耕助もさすがにキーンと緊張したかおをして、帽子をとったりかぶったりしている。  穴はだいぶ深くなった。と、土のなかへ手を突っこんでいた職人が、突然、ひゃっというようなこえをあげると、あわてて手をひっこめた。 「何かあった?」  金田一耕助がいきをはずませてそう訊ねた。 「へえ、な、なんだかぐにゃっとした、冷たいものが……」 「よし」  と、金田一耕助は一同の顔を見わたすと、 「びっくりして、声を立てたりすると面倒だから、あらかじめ注意しておきます。皆さんもすでに、お気付きになっていらっしゃると思いますが、ここには、屍骸がひとつ埋めてある筈なんです。さあ、掘ってください」  職人たちは顔を見合わせたが、好奇心のほうがこわさよりつよかったらしい。シャベルを投げ出すと、みんな素手で土をのけはじめた。と、すでに薄気味悪く土色をした、人間の肌があらわれた。驚いたことには、この屍骸もまた、一糸まとわぬ素っ裸で、しかもうつむけに埋めてあるらしく、背中から|臀《しり》のあたりが徐々にあらわれて来た。 「ちきしょう、着衣から身許がわかっちゃたいへんというので、裸にしておいたのですね。危ないところでした。もう一週間もおくれると、これまた顔のない屍体になってしまうところでした」 「おや、これは男の屍体ですね」  司法主任がびっくりしたように叫んだ。肉付きや肌のいろからいって、それはたしかに男であった。署長もこれには意外だったらしく、探るように金田一耕助の顔を見ながら、きっと唇をへの字なりに噛んだ。 「そうです、男ですよ。あなたはいったい、何を期待していられたんです」 「何をって……、ひょっとすると鮎子が……」 「鮎子? 御冗談でしょう。あの悪魔が死ぬものですか。鮎子は生きてるって、さっきから何度もいってるじゃありませ……。わっ」  さすがの金田一耕助も、最後に掘り出された屍骸の後頭部を見たとき、思わずそう叫んでとびあがった。ほかの人たちもいっせいに、顔色をかえていきをのんだ。全身の毛孔という毛孔から、冷たい汗が噴き出すかんじだった。なんとその後頭部は、|柘《ざく》|榴《ろ》のようにわれているのだった。  金田一耕助は|袂《たもと》からハンケチを出して、神経質らしく顔の汗を拭いながら、 「これで、顔の相好がかわっていなければよいが……。刑事さん、恐れ入りますがその屍骸を起こして、為さんに顔を見せてやってくれませんか。為さんはこの男を、見知っているという話でしたから。……」 「君、これを使いたまえ」  署長が惜し気もなく、皮の手袋を投げ出した。村井刑事はそれをはめると、屍体の肩に手をかけて、うんとばかりに抱き起こした。顔は土だらけであった。司法主任がハンケチを出して、その土をていねいに拭いとった。職務だからこそ出来るのである。この人たちとて、おなじ人間の感情を持っているのだ。司法主任の手がいくらかふるえていたとしても、|嗤《わら》うことは出来ないだろう。 「さあ、為さん、見ておくれ。こわがっちゃいけない。君はこの場の大立て者じゃないか。勇気を出して……これはいったい誰だね」  屍体の顔は、むろん、恐ろしくひん曲がっていた。しかし、金田一耕助のおそれたように|毀《き》|損《そん》してもいなかったし、腐敗の度もそれほどひどくはなかった。為さんはガチガチ歯を鳴らせながら、その恐ろしい屍体の顔に、じっと眼を注いでいたが、 「ひゃっ! こ、こ、これゃ『黒猫』のマスターだ……」  金田一耕助は署長と司法主任をふりかえったが、この事は、屍体が男とわかったときから、すでに予想されたところだったので、二人ともそれほど驚きはしなかった。署長は金田一耕助にむかってうなずきながら、 「それじゃ、マスターも殺されていたんだね」 「畜生、いくら探しても行く方がわからん筈だ。それにしても殺されたのは……」 「十四日の晩ですよ。G町の交番のよこを通りすぎてから、すぐこの寺へひっぱりこまれ、ぐゎんと一撃、それで万事はおわったんです。あとはこうして、屍体をかくしておけばよかった。警察ではかれを、お繁殺しの犯人、あるいは共犯者として捜索するという段取りになる。そこが、この事件のほんとうの犯人のねらいだったんです」 「そして、その犯人というのは鮎子なんだね」 「そうです」 「その鮎子はどこにいるんですか」  司法主任が、もどかしそうに口をはさんだ。 「この寺にいます。ほら、向こうの土蔵のなかに。……」  日はすでに暮れかけていた。人っ気のないひろい寺内は、うすねずみ色にたそがれて、風の冷たさが身にしみて来た。金田一耕助が指すところを見ると、本堂や|庫《く》|裡《り》からはるか離れた境内の奥、奥の院ともいうべき小さなお堂のそばに、一棟の土蔵がポツンと立っていた。それは、寺の|什器《じゅうき》や宝物をおさめるところで、火災をおそれて、とくに他の建物から、はなして建ててあるらしかった。  一瞬、一同はしいんと黙りこんでいたが、だしぬけに刑事がバラバラと駆け出した。その後ろから署長と司法主任もつづいた。金田一耕助は為さんをふりかえって、 「為さん、そのつるはしを持って来て下さい。ほかの二人は、ここに残っていて下さい」  為さんはつるはしを|提《さ》げて金田一耕助のあとに続いた。  土蔵の扉には外側から、大きな錠がかかっていた。 「この鍵は日兆君が持ってる筈です。ほかにもあるかも知れないが、中風で寝ている和尚さんを騒がせるのも気の毒です。つるはしで破ることにしましょう」  錠は間もなく破れた。金田一耕助は、為さんの労をねぎらってその場を去らせると、自ら扉に手をかけた。さすがに緊張しているらしく、掌が汗でベトベトしていた。 「皆さん、気をつけて下さい。相手は手負い|猪《じし》のようなものです。女だと思って、油断をしちゃいけませんよ」  署長をはじめ司法主任や村井刑事も、手を握ったり開いたりしていた。金田一耕助はいきを大きく吸いこむと、うんと力をこめて重い扉をひらいた。……  と、そのとたん、 「危い!」  村井刑事が金田一耕助のからだを突きとばした。金田一耕助はふいをつかれて、よろよろとよろめいて膝をついたが、ズドンという銃声とともに、ヒューッと弾丸が、耕助の頭上をかすめてとおったのは、実にその瞬間だった。相手が飛び道具を持っていようとは、さすがの金田一耕助も予期していなかった。刑事がつきとばしてくれなかったら、恐らくかれは、頭を貫かれて即死していたにちがいない。 「動いたら、撃つよ」  扉のすぐうちがわで、上ずった女の声がした。膝をついたまま、金田一耕助が見上げると、暗い、穴のような土蔵の内部を背景にして、ケバケバしい洋装をした、断髪の女がすっくと立っていた。どぎつい白粉と口紅にもかかわらず、その顔はドス黒い残忍さと、絶望で土色になって、大きく見張った眼からは、ものに狂った兇暴さと、殺気が|迸《ほとばし》り出ていた。女の握ったピストルの銃口は、上からぴたりと金田一耕助をねらっている。  金田一耕助はいうに及ばず、署長も司法主任も村井刑事も真っ|蒼《さお》になった。 「あんたはいったい、どういう人なの」  女の声は抑えかねる怒りに、ふるえているようであった。憎しみと、|怨《うら》みによじれるような声であった。 「警察の人じゃないわね。警察の人でもないのに、いったい、あたしに何んの怨みがあって、せっかく、|暗《くら》|闇《やみ》のなかにかくれているものを、明るみへひきずり出すような真似をするの」  女は|咽《の》|喉《ど》の奥から、ヒステリックな声をふりしぼって、 「いいえ、あたし知ってるわ。みんなあんたがやったことよ。昨日もあんたが墓場のあたりを、うろついているのを見たわ。だから、あたし、危ないと思って、ここを出ていきたかったのだけれど、日兆の馬鹿が、あたしのいうことをきかないで、出してくれようとしなかった。あの馬鹿さえいなかったら、とうの昔にあたしは逃げていたのよ……」  女はギリギリと、音を立てて歯ぎしりをすると、急に気が狂ったように断髪を左右にふって、 「だけど、こんなこといったって仕方がないわ。万事はおわった。あたし覚悟はきめてるわよ。だけど、その人、もじゃもじゃ頭のおせっかい屋さん、あたし一人じゃ死なないことよ。あんたも一緒に来てもらうわ。仲よくお手々つないで、|三《さん》|途《ず》の川を渡りましょうよ」 「止せ!」  署長が怒鳴って一歩まえへ踏み出した。だが、金田一耕助は片手をあげてそれをとめると、悲しそうなかおをして首を左右にふった。女がピストルを動かしたので、署長もそれ以上まえへ出るわけにはいかなかった。 「さあ、お立ち、立てないの」  女がかん高い声で叫んだ。金田一耕助はよろよろと立ち上がって、女と真正面に向かいあった。金田一耕助はもう、何を考える力も、何をどうしようという気力もなかった。腑抜けのように全身から力が抜けて、立っているのさえ大儀なような気がした。  署長と司法主任と村井刑事の三人は、少しはなれたところに、ひとかたまりになったまま、気が狂ったように騒いでいた。しかし、かれらにもどうすることも出来なかった。かれらが動くことは、金田一耕助の死期を早めるばかりであった。金田一耕助の胸をねらったピストルは、いつでも、火を吹ける用意が出来ているのである。  金田一耕助は、全身にけだるいものが這いあがって来るのをかんじた。撃つなら、早く撃ってもらいたい。 「ふふふふふ」  女はとても人間とは思えない声でわらった。それからぴたりと|狙《ねら》いを定めると、ピストルの曳き金に指をかけた。  だが、そのとき彼女は、ふっと金田一耕助の背後を見たのである。いや金田一耕助のみならず、そこに立っている警察官の一団の、むこうに眼をやったのだが、と、その瞬間、悪魔のような決意と、必死の緊張が一瞬にしてくずれた。ドスぐろい顔に、大きな動揺があらわれたかと思うと、みるみるその顔は、子供のベソを掻くときのようにゆがんで来た。 「お繁!」  ふかい、ひびきのある声が一同の背後できこえた。 「馬鹿な真似をするな!」  その瞬間、女は手にしたピストルをかえして、自分の心臓をねらった。ズドン! と音がして、煙の中に女はくらくらと倒れた。と、同時に金田一耕助も、骨を抜かれたようによろめいたが、その背中を、強い、|逞《たくま》しい腕が来てしっかりと抱きしめた。 「耕ちゃん、しっかりしなきゃ駄目だ」  いうまでもなく風間俊六であった。  署長や司法主任や村井刑事は、ばらばらと女のそばへ駆け寄った。そしていま、最後の|痙《けい》|攣《れん》をしている女から、風間のほうへ眼を向けると、署長は不思議そうなかおをして訊ねた。 「あなたはいま、お繁とおっしゃったようだが、この女はお繁なんですか」 「そうですとも、お繁ですとも。お繁以外の誰でもありませんよ」 「しかし、金田一さんはこの女を、鮎子という女のようにいっていたが……」 「そうですよ、署長さん」  金田一耕助は風間俊六に抱かれたまま、ものうげな声でいった。 「その女は『黒猫』のマダム繁子であると同時に、日華ダンスホールにいた、桑野鮎子ででもあるんです。お繁が一人二役を演じていたんですよ」      九  その翌日、大森の割烹旅館松月の離れ座敷で、金田一耕助を取りまいているのは、署長と司法主任と、村井刑事の三人であった。風間俊六も、主人役としてその座につらなっており、かれの二号だが、三号だか、四号だか、五号だかわからんという、あだっぽい女性がその座のとりもちをしていた。本来ならば金田一耕助のほうから警察へ出向いて、事件解説の労をとるべき筈だったが、昨日あまり神経を緊張させたせいか、ぐったりと疲労をおぼえて、とてもちかごろの乗り物に乗る勇気がなかった。風間がそれを心配して、警察の人々に、こちらへ来てもらうように取りはからったのである。 「いや、どうも意気地のない話で……」  金田一耕助は面目なげに、もじゃもじゃ頭をかきまわしていた。顔色が悪くて、笑いがおにも元気がなかった。署長は同情するように、 「いや、無理もありません。あれほど死というものに接近すれば、誰だってそうなります。まったく危ないところでしたからなあ」 「われわれも手に汗握りました」  司法主任もしみじみ述懐するような調子だった。 「あの時、風間さんのやって来るのが、もう数秒おくれていたら、どうなっていたか知れたものじゃない」  村井刑事はいまさらのように体をふるわせた。 「そのとおりで。あの女は風間に惚れていたんですよ。だから、ああして風間に叱りつけられると、子供がベソを掻くような顔になった。ぼくはゆうべ、あの顔が眼のまえにチラついてねえ。悪い女だが、あの顔を思い出すとなんだか憐れっぽくなって。……おい、色男、なんとかいわないか。おせつさんがそばにいると思って、そうすますなよ」 「馬鹿なことをいうな。しかし、まあ、耕ちゃんにそれだけ、冗談が出るようになって安心した。ゆうべは夜っぴてうわごとのいい通しで、おれはずいぶん心配したぜ。なあ、おせつ」  風間は太い腕を組んだまま、かたわらの女性をふりかえった。風間の二号だか、三号だか、四号だか、五号だかわからん女性は、ただ黙ってほほえんだだけだった。 「いや、有難う、心配をかけてすまなかった。しかし、風間、その耕ちゃんだけは止しておくれよ。せめて耕さんとでも呼んでくれ。どうもやすっぽくっていけないや。ねえ、おせつさん」  おせつさんは相変わらず無言のままほほえんでいたが、ふと気がついたように、からになった銚子を持って立ちあがると、 「あの、あなた。……彼用があったら、そこの呼鈴を鳴らして下さい」  そしてすうっと出ていった。金田一耕助はうしろ姿を見送りながら、 「いいひとだな、あのひとは。風間、おまえももう、浮気はよいかげんにお止し。おせつさんひとりで我慢しろ」  風間はにが笑いをしながら、 「際どいところで意見をしゃあがる。それより皆さんがお待ちかねだ。そろそろお話し申し上げたほうがいいだろ」 「うん」  金田一耕助も大きくうなずくと、気の抜けたビールをちょっと|舐《な》めて、それから一同のほうに向き直り、つぎのように語りはじめたのである。 「話がちょっと変な切り出しになりますが、探偵小説には『顔のない屍体』というテーマがあるそうです。これはぼくも最近、岡山のほうにいる友人からきいたのですが、それはこういうのです。Aなる人物がBなる人物を殺そうとする。しかし、ただ殺しただけでは、すぐに自分に疑いがかかるおそれがある。つまりAにはBを殺す動機があることを、世間では知っているんですね。そこでAはBを殺すと、その顔をめちゃめちゃにしておき、屍体に自分の着物を着せるかなんかして、|恰《あたか》も殺されたのは自分、即ちAなるが如く見せかける。そうしておいて身をかくすと、世間では、BがAを殺して出奔したものと思うから、Bの人相書きによって犯人を探そうとする。だからAは安全に、死んだものとなって、かくれていることが出来る、と、こういうトリックなんです。今度の事件もそれと非常によく似ていますが、よくよく考えてみると、根本的にちがったところがある。即ち、まえの場合では、身替わりに立てる屍体、即ちBなる人物を殺すことが第一の目的で、そのために犯罪が起こるのです。ところが、今度の事件の場合はそうでない。お繁が身替わりに立てた女、あの女に対してお繁はなんの恩怨もなかった。彼女の目的は唯一つ、亭主の糸島大伍を殺すことにあった。それがふつうの探偵小説における『顔のない屍体』と、ちがうところですが、それだけに、この動機を見抜かれた瞬間、お繁は敗北しなければならなかったわけです」  金田一耕助はまた、気の抜けたビールで咽喉をうるおすと、 「ぼくは風間から、お繁の前身に関する疑惑をきいた瞬間、この動機に気がついた。そして、昭和十二年の松田花子の一件を発見したとき、いよいよ、この動機は確定的なものだと思いました。松田花子は|姑《しゅうとめ》を毒殺しようとして、あやまって良人を殺した。そして中国へ高跳びした。むろん、彼女は名前もかえ、素性もふかく包んでいたにちがいない。それをどういうはずみか、糸島大伍に発見され、脅喝されて夫婦になった。糸島はきっと向こうでも、お繁の|美《び》|貌《ぼう》と肉体をたねに、悪どいことをやっていたにちがいない。そういう夫婦のあいだに、愛情などあろう筈がありません。糸島のほうでは、それでも欲ばかりではなく、女に惚れていたらしいが、女のほうでは亭主に対して、憎しみ以外のどんな感情も、抱くことは出来なかったにちがいない。それにも|拘《かかわ》らず、糸島から逃げることが出来なかったのは、秘密を|暴《ば》らされることを恐れたからですが、この暴露をおそれる彼女は、糸島をおそれると同時に、日本へかえるということを、何よりも恐れたにちがいない。おそらく彼女は、生涯外地で暮すつもりだったのでしょうが、そこへ今度の敗戦で、否応なしに内地へ送還されることになった。まったくこればかりは、いやもおうもありませんから、お繁にもどうすることも出来なかった。だが、ここでお繁はかんがえたのです。こわい内地へ、こわい男といっしょにかえる。せめて、そのひとつでもふり落としてしまいたい。……そう考えたから彼女は糸島をまいて、わざとひとりで、さきへ帰国して来たのです。永遠に、ふり捨てようとした内地へ送還される代わりには、自分の秘密を知った糸島のほうを、この機会に永遠にふり捨てようとしたんです。こうして内地へかえって来た彼女は、出来るだけ東京をはなれて住みたかったにちがいないが、東京うまれの東京育ちの彼女には、結局、東京を遠くはなれたところには住めなかった。それに、あの時からすでに十年もたっているし、ことにこの十年はお繁にとって、十五年にも、二十年にも相当していたにちがいないから、顔かたちもすっかり変わってしまった。あの頃の子供っぽい丸味はあとかたもなくなって、いまではむしろ面長になっている。彼女はそういう変化に自信をもっていたが、さらにそれを強調するために、昔とはまったく趣味のちがった日本髪に結い、服装も古風な日本趣味によそおうことにしていた。こうして、彼女は横浜のキャバレーへ出ているうちに風間にあい、かれに囲われることになった。彼女はそこではじめて、安住の地を見出したばかりか、おそらく、うまれてはじめて男に惚れたんです。生活の安定と愛欲の満足と、ふたつながら得た彼女は、幸福に酔いしれていたにちがいない、ところがそこへ糸島がかえって来た。永遠にふりすてたつもりの糸島がかえって来て、彼女のまえへ現われた。その時の、お繁の憤りはどんなものだったでしょう。生活だけの問題ならば、お繁にもまだ諦めがついた。しかし、今度は、風間という男に惚れているのだから、諦めきれない未練がそこにのこった。せっかくかち得た幸福を、こうも無残にうちくじく男。——お繁はもう、この男を殺してしまうよりほかに、未来|永《えい》|劫《ごう》、幸福はあり得ないことに気がついた。そうです、糸島大伍という男は、内地へかえって来て、お繁を探し出し、お繁の面前に立った瞬間、死を宣告されたのも同様です」  誰も口をはさむ者はなかった。署長は金田一耕助の一句ごとに、重く軽くうなずいた。糸島もお繁も死んでしまったいまとなっては、それは金田一耕助の想像にすぎないのだが、この想像はおそらく、真相をうがっているにちがいないと、誰も同意せずにはいられなかった。  風間はそばから、ビールをついでやろうとすると、金田一耕助はそれをさえぎって、 「いや、いいんだ。こうして、気の抜けたほうが|刺《し》|戟《げき》がなくていいんだ」  と、気の抜けたビールを|舐《な》めながら、 「さて、ここで改めて、この事件をはじめから見直してみましょう。今月二十日の早朝、『黒猫』の裏庭から、女の腐乱屍体が掘り出された。調査の結果、屍体は桑野鮎子という女であり、犯人はマダムの繁子、そして亭主の糸島大伍も、おそらく共犯者であろうということになった。この事は風間もお君ちゃんの電話で、だいたいのことを知り、間もなく刑事さんの訪間によって、詳しいことがわかった。ところがそのとき風間はたいして驚きもしなかった。お繁ならば、なるほど、それくらいのことはやりかねまじき女である、と、単純にそう思っていたからです。ところが二十六日にいたって、俄然、事件がひっくりかえった。殺されたのは鮎子ではなくお繁であった。そして殺されたと思っていた鮎子こそ犯人である。——と、そういう記事を読んだとき、風間は急に、何んともいえぬ胸騒ぎをかんじた。風間はその胸騒ぎの原因がなんであるか、深く掘りさげて、かんがえてみようとしなかったが、とにかく、腑に落ちないもの、何かしら、そのまま捨てておけないものを感じたので、さっそく、ぼくのところへやって来たのです。風間はぼくにむかっても、胸騒ぎの原因、腑に落ちないものを、どう表現してよいか知らなかったのですが、ぼくはこの男と話をしているうちに、かれの疑惑を次のように分析しました。その屍体ははじめ鮎子だと思われていた。ところが、今度はお繁だということになった。してみると、その屍体は鮎子ともお繁とも、どっちともとれる屍体である。と、すればその屍体は、やっぱり鮎子ではないのか。——風間の疑惑は、そこでとまどいしていたのですが、ぼくはそれを更にふえんして、その屍体は鮎子である。そして、お繁が故意にそれを自分だと、思わせようと企んだのである。——と、一応そういう仮説をたててみたのです。では、お繁がなぜそのようなことを企んだのか。——そこで、役に立って来たのがお繁の前身の秘密です。お繁は自分を、死んだものにしてしまいたかった。つまり、この世から自分の存在を、抹殺してしまいたかったのだと、こう考えると動機は十分なりたちます。またこう考えるほうが、当時『黒猫』の奥座敷にいた、疑問の女の正体をかんがえるうえにも、はるかに自然に説明がつく。刑事さんのお説では、鮎子が身替わりをつとめていた、と、いうことになっていたそうですが、一日や二日ならともかく、二週間という長いあいだ、しかも、人殺しをしたあとで、そんな度胸があるというのは、とても人間業でなく、あまり不自然に思われる。むしろ、それよりも、お繁がひとつの目的をもって、つまり、後になって奥座敷にいた女に、疑惑をかんじさせようという目的で、わざと顔を見せなかったのではないかと、と、そうかんがえるほうが、はるかに自然に思われる。そうだ、あれは、やっぱりお繁だった、と、こうかんがえて、さてこの仮説になにか邪魔になるものがあるか。あります。即ち日兆君の証言です。だが、このことは、|煩《わずら》わしくなるからあとで説明するとして、ここでは一応、日兆君の証言を無視して、いまの仮説をおしすすめていくことにします。さて、殺されたのは鮎子であり、犯人はお繁である。そして糸島も共犯者である。——と、こうかんがえると、ここにひとつ疑問が出てくる。それは、なぜかれらが血のついた畳や襖を、そのままにしていったのか。——と、いうことです。畳の血は薄縁でかくしただけだし、襖の血は新聞を貼ってゴマ化しただけだ。早晩、あとから来る住人に発見されるにきまっている。あの血は相当の量だから、そうなると、よし屍体が発見されなくても、後から来た住人に疑われる。そういう重大な証拠を、なぜ、平気で残していったのか。襖は血のついたところだけ、破っておけばよいのだし、畳だって表をひっぺがして、焼き捨てるかどうかすれば、簡単にことがすむ。それだけのことをなぜ、かれらはやらなかったのか。——ここで、お繁の計画をもう一度かんがえる。彼女は自分が死んだ、殺されたということにしたかったのだから、出来るだけあちこちに、人殺しがあったという証拠をのこす必要があった。だから彼女に関する限り、ああいう血の跡がのこっていても不思議はない。しかし糸島はどうだろう。お繁が鮎子を殺す。糸島も手伝って屍体を埋める。そして二人で出奔する。その場合、糸島はそこに、血の跡を残すことを承知するだろうか。ノーですね。では、更に糸島がお繁のもうひとつ深い計画、即ち鮎子の屍体を身替わりに立てて、自分が死んだもの、殺されたものに見せかけようという計画、それを知っていた場合はどうだろう。いや、いや、その場合ははじめから考える必要がない。なぜならば、糸島はお繁のそんな計画に同意する筈がない。そんな事をすれば、なるほどお繁は安全かもしれないが、疑いは自分にかかって来ることはわかりきっている。お繁を死んだことにするのはよいが、そのために女房殺しの疑いをうけるような計画に、糸島が同意する筈がない。と、こう考えて来ると、今度の事件は全部、お繁ひとりの頭で組み立てられたものであり、糸島はすこしもあずかり知らなかったと考えられる。そう考えたほうが自然のように思われる。しかし、そうなると問題はあの血です。糸島だって、あの多量の血に気がつかなかった筈がない。げんにあの畳は、押し入れのまえと壁際のと入れかえてあったのですが、それには|箪《たん》|笥《す》を動かさなければならない。お繁ひとりの力では、とても手に負えぬところです。当然、糸島も手伝ったにちがいないが、糸島はその血をどう考えていたのだろう。——と、そこまで考えて来たとき、はっとぼくが思いついたのは、首を半分チョン斬られた黒猫の屍骸……」 「あっ!」  署長と司法主任と村井刑事が叫んだのは、ほとんど同じ瞬間だった。署長はいきを弾ませて、 「わかった、わかった。お繁はあの血を糸島に、黒猫の血だと思いこませたのですね。そのために、あの黒猫は殺されたのですね」 「そうですよ。そうですよ」  金田一耕助は嬉しそうにがりがり頭を掻きながら、 「皆さんの御意見では、あの黒猫は殺人のあった節、そばでまごまごしていて、とばっちりをくったのだろうということになっていましたね。しかし、それは猫というものの、習性を知らなすぎる御意見ですよ。世の中に、およそ、猫ほど殺しにくい動物はない。ぼくの中学時代の友人に、とても|獰《どう》|猛《もう》な人物がいましてね、犬でも猫でも、何んでも殺してスキ焼きにして、食っちまうやつがあった。いや、風間じゃありませんから御安心下さい。そいつの言葉によると、猫ほど往生際の悪い動物はないそうです。犬は棍棒でぶん殴ると、ころりとすぐ死ぬそうですが、猫と来たら、打とうが、殴ろうがなかなか、一朝一夕には死なないそうです。もういいだろうと思っていると、薄眼をひらいてニャーゴと啼く。実に、あんなにしまつの悪いやつはないと言ってましたが、それほど神通力をそなえた猫が、とばっちりをくらって殺されるというのは、ちと、不覚のいたりに過ぎると思われる。ことにあの傷口から見ても、とばっちりではなく、故意にえぐられたとしか思えない。ところで、刑事さんの御意見では、犯罪の現場をあの猫に見られたので、気味悪くなって殺したというんですが、ぼくも一応そのことを考えた。しかし、それじゃまるでポーの小説です。それにぼくははじめから、殺されたのはお繁じゃないと思っていたので、この問題には相当悩まされたのです。それがここへ来て、ぴたりとぼくの、仮説のなかへはまりこんで来たわけです。お繁は亭主の留守中に、人殺しをしたあとで、黒猫を殺しておく。そして、亭主がかえって来たときこんなことをいうんです。猫とふざけていたら急に噛みついたとか、ひっかいたとか、口実はなんとでもつく、そこでついくゎっとして殺してしまった。と、血みどろの黒猫の屍体を見せる。お繁はふだんからヒステリー性のある女ですから、糸島も驚いたことは驚いたろうが、大して怪しみもしない。こうして、黒猫を殺すことによって、そこにある血を、ゴマ化すことが出来ると同時に、更に都合のよいことには、猫の屍骸を埋めるために、亭主に裏庭へ穴を掘らせることも出来る。更にまた、代わりの黒猫を亭主に貰って来させることによって、いよいよ、亭主を怪しいものに仕立てることが出来る。彼女は亭主にこんなふうにいったにちがいない。わたしが|癇《かん》|癪《しゃく》を起こして猫を殺したなんてこと、誰にもいわないで頂戴。だって、そんな兇暴な女かと思われるのいやですもの。それから、大急ぎで代わりの猫をもらって来て頂戴。黒猫だから誰にも見分けがつきゃしないわ。だから、猫がかわってるなんてこと、誰にもいわないでね」 「ふうむ」  と、署長が太い唸り声をもらした。司法主任と村井刑事は、熱いため息を吐いた。 「なるほど、それで、糸島の奇怪な行動も説明がつくわけですな。あいつはなんにも知らないで、細君のあやつる糸のさきで踊っていた。それが、じぶんを殺す準備行動とも知らないで……」 「そうですよ。そこがこの犯人のもっとも冷血無残、非人間的なところですね。さて、一方彼女はわざと顔に悪性のドーランを塗り、おできをいっぱいこさえて、奥の六畳へひきこもってしまった。彼女は去年も、ドーランにかぶれたことがあるので、どのドーランを塗れば、おできが出来るかということを、ちゃんと知っていたんです。亭主の糸島にしてみれば、細君の顔に、おできが出来たことは事実だから、彼女の閉居に対しても、別にふかく怪しまなかった。さて、そうしておいて彼女は、にわかに、『黒猫』を売りはらって、どこかへ立ち去ることを亭主に提案した。いったい、どういうもっともらしい口実で、亭主に同意させたのか知らないが、何といっても店を経営維持できるのは、お繁の腕にあるんだから、糸島は結局、彼女の言にしたがうより手はなかったでしょう。……さて、ここですこし問題の焦点をかえて、殺されたのは鮎子だとして、では、その鮎子という女のことをかんがえて見ることにしましょう。ぼくはこの鮎子という女の存在について、はじめから一種の疑惑をもっていた。さっきもいったように、ぼくははじめから、お繁にこそ、糸島を殺す動機があるが、糸島のほうに、お繁を殺す動機があろうとは思えなかった。第一かれは、だにのようにお繁に寄生することによって、いままで生活して来た男である。お繁を殺すことは、まるで金の卵をうんでくれる、鶏を殺すようなものではないか。——ところが、表面にあらわれたところを見ると、一応糸島にも、女房を殺す動機ができているようになっている。つまり、それが新しい情婦の鮎子です。この鮎子という女がいなかったら、糸島に女房を殺す動機を見出すことはむずかしい。つまり鮎子あるが故に、お繁は亭主に殺されたものとして通るようにできている。お繁の計画にとって、これはあまりにお誂え向きではないか。そこにも何か、お繁の作為があるのではないか。そう思って、鮎子という女のことを調べてみると、これが実に|茫《ぼう》|漠《ばく》としているんです。去年の五月から六月まで、鮎子は日華ダンスホールにいた。ところが、そこを止してから、ことしの正月、昔の同僚のダンサーに出会うまで、どこで何をしていたか、誰も知っているものはない、ところがことしになって、そのダンサーともう一人、お君ちゃんとに見られたと思ったら、間もなく今度の犯罪です。これまた、すこしお誂え向きに出来すぎている。しかし、鮎子という女が存在したことはたしかです。そして糸島と仲よく、映画を見たり、井の頭の変な家へしけこんだことも事実である。だが……と、ここでぼくはかんがえたのですが、糸島のような男が、細君のほかに女をこさえるだろうか、かれは細君によって生計を立てているのみならず、たしかに細君に惚れていたんです。このことは、『黒猫』にいた三人の女が、口をそろえて証言している。そういうかれが、ほかに女をこさえるだろうか。——しかし、男女関係というものは、公式どおりにいかないものだから、あるいは糸島も情婦をこさえたかも知れない。しかし、お繁がそれを|妬《や》きたてる。——これがちとおかしい。どうもぼくのあたまにあるこの夫婦は、たとい亭主が浮気しても、女房は妬いてくれそうにないのです。冷然として、せせらわらっているぐらいが関の山なんです。それをお繁が妬きたてた。しかも、若い女たちのいるまえで、わざと、聞こえよがしに妬きたてたらしい形跡がある。そこにまた、なにか作為があるのではないか。そう思って、三人の女に当時の模様をきいたところが、つぎのようなことがわかりました。まず、第一に、お繁が妬き出したのはことしになってからである。第二にお繁はそういうときいちども、鮎子という名を口に出さなかった。いつもあのひととか、あの女とかいっていた。第三に、そういう際の糸島の様子は、いつもとても馬鹿らしそうであった。阿房らしくて、相手になれんという様子であった。——と、以上三つのようなことを聞き出したぼくは、そこに、たしかにお繁の作為があると思った。しかし、そのときはまだまさかあんな大手品、大ケレンを、お繁が演じていようとは夢にも思わなかった。それに気がついたのは、いや、それをぼくに教えてくれたのは、二つの日記なんです」  金田一耕助はそこでひといき入れると、気の抜けたビールで咽喉をうるおし、さらにまた話のつづきを語りはじめた。 「二つの日記というのは、風間とお君ちゃんの日記でした。風間が日記をつけていたのは、大して不思議ではないが、お君ちゃんが過去一年、一日も欠かさずに日記をつけていたのは、何んといってもえらいもんです。しかも、その日記こそ、この事件のいちばん奇怪な謎を解明する、唯一のヒントになったのだから、今度の事件の第一の手柄者は、なんといってもお君ちゃんですよ。と、いうのはこういうわけです。『黒猫』では毎月二回ないし三回休業する。ところがお君ちゃんの日記によると、去年までは、お繁は必ずしも休みごとに、風間にあいに出かけたわけでなく、月に一度ときまっていた。その他の休みは家にいるか、糸島と二人であそびに出かけるかしている。お繁が休みごとに、風間に会いにいくと称して、出かけるようになったのは、ことしになってからのことなんです。ところが風間の日記によると、かれはそれほどお繁にあっていない。去年とおなじく月に一度ときまっているのです。では、風間にあっていないお繁は、いったい、どこへ行っていたか。——ところが、更に妙なのは、ちかごろお繁が出かけると、きっとあとから、亭主の糸島も出かけたというが、必ずしもそうではない。お繁が出かけても、糸島がおとなしく家にいる場合もある。しかも、なんとその日こそ、お繁がほんとに風間にあっている日なんです。そして、お繁がどこへ行ったかわからぬ日には、きまってあとから亭主が出かけている。ぼくはあのダンサーに会って、彼女が日劇のまえで、鮎子にあったという日を、思い出して貰いましたが、それも、やっぱりお繁がどこへ行ったか分からん日です。また、お君ちゃんが糸島を尾行して、鮎子という女を見たというのも、やっぱり同じことでした。この事実に気付いたとき、ぼくはなんともいえぬ大きなショックをかんじました。お繁と鮎子はおなじ人間である。即ちお繁が一人二役を演じたのである。まさか、一足跳びにそこまでは飛躍しませんでしたが、いろいろ考えているうちに、結局、そういう結論に、到達せざるを得なくなった。さて、一応この結論を正しいとみて、そこに何か、矛盾があるかとかんがえてみたが、何もなかった。お繁と鮎子の両方を見たことのある人間は、お君ちゃん唯一人である。そのお君ちゃんとて雑踏のなかで、遠くのほうから、ちらと、鮎子を見ているに過ぎない。そのお君ちゃんの眼を、ゴマ化すぐらいはなんでもない。お繁はふだん日本髪で渋い日本趣味の服装をしている。それに反して鮎子は断髪で、毒々しい化粧をしているのだから、お君ちゃんが欺かれたのも無理はないのです。その他の人々にいたっては、お繁を知ってるものは鮎子を知らず、鮎子を知っているものは、お繁を知っていない。さらにまた、鮎子が糸島といっしょに中国からかえって来たこと、鮎子が糸島の情婦であること、それらは全部お繁の口から出たことで、ほかにはなんの証拠もない。——即ち鮎子はお繁の二役だったのだ。それでこそ、何もかも|辻《つじ》|褄《つま》があう。つまり、お繁は、亭主が自分を殺したという、シチュエーションをきずきあげるために、亭主に動機をこさえてやっていたのです。こう気がついたときには、ぼくはあまりの奸悪さにふるえあがりましたよ。眼をおおいたくなったもんです。自分でかんがえ出しながら、自分の説を信じるのが怖かったぐらいです。しかし、この説が正しいことはすぐ証明されました。日華ダンスホールの人たちに、松田花子の写真を見せたところ、だいぶ変わっているけれど、そういえばたしかにこの人にちがいない。と、そういうんです。一方、その写真は、お繁の若いころの、写真らしいということになっている。これでもう、お繁の一人二役は、動かすことの出来ない事実となったわけです」  金田一耕助はそこでまたひと息いれると、じっとビールのコップを視詰めていた。誰も口を利くものはなかった。やりきれないような重っくるしい沈黙が、しばらく部屋のなかにつづいたが、やがて署長と司法主任がほとんど同時に口をひらいた。 「しかし、お繁はそんな奇妙な|逢《あ》い|曳《び》きを、どういう口実で亭主に納得させたろう」 「それにお繁は、去年の五月ごろから、すでに今度の事件を計画していたんですか」 「そうです。多分そうだろうと思います、だが、ここではまず署長さんの質問からおこたえします。そんな事、お繁にとっては雑作ないことなんですよ。彼女はこういうんです。ねえ、あなた、あたしちかごろ、なんだかクサクサして仕方がない。また、去年の五月ごろみたいな、逢い曳きごっこしてみない。あたしもう一度桑野鮎子になるわ、そして、ほかに旦那があることにするの。その旦那の眼をぬすんで、あなたと密会してるってことにするのよ。ねえ、ねえ、あたしたちいま、倦怠期に来てるのよ。変化が必要なんだわ。あたしスリルが味わいたいのよ。ねえ、ねえ、逢い曳きごっこをして遊びましょうよ。お繁の気まぐれには慣れてるし、また糸島は彼女の命令とあらば、どんなことでもきかねばならぬ。それに彼自身、そういう遊戯に興味をかんじないでもなかったのでしょう。そこで、お繁の手に乗ってしまったわけです」 「なあるほど」  署長は感心したように首をひねった。 「それから去年のことですがねえ。ぼくは思うのだが、糸島は風間のところへ、名乗って出るよりだいぶまえから、お繁の居所を突き止め、お繁にあっていたにちがいない。その時分お繁はまだ、細かいプランはたっていなかったが、さっきも申しましたとおり、男の顔を見た瞬間から、殺意をかんじていたのだから、無意識のうちに、後日の計画に役立つような行動をしていたわけです。さて、糸島が現われたとき、お繁は蒼白い怒りをかくしてこういうんです。自分にはいま旦那がある。しかもその旦那というのは、かなり|凄《すご》い男である。|乾《こ》|分《ぶん》も大勢持っている。うっかり、あんたと密会しているところを見付かると、どんなことになるか知れやしない。だから、この家へは来ないでね。あたしの方から会いにいくから。……そして彼女は、旦那や旦那の乾分に見付かっても、分からないようにするためであると称して、変装して出かけるんです。そして、そこに桑野鮎子という仮装の人物をデッチ上げたんです。更に彼女はまたこういう。こういうこといつまでも続きゃあしないわ。いつか旦那にわかって、暇が出るにきまっているわ。だから、そのときの用意に、いまからダンサーでもしておくわ。……何しろその時分には、風間はもうその女に秋風が来ていたし、何しろ十三人も、お妾を持っているこの男のことだから……」 「馬鹿をいえ!」  風間はむつかしい顔をしてさえぎると、それでもいくらか|赧《あか》くなって、つるりとさかさに顔を撫であげた。 「あっはっは、十三人ではまだ不足かい。いや、ごめん、ごめん。どっちにしてもその時分風間は、お繁のところへかなり足が遠のいていたから、お繁は十分、そういう二重生活が出来たのです。ところがそのうちに、お繁は小野千代子という女のことを知った。糸島がその女といっしょにかえって来て、いまでも、面倒を見ていることを嗅ぎつけた。糸島が小野の面倒を見ていたのはむろん親切ずくじゃない。いずれそのうちに、闇の女にでも売りとばそうという魂胆なのだが、お繁はその女を利用しようと思いついた。しかし、その頃のお繁の計画は単純なもので、即ち、糸島を殺しておいて、小野千代子に罪をきせようと、まず、それくらいの魂胆だったろうと思うんです。そこで|恰《あたか》も、自分が小野であるかの如き印象を、ほかのダンサーたちに与えようとした。ところで問題のスーツ・ケース、C・Oという頭文字の入ったスーツ・ケースですが、ぼくはそれを見たという、ダンサーに訊ねてみたんですが、それは相当かさばった、しかも、一見して女持ちとわかるような派手なものだったそうです。ところで、当の小野千代子は、顔に泥だの煤だのを塗ってまで、男になりすまして、満洲から南下して来ているのだから、そんなスーツ・ケースなんて、持ってかえれる筈がない。だから、ぼくは、お繁と鮎子が、おなじ人間であることに気がつく以前から、鮎子は小野千代子ではないと思っていたんです。さて、こうして何んとなく、計画は立てたものの、さすがに当時は、それを実行する勇気を欠いていた。人を殺す、それも女が男を殺すということは、なんといっても大事業ですからねえ。だから、彼女は計画をあたためながら、静かに時の熟するのを待っていた。ところが、そこへ、彼女にとって恰好の人物が現われた。それが即ちあの日兆君なんです」  金田一耕助はそこで言葉を切ると、虫でも背筋へ落ちたように、ブルッとはげしく身をふるわした。ほかの連中も暗いかおをして、ほうっと暗いため息をついた。金田一耕助はまた言葉をついで、 「『黒猫』の六畳の障子のガラスに、紙が貼ってあることは、みなさんも御存じでしょう。ところがあの紙は、ちかごろ貼ったものじゃなくて、去年、糸島夫婦がそこへ移ると間もなく、貼ったものだそうです。その理由を、お君ちゃんはこういっていました。日兆さんが裏の崖から、マダムを覗いて仕方がなかったんです。あのひとすこし変よ。変態かも知れないわ。——お繁はそれを利用した。つまり日兆を手なずけて、犯罪の片棒かつがせようとしたんです。さっきも申し上げましたとおり、ぼくの仮説に矛盾するのは、唯一つ、日兆君の証言があるばかりです。しかし、ぼくは自分の仮説に対して、しだいに確信をつよめたから、日兆君は嘘を吐いてるとしか思えなくなった。ひょっとすると日兆君は、鮎子に変装したお繁を見て、かれ自身、|騙《だま》されたのじゃないかとも思いましたが、それにしては、かれの行動のすべてが、ひどくお繁の計画に都合よくできている。日兆君のあの証言、あれは為さんに、最初の証言の矛盾を指摘されたために、やむなく、本当のことをいったというようになっているが、ナニ、為さんのことがなくても、いずれ時を見て、申し立てるつもりだったんです。それにまた、屍体を掘り出した時期ですが、日兆君は、かれの話がほんとうだとしたら、なぜ、『黒猫』が空き家になった十四日か十五日に掘り出さなかったのだろう。その頃、屍骸が掘り出されていたら、腐敗の度もまだそれほどひどくはなく、あるいは相好の見分けもついたのではないか。これを逆にかんがえると、日兆君は、相好の見分けがつかなくなるのを、待っていたのじゃないか……ぼくは、確信をもっていいきれると思うのですが、あの屍骸はあそこに埋めてあったのじゃない。あの庭には十四日の晩までは、黒猫の屍骸が埋めてあっただけだと思う。では、あの屍骸はどこにあったか。あの墓地です。糸島の屍骸のあったところです。あそこへ埋めておいて、相好の見分けがつかなくなるのを待っていた。そして、二十日の晩、いよいよ、お誂えむきの状態になったので、日兆君が掘り出してかつぎ出し、あらためて『黒猫』の庭へ埋めた。即ち、長谷川巡査が見つけたのは、日兆君が屍骸を掘り出したところじゃなく、屍骸を埋めたところなんです。かれはむろん、長谷川巡査が毎晩そのころ、巡廻して来ることを知っていた。そこで、いかにもいまそこから、掘り出したように行動してみせたのです」  一同はまた、暗いため息をついた。なんとも救いのないドス黒いかんじであった。 「さて、話がすこし前後しましたが、お繁はこういうかっこうの共犯者を見付けたので、そこで改めて計画を練りはじめたのですが、さすがに半年たっているだけに、まえの計画より大分手がこんで来ました。彼女はまず、自分が殺されたものになろう。そして、その疑いを亭主に向けておいて、これをひそかに殺し、屍骸をどこかへかくしておこうと、こう考えた。これによって、彼女は二重の目的を達することが出来るんです。鮎子を殺すという宿望を果たすとともに、自分というものの存在を抹消することが出来る。さて、こういう計画に使う道具として、いや、道具というより犠牲者として、まえのつづきで、小野千代子をえらぶことにしたんです。小野は糸島の手で売りとばされていたが、お繁は彼女の居所を知っていたんですね。小野は売りとばされるとき、さすがに恥じて本名をかくしていたから、あとで小野の名前が問題になっても、彼女をかかえていた家——それは|私娼窟《ししょうくつ》ですが——でも気がつくまいと、お繁は安心していたのでしょう。そこで、さっきから申し上げて来た、一人二役で鮎子という、幻をつくりあげたばかりか、それを更に真実らしく見せるために、さかんにやきもちを焼いてみせた。ところが、さっきもいいましたが、彼女はその際、一度も女の名を口に出したことはなかったんです。あのひととか、あの女とかいっていた。亭主はそれを、小野千代子のことだと思って苦りきり、お君ちゃんや二人の女は、それを鮎子のことだと思いこんだんです。いや、そう思わせるように、お繁は用心ぶかく、たくみに口をきいていたんですが、これなども、まったく巧妙なもんだと思いますね」  そこでまた金田一耕助は、言葉を切ってひといきついたが、すぐまたあとをついで、 「話が長くなりましたから、これからさきは、なるべく簡単にお話しすることにいたしましょう。いや、もうぼくがお話しするまでもなく、すでに御承知のとおりですが、こうして準備工作が出来上がったので、いよいよ、本格的工作にとりかかることになった。あの恐ろしい二月二十八日、亭主の糸島が物資仕入れに出かけた留守へ、可哀そうな小野千代子を呼びよせ、これを一撃のもとに殺してしまった。実際に手を下したのは、お繁か日兆か知りませんが、これはどっちだって同じことでしょう。さて、その屍体は日兆がかついでかえって、あの墓地へ埋めておいた。そのあとでお繁は黒猫を殺し、亭主を|瞞着《まんちゃく》した。また、お君ちゃんの印象にのこっていた、鮎子のパラソルを店のテーブルにおいとくことも忘れなかった。それから自分は悪いドーランを顔に塗り、おできをいっぱいこさえて、ひきこもってしまった。これが殺人第一号ですが、恐ろしいのはこの殺人はお繁にとって、ほんとうの目的ではなかったことです。むしろ、これは、つぎに起こった、殺人第二号の予備工作に過ぎなかったんです。殺人第二号は十四日の晩に行なわれました。 『黒猫』を引き払い、G町の交番のまえをとおった糸島とお繁のふたりは、それからすぐに蓮華院へ入っていった。どういう口実でお繁が亭主を、そこへ引きずりこんだのか知りませんが、これは、何んとでも口実のつけようがありましょう。ここで糸島は殺されたのですが、今度は疑いもなく手を下だしたのは日兆だったと思います。さて、その屍骸を墓地へ埋めてしまうと、お繁は当分、蓮華院の土蔵のなかにかくれていることにした。燈台下暗しといいますが、これはまったく、うまいかくれ場所ですよ。こうして土蔵の中における、お繁と日兆の奇怪な生活がはじまったのですが、ここでお繁にひとつの誤算があった。それは、日兆が思ったほど、馬鹿でなかったということです。お繁はかれの異常さを利用していた。日兆ならかなり並み外れた言動でも疑われずにすむ。そこを利用していたのですが、その異常さが、今度はお繁を裏切ったんです。日兆はお繁を自分のものにすることが出来たが、決して心を許していなかった。だから、土蔵を出ていくときには、いつも厳重に錠をおろして、お繁を中へ閉じこめていったんです。そして、この事がお繁の破滅を招いたわけです」  金田一耕助の話はそれで終わった。しばらく一同は黙然として、めいめいの視線のさきを眺めていた。誰もかれも、口を利くさえ大儀なようにみえた。 「お繁はいったい、あの日兆をどうするつもりだったろう」  しばらくして、ボソリとそういったのは村井刑事であった。金田一耕助はそれに対して、出来るだけさりげない調子でこたえたが、それでも、声のふるえるのを抑えることが出来なかった。 「どうせ、ただではおかなかったでしょうね。今度の事件のほとぼりがさめたころ、坊主頭の屍骸がひとつ、またどこかで、見付かるという寸法だったでしょう。それではじめて、お繁は枕を高くして、新生活へ入れるわけですからね」  それから、かれは署長をふりかえって訊ねた。 「ところで、あの日兆はどうしました?」  署長はそれをきくと、ものうげに首を左右にふって、 「どうもいけません。昨日、署まで来てから、|騙《だま》されたことに気がついたのですね。にわかにあばれ出したそうで、みんなで寄ってたかって取り止めようとすると、急に泡をふいてひっくりかえって……ひとつには、お繁との奇怪な恋の生活が、つよく影響しているんでしょう。意識は取り戻しましたが、当分正気にかえることは、むつかしいだろうという話です」  一同はそこでまたほっと暗いため息をついて、長いあいだ黙りこくっていたが、その重っくるしい空気を弾きとばすように、元気な声で口を切ったのは風間であった。 「いや、陰惨な事件で、すっかり気が滅入っちまいました。ひとつ悪魔払いに、熱いやつをいいつけましょう」  そして、かれは手を鳴らした。     結 尾  さて、このドス黒い記録を閉ずるに当たって、私は最後にもう一度、金田一耕助からの手紙を掲げることにする。 [#ここから1字下げ]  Yさん、結局この事件も、あなたのおっしゃる「顔のない屍体」の公式を、大して外れているわけじゃなかったのですが、そこへ一人二役という、別のトリックがからんで来たから、事件が複雑になったのです。あなたはいつかおっしゃった。一人二役は最後まで、伏せておくべきトリックであって、それを読者に看破されたら作者の負けであると。その事は小説のみならず、実際の事件の場合でもそうでした。あの鮎子という女が、お繁の二役であるということを、私が見破った刹那、お繁は完全に敗北したのです。ところでYさん、あなたはこの一人二役を見破ることが出来ましたか。(後略) [#ここで字下げ終わり]  私は正直にいうが、見破ることが出来なかった。読者諸君はいかに? 本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月) 金田一耕助ファイル2 |本《ほん》|陣《じん》|殺《さつ》|人《じん》|事《じ》|件《けん》  |横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》 平成13年10月12日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C)  Seishi YOKOMIZO 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『本陣殺人事件』昭和48年 4月30日初版発行             平成10年 9月20日改版7版発行